219 魔女という名の厄災/奪われた尊厳
いよいよ、全員が後戻りできなくなりました。
琴音も、千弦も、そして魔女も。
そもそも、魔女は後戻りするつもりはないのかも知れませんが。
九重 健治郎
6月26日
千弦が誘拐されてから一週間。
世界は大変なことになっていた。
国連や各国に対し、魔女の名で告知した期限はわずか48時間。
そして、今では中国東海、南海艦隊はほぼ壊滅、残っている艦は片手の指で数えられるのみ。
これは、中国に同調して海軍を動かしたすべての国が同じような状況だ。
特に被害が大きかったのが中国だ。
告知してから3日目、期限の翌日。
河北省と山東省、そして遼寧省の一部は、数時間から約一日連続した地震により、海抜が100メートル以上低下、その大部分が海没。
江蘇省と安徽省はその全域が異常な高温で、最低気温が100℃を超えており、すべての住民と音信不通。
4日目、三峡ダム上流・下流域は連日、一時間当たり1000mmを超える豪雨が続き、不自然な形で三峡ダムが決壊、それでもなお雨はやまない。
中国本土では他にも異常気象が続いており、重慶や深圳、上海などの大都市のほとんどが自然発火した火災と竜巻で、その大部分が灰になった。
人的被害は今も拡大中、遺体が確認されているだけでもすでに三億人を超えているという。
外務省では在外邦人の安否確認だけで悲鳴を上げているそうだ。
外交官の中には、在外邦人の無事を確認するまで帰れないといった挙句、行方不明になったままの人間がダース単位でいるらしい。
南アフリカ共和国は、告知から3日目に全土の鉱山とその近辺がダンジョン化、すべてのダイヤモンド鉱山は閉山。
それだけではなく、4日目には全土が泥濘化し、すべての交通機関を失い、国外へ逃亡することができなくなった。
さらにその泥濘は催奇性の毒性まで持つという。
この毒の泥を除去するためには天文学的な資金と気が遠くなるような時間がかかり、もはや国家として存続することはできそうにないだろう。
ソ連は、その広さで何とか耐えているが、告知から4日目の朝を迎えると同時に主要都市はすべて凍結し、最高気温が-80℃を下回り続けている・・・あれ?ドライアイスのできる温度って・・・。
イランは、告知日から3日目が終わった時点ですべての油田が枯渇した。
調査によれば、すべての原油が固形化し、どのような方法をもってしても汲み上げることができなくなった、と。
さらに、すべての水源が消失し、国境及び海岸線の全てが巨大な砂嵐で包まれ、陸路でも空路でも外に出ることができないそうだ。
これについては日本のエネルギー問題にもかかわるため、魔女に対して浅尾副総理がクレームを入れたところ、即日、伊豆近海及び佐渡近海にそれぞれ二千億バレルを超える埋蔵量の油田を作りだしたというが・・・。
それ以外にも、教会に唆されて軍を動かした国のほとんどが同じような状況だ。
唯一、ベトナムだけは期限を1時間ほど超過したのみで、即座に魔女に対して公式な謝罪と恭順、そして教会への国家を上げた反対を表明した。
おかげで人的被害もなく、いくつかの都市にほんの少しの泥濘が広がっただけですんだが・・・。
結果、人類の損耗は現時点で確認できるだけでも十億人に迫っている。
・・・ぶっちゃけ、地球儀のデザインがかなり変わってしまった。
東シナ海と南シナ海は、中国沿岸部を中心に丸く切り取られたかのような湾が並んでいる。
紅海は、いくつもの隆起や崩落で、船が航行することができない。
アフリカ大陸は、いくつかのクレーターのようなものが山脈のように連なる。
・・・遥香さん、いや、仄香さんは何を考えているんだ?
