201 死者の襲撃/ナーシャの戦い
ナーシャ(蓮華・アナスタシア・スミルノフ)
5月14日(水)深夜
ハナミズキの家
夕方、通信高校の夜間部授業の最中だというのに、戸田先生から慌てた様子で電話がかかってきた。
なんでも、夕食後、大翔君がふざけて階段で転倒した拍子に、下にいた子供たちを巻き込んで一緒に落ちてしまったらしい。
巻き込まれた子供は3人だが、うち1人は足の骨を折る重傷、残りの2人も頭を切ったり胸を打ったりして検査が必要らしく、戸田先生だけでなく宿直の十さんまで付き添っていかなければならない騒ぎになってしまった。
徒歩で通える範囲に住んでいたあたしはその知らせを受け、慌ててハナミズキの家に駆けこんだ。
「戸田先生!救急車は!?」
「ナーシャさん!5分前に呼んだわ!・・・あ!サイレン!」
救急車よりも早く到着していたのか。
通信授業の先生には緊急事態であることを理解してもらえたが、代わりに録画授業を見てレポートを提出するように言われてしまった。
そんなことはどうでもいいか。
あたりを見回すと、大翔君が廊下の端で頭を抱えるような姿勢で小さくなっている。
「あ!・・・ナーシャ姉ちゃん!おれ、そんなつもりじゃなかったんだ。蓮のやつが踊りだしたから一緒に踊ろうとしただけなんだ。」
「蓮君が踊ってたからって大翔君が同じことをしていい理由にはならない。廊下や階段で遊んだら危ないって言ったよね?これでどうなるか分かった?もう二度としちゃだめよ。」
「・・・うん。でも蓮だって・・・。」
「笑理ちゃんにケガをさせたのは君だよ。蓮君のせいにしない。責任から逃げるな。逃げる男はカッコ悪いぞ。」
「う・・・。」
まあ、小学校1年生くらいならこんなもんだろう。
足の骨を折った笑理ちゃんをストレッチャーに乗せ救急隊員が連れていく。
「ナーシャさん!すぐにほかの先生が来るからそれまでお願い!・・・出してください!」
戸田先生が救急車に付き添い、頭から血を流している女の子と胸を打った男の子を連れて十さんが園の車に乗りこむ。
すぐに救急車は走り出し、十さんの車もそれを追うように走り出した。
興奮している子供たちを何とか落ち着かせ、ハナミズキの家に入ろうとした時だった。
門のところに、顔色の悪い中学生くらいの少女が立っていた。
ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
・・・見たことがない子だ。
ハナミズキの家は大規模な児童養護施設だ。
だが、あの年齢の子が入園したなんて聞いてない。
「ス、スんまセン、チょっと道・・・教えテもらえマスやろカ。」
耳障りな雑音の混ざる声と、ぎこちない動きで少女はこちらに歩み寄る。
それに、こんな時間に道を尋ねる?
反射的に腰のポーチに手をやった瞬間だった。
突然少女は走り出し、背中から何かを引き抜いた。
それは・・・刃渡りが30cmを超える、剣鉈だった。
人間とは思えない速度で走り出した少女は、右手で握った剣鉈の柄尻に左手を添え、閉まりかけた正面玄関のガラス戸に直撃する。
強化ガラスで作られたガラス戸は一瞬大きな音を立てるも割れることもなくその少女をはじき返した。
「な!何!?この子、何なの!?」
「きゃあぁぁぁ!」
「うわぁぁぁん!」
思わずうろたえてしまったが、私の後ろにはまだ部屋に戻っていない子供たちが何人もいる。
小さな子たちは驚きのあまり凍り付き、あるいは泣き叫んでいる。
「みんな!3階に上がって!中学生以上の子は小学生の子を自分の部屋にかくまって!中学3年の男子は1階と2階に誰も残っていないかを確認!すべてのドア、窓のカギをかけて!人数を確認したら部屋の戸締りをしっかりして!女子はすぐに警察に連絡!」
周囲を見回し、みんなに指示を出すが・・・中学生でもすぐに動けたのは男子数名のみ。女子は一緒になってパニックになっている。
だが・・・その数名がカギを閉めに走り、1階に残された子供がいないかを見て回り、子供たちを上の階に押しやる。
だが、そうしている間にも正面玄関のガラスを顔色の悪い少女は剣鉈でたたき続ける。
「ナーシャ姉ちゃん!電話が通じない!ケータイもだめだ!」
1番最初に動いてくれた少年が叫ぶ。
「裏口にもなんかいる!顔が・・・ゾンビみたいだ!」
次に動いてくれた少年も叫んでいる。
ゾンビ?