これまでずっと自分の存在を公表してこなかったのに。
これでは完全に人類の脅威、あるいは厄災そのものではないか。
今俺は、副業・・・いや、表向きの職場である法務省所管の独立行政法人の理事長室の前で、お呼びがかかるのを待っている状態だ。
「九重資料室室長、入りなさい。」
理事長室の扉が開き、中に通される。
「はっ!九重、入ります。」
理事長室に入れば、そこには何人かの見知った顔と理事長、そして風間中将がいた。
「・・・九重君、まさか君が陸軍の諜報機関員だったとはね。しかも、階級は大佐だったと?」
「はっ!いいえ、大佐への昇進はこちらに採用されて以降です。」
「そんなことはどうでもいい。しかし・・・風間さん。こういったのは困りますよ。せめて一言ほしい所ですな。」
「申し訳ありませんが、我々の仕事にご理解を賜りたく。よし。退職手続は終わったな。九重大佐。何か一言あるか?」
「いえ、何も。」
・・・実際には言いたいことが山のようにあるんだが、この状況ではどうでもいい。
マニュアルができてないとか、仕事の流れが共有できていないとか、複数人に横断的にいくつもの仕事をさせるせいで全員のやり方が揃わずロスやミスを誘発するとか、業務のノウハウが属人的すぎるとか・・・。
直立し、何も答えない俺に対し、不満そうな理事長が口を開く。
「何もか。残る職員に対しても何もないのか?」
手続きが終わった以上は、俺はお前の部下じゃない。
風間中将以外の質問に答える義理はないのだが・・・まあいい。
「いえ。何も。退出してよろしいか。」
「ああ。せいぜい人でも殺してくるといいさ。まったく、この時期に職員がごそっと減るなんて・・・」
「はい。命令とあらばあなたでも殺すのが私の仕事です。では。」
目を丸くした理事長を軽くにらみつけ、部屋を出る。
・・・ふん。
銃声も知らない官僚屋が。
俺達相手に嫌味でも言ったつもりか。
廊下では三上中尉以下、陸情二部別調の隊員が揃い、俺に敬礼している。
「九重大佐。全員揃いました。車を回してあります。地下駐車場へどうぞ。」
答礼し、すぐに移動を開始する。
「ごくろう、三上中尉。・・・すまんな、俺の仕事に巻き込んで。」
「いえ。これが私の仕事です。」
いよいよ俺たちは本業に戻る。
そして、場合によっては遺書もなく仄香さんと敵対する可能性すらあるのだ。
ビルの地下にとめられた陸軍の公用車に乗り込むと、白石がエンジンをかける。
「・・・魔女さん、これからどうするつもりだろう?千弦さんを守れなかった俺達としては、彼女に会わせる顔もないんですが・・・。」
これ以上、千弦の探索に割けるリソースはないと情報本部は決定した。
だが、俺は・・・。
「白石。それはお前が気に病むことではない。出せ。」
遥香さんの身体を使っているとはいえ、あの花が咲いたような、優しい笑顔を思い出してしまう。
彼女は、持っている力はまさに人外だが、その心は外見相応の可愛らしい女性のそれだ。
俺は、彼女を前にして再び銃を構えることができるのだろうか。
◇ ◇ ◇
南雲 琴音
腕時計を、見た。
姉さんが、誘拐されてすぐ。
ただ、腕時計を、見ていた。
最初は、あの戦いで魔力を使い切ったのか、極端に疲労しているのが分かった。
初めから肩と腰に被弾しているのは知っていた。
場所が分かれば、すぐに飛んでいって治療をしたかった。
魔力が、ほんの少し回復した。
きっと、誘拐した連中が食事を与えたのだろう。
そして、姉さんはそのすべてを魔力の回復に回したのだろう。
次に、肩と腰の異物反応が消失した。
誘拐犯たちが何らかの手当か、あるいは銃弾の摘出手術をしたのだろう。
この時、姉さんを殺す気はないんだと安心した。
・・・安心してしまった。
そして姉さんの魔力が激減した。
まるで、何らかの戦闘を行ったうえで長距離跳躍魔法を使ったような感じで。
きっと帰ってくる。
きっと家に帰ってくるに決まっている。
期待で胸が震えた。
でも、姉さんは帰ってこなかった。
そして・・・腕時計の表示器が、真っ赤に染まった。
見たくはなかった。
でも、見てしまった。
初めに左手の小指、次は、右手の小指。
姉さんが切り刻まれていく。
思わず叫んでしまった。
すぐに和香先生が飛んできて、腕時計を奪われてしまった。
奪われる寸前に見た腕時計の表示器では、無事な手足はなかった。
・・・それでも姉さんは生きている、とみんなは言った。
遥香にもらったペンダントは、何の信号も受信していなかったけど、私と姉さんをつなぐ唯一の道標だと思って、それをつけていることを誰にも話せなかった。
連日、ニュースは世界中で大きな災害が起きていることを報道し続けている。
今日は中国のどこかが海に沈んだ、今日はブラジルのアマゾン川か干上がった、今日はソ連のどこかの町が凍り付いた、と。
すべて仄香がやっているのだろう。
そんなことで姉さんが返ってくるのだろうか。
腕時計を奪われてから何日たった頃だろうか。
ペンダントから強烈な反応があった。
寒い。痛い。苦しい。
悲しい。寂しい。
そして・・・憎い。
恐怖と絶望、そして憎悪。
姉さんが姉さんではなくなっていくような、喪失感。
世界中のすべてに見捨てられたかのような、孤独感。
思わす叫んだ。
そうしたら・・・宗一郎伯父さんと和香先生、そして顔見知りの看護師たちに鎮静剤を打たれた。
そして、目が覚めた時、ペンダントからは何の信号もなかった。
・・・姉さんは、確実に死んだと分かった。
そこからはもう、判断が早かった。
病室内を見渡すと、特別室だけあって専用の洗面台があった。
よし、水魔法でいいか。
でも、エルがじっとこちらを見ていた。
だから、エルが作った薄紫のワンピースに袖を通し、病院の売店までお菓子を買いに行くよう、誘った。
顔を洗うフリをして蛇口を開き、タオルを取ろうとエルが後ろを向いた瞬間、私は自分の胸に向かって最大出力で水槍魔法を打ち込んだ。
不思議と、痛みはなかった。
赤いものが盛大に、部屋の中にぶちまけられた。
・・・あ。廊下まで飛んだんだ。
病室の外で誰かが悲鳴を上げてるよ。
手で胸を触ると、思ったよりも小さな穴が、胸の中央に空いていた。
なんだ、上半身がなくなるくらいの魔力を込めたのに。
エルが、悲鳴を上げている。
そんな声、初めて聴いたよ。
可哀想なことをした。
せめて、強制睡眠魔法を・・・もう無詠唱でいいか。
ジリ、と神聖魔法の精神汚染が広がる気配がする。
ああ、こんな感覚なのか。
でも、これで、姉さんに会える。
せめて、あの世で私だけは姉さんの味方だよ、と伝えようと思った。
そう思って目を閉じた。
◇ ◇ ◇
仄香
私は今、長距離跳躍魔法で中国大陸の上を西に向かって跳躍していた。
眼下には、炎や洪水、泥濘や氷に飲み込まれた、いくつもの都市や町、村が見える。
何人、いや、何十億人の生命を奪っただろう。
おそらくは、いや確実に、私が殺した人間の数は、この一週間でそれまでの倍を超えている。
だが、この魂の渇きは癒えることがない。
頭の中で千弦の困った顔が、少し怒って膨れた顔が、そして笑顔が流れ続けている。
この先、どれだけ歳を経ても、もう消えることはないだろう。
そして、いつの間にか遥香の声が聞こえなくなった。
それはそうだろう。
彼女にしてみれば、私のせいで自らの手が、取り返しがつかないほど血に塗れていくのを眼前で見ているのだから。
歯を食いしばり、前を向く。
今、向かっているのは陸情二部から情報提供があった、教会の本拠地と思われる町、スイス・イタリア国境付近のスイス側の、地図にない町だ。
シルヴァエ・オブスクラエ。
アマリナの術式で自称聖女たちから盗聴した町の名前。
地球の丸みのかなた、その街が見え始めるよりも早く、魔法の詠唱に入る。
「発動遅延、セットワン!二千連唱!万物の礎にして第一の力を伝えし影なきものよ。速き理を統べし第三階梯第二位の根源精霊よ!我は今、一筋の雷霆を以て汝を目覚めさせんとするものなり!」
遥香の身体が悲鳴を上げている。
これ以上、ムリはできないか。
もう、救うべき少女はこの世にいない。
であれば、あそこにはもう、「人間」はいない。
周囲の動植物や環境に多少の被害が出るか、あるいは地球の自転速度がほんの少し速くなるだろうが、それこそ知ったことではない。
「輝きの根源精霊よ!今、我は大いなる言霊のもとに汝を束ね、無敵の槍と成さん!その鋭き穂先で、幽遠たる星海を穿ち抜け!」
イタリア側の山の峰に降り立つと同時に、発動遅延状態の魔力を全開放する。
「セットワン!全解放」
もはや音とも思えないような轟音とともに、二千本の光の槍が垂直に谷間を耕していく。
ちらりと見えた金銀装飾で彩られた聖堂のような建物には、それはそれは大きな教会の象徴である逆三角形に逆さYの字が飾られていた。
一瞬、わずかな一瞬だが、結界のようなものが私の魔法に抵抗する。
さあ、教会よ、出てこい。
私が相手をしてやるぞ!