普通なら「何をバカなことを!」と叫ぶんだろう。
だけど、紫雨君から壮介君と陽菜ちゃんがアンデッドにされたことを聞いている。
だから、私はその存在を知っている。
「1階に1人も残ってない?じゃあ、君たちはもう2階に上がって!西階段と北階段の両方の防火扉を閉めて!2階の自習室と遊戯室からイスとテーブルを運んでバリケードを作って!」
「ナーシャ姉ちゃんはどうするんだ!?」
・・・紫雨君の話のとおりなら、バリケードも数分持つかどうか。
それに、中学生の力では、こいつら相手に1発も持たないだろう。
「うるさい!早く行け!あたしの言うことが聞けないのか!」
あたしの剣幕に驚いた男子は、慌てて2階に駆け上がる。
そして、ガラガラ、という音とともに防火扉が閉まり始めた瞬間だった。
バリン、ガシャンという音とともに、正面玄関、そして裏口から聞きたくない声が響く。
「まだ防火扉は閉まってないっつうの。美代さん・・・術札、ありがたく使わせてもらいます。」
あたしは、ポーチから引き抜いた術札を構え、閉まりかけの防火扉を背にして目の前の顔色の悪い少女をにらみつけた。
「ス・・・スんマせん。道を教えテ・・・ウチ、イエに帰リ・・・グ・・・ガアァァァァ!」
この身に代えても!
あたしは渾身の力を込めて、突き出した手の術札を起動した。
◇ ◇ ◇
1時間くらい経ったか?
・・・ダメじゃん。
まだ10分しか経ってないじゃん。
・・・我ながら頑張っているとは思う。
目の前には感電して動けなくなったアンデッドが1体。
向こうには、鉄製の書棚に潰された少女のアンデッドが1体。
最初に襲ってきたやつだ。
そして、今、まさに襲い掛かろうと身構えるアンデッドが・・・6体。
美代さんからもらった術札は、攻撃用が2種類。雷撃魔法と空間浸食魔法。防御用が1枚。防御障壁術式。回復用が2枚。回復治癒魔法と解毒殺菌魔法。逃走用が2枚。緊急離脱術式と長距離跳躍魔法。
・・・逃走用は今回、用はない。
子供を置いて逃げる気はない。
だが、空間浸食魔法も使えない。
・・・攻撃力が高すぎるのだ。
在日米軍の敷地内で使わせてもらったのだが、一撃で大型トラックをズタズタにするような威力の物を、こうも狭い室内で使えば壁や柱を壊してしまう。
柱が折れれば、天井が崩れれば上にいる子供たちを危険にさらす。
「ク・・・カカカカカ!」
アンデッド・・・スケルトン?とにかく、何とかしないと!