少しは期待していた。
私をここまで苦しめた存在が、私の思わぬ方法で抵抗するのではないかと。
だが、今は見事な穴の底だ。
底のほうに赤いマグマのような輝きが見えるが、底まで何キロあるかはもうわからない。
・・・くそ、面白くもない。
これで終わりか?
あのくそ野郎、気持ちの悪いストーカー男が、こんなところでおしまいか?
・・・あ。
確かここの本部のどこかにフィロメリアの魔石があるんじゃなかったっけ。
巻き込んだ拍子に壊しちゃったかもしれないな。
・・・どうでもいい、とっとと帰るか。
でも、帰る場所なんて・・・。
大きな噴火口のようになった穴の横で、輻射熱で燃え始めた木にもたれかかる。
・・・いっそ、すべての防御障壁を解除して死んでしまおうか。
やるなら遥香に完全に身体を返してからになるな。
そんなことを考えていた時、念話のイヤーカフから怒鳴り声のようなものが響き渡った。
《聞こえるか!仄香さん!今すぐ戻ってきてくれ!琴音が自殺を図った!胸に大きな穴が!これじゃ手術もできない!早く!》
《なんですって!?今すぐ行きます!どうしてそんなことを!》
《わからない!現場にいたエルさんは強制睡眠魔法で寝かされたままだ!見ていた人間がいないんだ!くそ、これじゃあ心臓マッサージもできない!だれか和香さんを呼んでくれ!ぼうっとするな美琴!せめて氷を!頭を冷やして脳死を遅らせる!》
そんな、なぜ!?
いや、腕時計は取り上げた。
あの輸送船に千弦が乗っていることなんて話してない。
・・・琴音が、千弦の死亡を知るはずがないのに!
《今すぐ行きます!》
慌てて長距離跳躍魔法で大地を蹴り、日本に向かって跳躍する。
最大速度、マッハ32。
第二宇宙速度の一歩手前の速度が、恐ろしく遅く感じる。
距離にして、約9500km。
時間は約15分。
自殺の仕方次第では、人格情報と記憶情報が揮発するのに十分な時間だ。
・・・お願いだ、琴音。
お前まで行かないでくれ。
◇ ◇ ◇
向陵大学病院の特別室がある別館の前に降り立ち、身体強化をかけたまま琴音の病室に向かって駆け込む。
そこには・・・最悪の光景が広がっていた。
「仄香さん!早く回復治癒魔法を!」
宗一郎殿が叫んでいる。
その前のベッドには、胸にテニスボールが通過するほどの風穴があいた琴音が、ベッドの上で横たわっていた。
私は呆然としながら、その身体に触れる。
水槍魔法?
正面から自分に向かって?
いくつもの重要臓器を打ち抜き、心臓の右半分を消失させ、気道、食道、大動脈はおろか、脊椎までもなくなっている。
顔に、触れる。
血の気のなくなった顔は、冷え切っていて表情がまるでない。
そんなことより・・・。
「人格情報が・・・記憶情報が、ない。すべて、揮発・・・している。琴音。脳は無傷なのに、なぜ・・・。」
普通なら、人格情報も記憶情報も残っていそうなのに。
遥香が人格情報のバックアップを取ってくれていたが、もうかなり前のデータだ。
おそらく、記憶情報があっても蘇生はできないだろう。
「仄香さん!なんでもいい!とにかく、回復治癒魔法を!そうしないと、間に合わない!琴音まで死なせたら、美琴もエルさんも、千弦も浮かばれない!」
「う、あ、ああ・・・。琴音、琴音・・・。」
グローリエルが琴音に縋り付いて泣いている。
美琴は、泣きながらこちらを見て、ただ一言、「あなたさえいなければ」と言った。
そして、私は、琴音の魂の入っていない身体を・・・蛹化術式で治すことになった。
今日、この瞬間。
私は双子を、完全に失った。
◇ ◇ ◇
チヅル/南雲 千弦
6月25日
ベトナム、チューライ空軍基地から輸送機でいくつかの空港を経由し、ノルウェー、オスロ空港に到着した。
空港をセレナが押す車椅子で移動する。
私の手足は、バシリウスによれば予備パーツがないとのことでまだ修復されていない。
あれから何度か薬を打たれた。
人格抑制剤、と言っていたが、結局どんな効果があるのか分からないままだった。
私の身体は、バシリウスにより、壊死しないようにと両手足を根本から切断し、断面の処置を終え、右目右耳、そして顎をリュシアたちの予備パーツに差し替えられている。
切断された手足は、今頃は南シナ海の海の底だ。
あれから彼らの目を盗んでいくつかの魔法を発動しようとしてみたが、何一つ発動しなかった。
術式にいたっては、術式回路を刻むための両手がないため、ほぼ絶望的だ。
「涙が、でない。なぜ・・・?」
あの時、目が覚めてリュシアに運び出された後、輸送船内に隠されていた内火艇で輸送船を離れた。
内火艇から、輸送船が爆発、炎上して沈んでいくのが見えた。
日本海軍によるミサイル攻撃だったそうだ。
・・・リュシアに、スマホで日本のニュースを見せてもらった。
南シナ海で、日本海軍の艦隊が中国艦隊と交戦し、勝利した、と。
同時に、国際条約で禁止されている兵器を運搬する輸送船を撃沈した、とも。
なぜわざわざ日本の艦隊がそんなところまで来た?
ニュースの記事を見ると、与那国分遣隊の旗艦、巡洋艦「与那覇」が被弾した写真があったが・・・。
あそこの艦隊には、相手の船に乗り込んで制圧するための特殊部隊は所属していない。
つまりは最初から人質奪還作戦ではなかった、ということだ。
それに、おそらく日本の艦隊が撃沈したという「輸送船」は、私が乗っていたRORO船の事だろう。
そう・・・初めから助ける気などなかったのだ。
そして、別の第三国のニュースの翻訳記事によれば、スプラトリー諸島を含む南シナ海南東部が、謎の爆発により、その場に展開していた中国艦隊もろとも消滅したらしい。
その記事によれば、遠く離れたシンガポールでも爆発の時に立ち上がった水柱とキノコ状の雲が確認されたという。
それだけの火力を持つ存在など、魔女をおいて他にはいない。
同時に、その爆発に巻き込まれて私が無事なはずはない。
・・・つまりは、仄香が、私を助けるのを諦めたということだ。
私は、見捨てられた。
もう仄香は来ないし、日本政府、いや、九重の爺様は私の生命よりも国家の安全保障を優先したのだ。
琴音は、母さんは、父さんは・・・。
私を失って悲しんでいるだろうか。
理君は、私のことを想ってくれるだろうか。琴音の中に、私の面影をみてくれるだろうか。
寒い。痛い。苦しい。
悲しい。寂しい。
そして・・・憎い。
チャリ、と私の胸で、答えるように青い宝石のペンダントが揺れている。
でも、涙は一滴もでない。
今は時々バシリウスに打たれる注射で、何もかも忘れられる瞬間が何よりも救いになっている。
「ねえ、ドクター。チヅル、すごく静かになったね。もしかしてもう人格も消したの?」
「いや、抑制剤は感情の起伏をフラットにできるだけじゃ。本格的に人格を消去するのはもうしばらく後じゃな。」