「く!・・・えい!」
雷撃魔法を使い、襲い掛かるアンデッドの身を焼くが・・・それほどの効果が出ているとも思えない。
感電している間は床でのたうち回っているのだが、感電がおさまると再び起き上がって襲い掛かってくるのだ。
だから、実質行動不能にしたのはまだ1体だ。
ガキン!という音がして防御障壁が砕ける。
すぐに障壁を展開するが、わずかな間にアンデッドに襲い掛かられ、爪で引っかかれ、嚙みつかれる。
「う・・・くそ、左手が・・・。」
激痛が走り、左手を見ると薬指と小指、そして中指の半分がない。
先ほど噛みつかれたときに持っていかれたようだ。
「回復治癒!・・・ふ、く!」
回復治癒魔法の術札を使えば痛みはすぐになくなる。
だが、失った指が生えてくるわけではない。
左手の薬指・・・あたしはもう、結婚指輪を嵌めることはできないのか。
自分の身体を失ったことに対する衝撃で、一瞬身がすくんだその時だった。
「ガアァァァ!」
死角となっていた空間から、顔が崩れかけた男のアンデッドが襲い掛かる。
反射的に左手で防御障壁術式の術札を振りかざした時、あたしは指がないことを忘れていた。
チャリン、という情けない音がして、アンデットの向こうにその術札が落ちる。
「しまった!きゃああぁぁぁ!」
完全に防御障壁が消失した隙をついて、数体のアンデッドがあたしに群がる。
ゴリ、ボキ、という音が右足、そして左腕から聞こえる。
「ああああぁぁぁ!助・・・・ぐぅぅ!」
だめだ!助けなんて呼んだら!
防火扉を開けて子供たちが下りてくるかもしれない!
何かないか!
何か!
唯一無事な右手を腰の後ろのポーチに伸ばした時、カチャ、と術札とは違う、小さな札に手が触れた。
・・・これは!召喚符か!
「なんでもいいから来て!」
血塗れの床でアンデッドに押しつぶされながら、握りしめた4枚の召喚符に一斉に起動信号を送ったとき・・・。
アンデッドの内の1体が首にかみつき、あたしの首をゴリ、という音ともにひねった。
息が・・・できない!
その瞬間、視界が暗くなり・・・。
意識が消失した。
◇ ◇ ◇
何秒気を失っていたのか。
ハナミズキの家の正面玄関はガラスを砕かれ、ロビーは血で染まり、倒れたあたしの身体には6体のアンデットが群がっていた。
ゴリ、ボリ、と不快な音を立てている。
・・・首から下の感覚がない。
痛みも、分からない。
少し離れたところに落ちた円盤状の術札は、光を放ち、1体の戦士、そして3体の人ならざる者の姿を形作っている。
剣と盾を持ち、革の鎧を身にまとった壮年の戦士は目を丸くして周囲を見渡している。
「む・・・これは・・・いかん!助けるぞ!フレーズルグ!アマロック!」
戦士は叫んで剣を振るい、アンデッドを切り払い、蹴り飛ばす。
「ゴアァァ!」
それを追うかのように、火の翼をもつ子犬ほどの大きさのドラゴンが蹴り飛ばされたアンデッドの首をかみちぎる。
「グルルル!」
身体の一部を失いながらも、しつこく起き上がろうとするアンデッドたちを仔馬ほどの大きさの狼が踏みつぶし、その首をひねる。
玄関横にあった水槽から、何かが這いだしてレーザーのような水を吐き、残るアンデッドの首を飛ばす。
そうして、すべてのアンデッドを倒した後、戦士はあたしを抱き上げ、ロビー横の応接室のソファーに寝かせた。
「すぐに治療をしないと!・・・首の骨が折れている。チェフレン!そこにある回復治癒の術札をこちらに・・・。よし、ギリギリ出血は止まったが・・・。」
魚竜、いや、手足の生えた大ウナギのようなモノが咥えて持ってきた術札を使い、戦士はあたしの手当てを行った。
・・・だけどやっぱり首から下の感覚がない・・・。
でも、そんなことより・・・。
「ゴフっ・・・子供たちは・・・無事?・・・2階には、奴らは・・・行ってない?」
「ああ、某、アバルと彼らがすべて倒した。2階には1匹も上がらせていない。それよりマスター。応急処置はしたが、早く手当てをしないと命に係わる。誰か、助けを求められる相手はいないのか?」
「助け?・・・紫雨君・・・どこにいるの・・・美代さん・・・。ああ、これ・・・念話のイヤーカフ・・・あはは。使い方、わかんないよ。」
「マスター。その念話のイヤーカフで、助けを呼べばよいのだな。では、少し失敬を。」
アバルと名乗った壮年の戦士は、あたしの耳からイヤーカフを外し、握りしめて何かを念じた。
そして・・・10秒ちょっとしたころ、ガラスが砕けた正面玄関に、一陣の風と共に誰かが降り立った。
玄関先で一瞬驚いたような声が聞こえたけど、そのまま応接室に飛び込んでくる。
「ナーシャさん!・・・これは・・・何があった!それに君たちは!待ってて!今すぐ母さんを呼ぶから!」
紫雨君・・・来てくれたんだ。
母さん・・・?ああ、美代さんのことだっけ。
・・・あ。
「・・・紫雨君・・・美代さんは、呼ばないで。あたしは・・・美代さんに、顔を合わせられない・・・かもしれない。」
もし、あの夢が真実なら。
誰かを傷付けて、自分の都合のいい時だけ助けを求めるようなことをしたら。
美代さんに軽蔑される。
警察署や、鑑別所や、児童相談所の職員の、蔑むような、汚いようなモノを見る目・・・。
そんな目をした美代さんに見られたら・・・。
「そんな!こんな傷、母さんじゃなければ治せない!他にだれか・・・あ!琴音さんなら!」
「こ・・・と・・・。」
その名前を、こんなところで聞くとは・・・。
でも、まあ、あたしのこのザマをみて、溜飲が下がれば・・・。
それも悪くないか。
さっき、意識が飛んだのとは少し違う感覚で、世界がゆっくりと暗くなっていった。
◇ ◇ ◇
水無月 紫雨
ナーシャさんに渡したはずのイヤーカフを通して男性の声が当然聞こえたときは何があったのかと思った。
男性によれば、ナーシャさんが召喚したアバルという戦士らしい。
ケルトの口伝で聞いたような記憶があるが・・・。
とにかく素早く身支度をしてビジネスホテルから飛び出し、長距離跳躍魔法でハナミズキの家の玄関先に向かった。
玄関先に到着して驚いたのは、1階の窓という窓のガラスが破られ、正面玄関のガラスも同じく砕け散っていたことだ。
そして、玄関ロビーから2階に上がる階段には防火扉が降ろされ、ロビーは血の海になっていた。
数体の遺体が転がっていたが、それらは傷口からの出血がないことを見ると、アンデッドだったようだ。
ロビーの奥、応接室のソファーに寝かされていたナーシャさんを見たとき、思わず息をのんでしまった。
・・・全身が、食い荒らされている。
左手は、肘から先が白い骨が見えている。
足は、両方とも歯形だらけでふくらはぎは両方とも抉り取られたかのようになっている。
身体の前面は、何か所も皮が剥ぎ取られ、血が凹みにたまっている。
それだというのに、なぜかナーシャさんは母さんを呼びたくないという。
となれば・・・。
スマホで琴音さんに電話をしようとするが・・・くそ、圏外だ!
「仕方がない。母さんの術式だから、何とか割り込めるか?・・・そう、起動キーは琴音さんのイヤーカフを触ったときに覚えている。琴音さんのシリアルキーは・・・よし、特定できた。現在地は・・・自宅か。」
「紫雨殿だったか。我々は応急処置しかできない。マスターを助けられるか?難しいようなら人を呼ぶが・・・?」
「大丈夫だ。すぐに助けを連れてくる。君たちはナーシャさんを頼む。」
そう言って玄関から飛び出し、長距離跳躍魔法の詠唱を行う。
「勇壮たる風よ!汝が翼を今ひと時我に貸し与え給え!」
薄曇りの夜空を、東に向かって極超音速で駆けていく。
最短距離にして950km。
最高速度、マッハ32。
第2宇宙速度、マイナス340m/s。
この星の重力を振り切る寸前の速度で飛んでいるにも関わらず、往復3分以上かかってしまうことに、苛立ちが募る。
「急がないと!琴音さん!君だけが頼りだ!」
気の遠くなる1分半が過ぎ、南雲家の玄関先に降りたとき、そこにはなぜか遥香さんの姿をしたシェイプシフターと、猫ちゅーると猫じゃらしを持った琴音さんが驚いた顔をしてこちらを見ている姿があった。
◇ ◇ ◇
南雲 琴音
みんなと一緒に仄香との勉強会を済ませ、姉さんと一緒に帰宅してテレビを見ていたら新しい味の猫ちゅーるが発売されたことを知り、じゃんけんで負けて私が買いに行くことになり・・・。
そして二号さんと一緒に近くのコンビニに行って新発売の猫ちゅーるカニミソ味を買ってきた帰りだった。
二号さんと猫じゃらしで遊びながら玄関のカギを開けようとしていた時、突風とともに玄関先に紫雨君が降り立ったのだ。
「琴音さん!今すぐ来てくれ!瀕死の重傷患者がいるんだ!」
「え?あ、うん。別にいいけど、仄香のほうがいいんじゃない?私、蛹化術式までは使えないよ?」
「ナーシャさんは、なぜか母さんに会いたくないらしい。でも、今すぐに治療しないと間に合わない!お願いだ!」
ナーシャ・・・誰だっけ?
でもまあ、紫雨君の頼みなんだ。
親の仇でもない限りは助けるしかないだろう。
「いいよ。二号さん。これ、持って家に入って。姉さんには紫雨君と一緒だから心配ないって言っておいて。」
「助かる。何か必要なものは?準備が必要?」
「大丈夫。姉さんじゃないけど、常に一式そろえるようにしてあるから。で?行先は?」
そういいながら玄関先の傘立てに立てかけられた業魔の杖に手を伸ばす。
この杖、何度仄香が持って行っても戻ってきちゃうんだよな。
学校にもついてくるし。
それに、最近、いろいろあったからね。
家にいるときも出かけるときも、常に最低限の装備は身に着けるようにしているのだ。
リングシールド、フレキシブルソード。野外緊急手術セット。
そして自動詠唱機構も魔力貯蔵装置も、高圧縮魔力結晶も。
「佐世保だよ。行くよ!勇壮たる風よ!汝が翼を今ひと時我に貸し与え給え!」
え。佐世保って、九州の?
ここから1000kmくらいなかったっけ?
そんな疑問を口に出す間もなく。
私の身体は空高く跳躍していた。
・・・まあ、外国じゃないしいいか。
入管法にも引っかからないし。
完全にマヒし始めた感覚に少し戸惑いながらも、私は1分ちょっとの星空を楽しむことにしたよ。
◇ ◇ ◇
保育園?それとも孤児院?
白いタイル張りの4階建ての建物で壁面には花や鳥が描かれていて、庭先には子供向けの遊具が並んでいる。
ケガをしているのは子供か?
でもそれならなぜ仄香を呼ばない?
「ナーシャさんは!」
「マスターはまだ大丈夫だ!そちらの方は?」
紫雨君が声をかけたのは、戦士のようなおっさんだった。
革の鎧に革の盾、そしてグラディウス?・・・いや、スパタか?ローマの正規兵が使ったやつだ。世界史の資料に載ってたっけ。とにかく、剣を装備した人、そしてでかい狼、小さなドラゴン、ウナギのような・・・なんだこりゃ?
・・・そうか、召喚獣か。
「琴音さん!この人を助けてください!」
紫雨君の言葉に我を取り戻し、ソファーの前に膝をつく。
ソファーには、私と同じくらいの年齢の、ちょっと変わった制服を着た女の子が、仰向けになって寝かされていた。
「何これ・・・ひどい。とにかく、手当てをしなきゃ。気道、呼吸は・・・よし。循環は・・・失血状態。それよりも・・・四肢の損傷がひどい。最悪ね。・・・右手以外はすべて切断するしかないわ。この人の血液型は?」
「・・・分からない。母さんなら知っているかもしれないけど・・・。」
「もしかして仄香の子孫なの?・・・じゃあ、A型、RHプラスの可能性が高いわね。交差適合試験術式を発動・・・よし。私の血が使えるわ。まずは、止血、麻酔、消毒・・・。」
和香先生のところで習った手順を落ち着いて思い出し、いつも通りの処置を始める。
野外緊急手術セットからメスを取り出し、傷口の一部を取り除き、整形したうえで魔法で癒着させる。
足りない部分は少しひきつった形になってしまうが、それでも針と糸で縫合するよりも余裕をもって癒着させられるのが魔法の強みだ。
そして、今回は業魔の杖があるおかげで、麻酔の効果や血圧、脈拍、呼吸、そして薬物に代わる術式管理など、いくつもの工程を杖が補佐してくれるのがありがたかった。
「よし、大きな動脈は癒着させた。問題は手足ね。可能な限り温存したいんだけど・・・仕方がない。再生は仄香に任せて、壊死する可能性のある左手と両足の膝から下は切断するわ。・・・ごめんね。本当は本人か家族の同意が必要なんだけど・・・。・・・えっ!?」
そう言いつつ、比較的きれいな顔にかかった金色の前髪をどけた瞬間だった。
・・・こいつ!あの時の!
「琴音さん、どうした?何か問題があったのか?」
「・・・なんで、こいつがこんなところにいるのよ。なんで死にかけてるのよ。」
「琴音殿!マスターのお知り合いか?ならば!」
くそ、何で遥香の仇を助けなきゃならないのよ!
なんで半分頭が!
そう叫ぼうとした時だった。
建物の外が、ぱあぁっと光に包まれる。
救急車か何かが来たのか?
サイレンは聞こえなかったけど。
と思った次の瞬間、ぐわっと体が重くなり、周囲が赤い光で満たされた。
「これは!まさか!アバル!ナーシャさんを!琴音さん!こっちだ!」
紫雨君は私を肩に担ぎ上げ、そして革鎧のおっさんは半分頭を担いで建物から飛び出した。
カツン、と音を立てて、半分頭のかろうじて肉の残った左手から、金属製の術札が落ちる。
ハナミズキの木の横を過ぎた辺りで、赤い光のカーテンから完全に抜け出すことができた。
でも・・・紫雨君の肩越しに、建物の3階の窓からたくさんの子供が不安そうに外を見ているのが見えた。
そして、赤い光は建物全体を包み・・・窓から外を見ていた子供たちが、パタパタと倒れていくのを、わけがわからず見ていた。
なぜか、いつも私の後をついてくる業魔の杖は、金属製の術札の上で浮遊したまま、光を放ち続けていた。
ナーシャが美代(仄香)からもらった召喚符は、それぞれ次のようになっています。
①ヘルハウンド
②アバル(ウェールズ神話・アバロンの戦士)
「アバロン」はケルト神話系の地名で、アーサー王伝説に登場する死者の国や楽園のイメージと結びついています。
③ フレーズルグ(ケルト神話の火の翼を持つ怪鳥またはドラゴン)
この名前自体は非常にマイナーで文献では確認が難しいため、類似する「火の鳥(ペリュンの火の鳥やウェールズのアドラック)」のケルト系伝承から推定し、小型のドラゴンとして描写しています。
④アマロック(イヌイット神話の巨大な狼)
イヌイットのシャーマニズムや精霊信仰の中で「巨大な孤狼」の概念は遥か古く、文献自体は近代ですが、口承伝承としては紀元前後からあります。
⑤チェフレン(ブルターニュ伝承の海の精霊)
ブルターニュ地方はケルト系の文化圏で、5世