「ふ〜ん。じゃあ、消去する前に一度人格を戻すんだよね?私の時みたいに。そしたら一晩だけ私に貸して。壊さないから。」
「却下じゃ。セレナ。そう言って今まで何人壊してきたと思っとる。それに、先約があるでの。」
「先約ぅ?ぅげ。もしかしてワレンシュタインのロリコン野郎?もういい加減にして欲しい。」
「そうさの。ま、今回は儂もそう思うがの。・・・いっそ、ホムンクルスか何か作って、宛がえばいいか?いや、それだとそもそも妊娠しないし・・・。」
「ドクター。それならチヅルの子宮と卵巣だけホムンクルスに移植してみたら?戦闘には必要ない臓器でしょ。どうせ捨てちゃうだろうし。」
「ふむ。面白い。儂は卵巣から卵子を少し保存しておければ良いし、セレナのアイデアを採用しようか。」
・・・バシリウスたちが何語かで何かを言っているが、もうどうでもいい。
煮るなり焼くなり、好きにして欲しい。
だって、もう私を助けに来る人は一人もいないし、この身体では理君とデートもできない。
たぶん、誰も私だと気づかない。
もう、豚の餌にでもなんでも、勝手にすればいい。
◇ ◇ ◇
寝台のような、湾曲した工作台のような上で目を覚ます。
全身を何かの配線につながれていて・・・。
妙な感覚。
それまでずっと寝ぼけていたような、あるいは自分が自分でなかったような感覚。
今まで感じていなかった恐怖が堰を切ったように襲ってくる。
「よし。人格抑制剤の効果が完全に切れたな。では早速、改造転換術を開始する。リュシア、機材の準備を。」
「はい。ドクター。」
人格抑制剤が切れた!?
改造転換術を始める!?
しまった!何を私は呆けていたんだ!
こいつら、本気で私のことを改造する気か!
「くそ、離せ!やめて、やめてってば!」
何日ぶりか分からないけど、妙にさっぱりした頭の中で危険信号が空襲警報みたいな音を立てている。
とにかくまずい!
何か、わからないけど、それをされたら本当に終わってしまう!
リュシアが機材の電源を入れると、全身を焼く何かが私をつつみこむ。
「きゃあああああああああああああああっ!!!」
叫びが喉を裂く。
「よし。不要な臓器を摘出する。・・・ああ、子宮と卵巣は無傷だな。それはホムンクルスに移植するから丁寧にな。」
「はい、ドクター。」
メスのようなものが下腹部に刺さり、突き刺すような痛みと、かき回すような痛みが脳を襲う。
「痛い痛い!あああああああ!」
せ、せめて、麻酔を・・・!
だめ、それは私の大事な・・・!
返して!返して返して返して!
「さて、循環器系は最新型だ。喜べ。魔力の通りも最高効率だぞ。」
焼け焦げたような匂いが鼻をつき、内臓が引きずり出され、何か得体のしれないブヨブヨしたパーツに置き換えられていく感覚が、私の意識を引き裂く。
痛い、痛い、痛い痛い痛い、こんな、こんなもの・・・人間の痛みじゃない、こんなの・・・!
「神経系はナノテクノロジーをふんだんに使ってあるからのう。神経伝達が光の速さじゃ。喜べ。リュシアにもセレナにも未搭載じゃぞ。」
全身の神経が、火花を散らしながら引き剥がされ、溶接され、ねじ込まれていく。
息ができない。胸が焼ける。
「やめて!やめてぇ!!やめてぇぇぇぇぇぇっっ!!!!!」
涙が、涸れるほど流れる。
喉が裂けるほど泣き叫ぶ。
でも、その声に、返事はない。
代わりに聞こえてきたのは・・・。
「おやおや、ずいぶんといい声で泣くじゃないか、チヅル。はははっ、おぬしの声帯は優秀だ。今度、音響兵器にでも使えるか試してみるかな?」
バシリウス・モルティスの、冷たくて、底の見えない、悪意と愉悦が入り混じった、ぞっとする声だった。
私を切り裂き、改造し、バラバラにしていく、その手が動くたび、私の身体の一部が失われていくたび、その嗤い声が、耳の奥にこびりついて、脳の奥にまで突き刺さる。
「く、くはははは!セレナじゃあないがこれはたまらないな!チヅル。おぬし、魔女のフリができるほど強い魔法使いじゃなかったのか?それとも、痛いのが怖いのかのう? ははははっ、可愛いのう。」
「やめて、やだやだやだやだ!!!」
叫んでも、無駄だと分かっているのに、叫ばずにはいられない。
痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、死ぬ、殺される、壊される・・・いや、死なせてもらえない!!
「死なせて・・・殺してよ、お願いだから、殺してぇ・・・」
喉から絞り出す声は、かすれ、涙と血でぐちゃぐちゃになって、もう言葉にもならなかった。
「おっと、それは困る。おぬしには大事な役目があるんじゃよ。そうさの・・・人格消去の工程は、最後に回しておこうか。おぬしがどれだけ泣き叫ぶのか、見届けてみたくなった。」
クツクツと喉の奥で笑いながら、バシリウスの指が私の頭蓋を撫でる。
その指先が冷たくて、ざらざらしていて、蛇みたいに気持ち悪くて、吐きそうになる。
「見てみたまえ、おぬしの新しい姿を。ほら、鏡じゃ。肩に生えたそれ、翼のようじゃろう? それは聖釘波動増幅装置じゃ。胸のこの部分はどうじゃ?人工魔石を四つも搭載しているから、魔力切れはほぼない。なんと魔導兵装も感情波動共鳴装置も最新型だ。ああ、いい顔だ、その絶望に満ちた眼・・・実に、実に美しい。」
私の中の何かが、ガラガラと崩れていく音がした。
理君・・・。
こんな姿、見せられないよ・・・。
琴音・・・。
ごめん、やっぱりもう二度と、帰れないみたい。
心が裂ける。息ができない。
「仄香・・・」
嗚咽混じりにその名前を呼ぶ。
「お願い・・・助けて・・・私、もう、私じゃなくなるっ・・・私、消えちゃう・・・仄香、お願い・・・助けて、お願い、お願い・・・っ!」
もう、何も見えない。
でも、声は、耳の奥で笑い続けていた。
「いいぞ、いいぞ、その顔だ。その涙だ。その悲鳴だ。もっと、もっとだ、チヅル。おぬしは儂の最高傑作になる。」
いつの間にか接続された手足と、腹の中の気持ち悪い感覚。
でも、なぜかすべてが思い通りにならない、吐き気のする感覚。
「ドクター。そろそろです。」
「む。・・・いかんな、楽しみすぎたか。ではの、チヅル。さよならじゃ。目が覚めたら儂の素晴らしい人形になっておくれ。・・・リュシア。後を頼んでよいか?」
「はい、ドクター。お任せを。」
うすぼんやりした感覚の中、一人の足音が遠ざかる。
ああ、私が、消えていく。
「・・・チヅル。これは私からの餞別です。辛いことばかりではありません。せめて、その魂が安らかに、約束の地を踏めるよう・・・。」
何かが、私の首にかけられる。
・・・ああ、琴音とお揃いのペンダント。
琴音、私の分まで生きて。
意識が消えていく。
左の耳元で何かがチャリ、と音を立てる。
『姉さん!姉さん!私だよ!琴音だよ!まだ死んでなかったの!?よかった、一緒に帰ろう!?みんなが待ってるよ!』
・・・?
琴音の声が、聞こえる。
これは・・・幻聴、か。
神様は信じていなかったけど、なかなか粋なことをするじゃないか。
今度、神社に行く機会があったら、500円と言わず千円くらい入れてあげよう。
でもちょっと帰れないんだよなぁ。
なんてくだらないことを人生の最後に考えながら、私の魂は闇に飲まれていった。
まさかの教会本部襲撃。
そしていきなり全力攻撃。
哀れ、忘れられたフィロメリア。
え?
そりゃあ・・・助かりませんよ。
今頃は南極の氷の下で死んでるかも。




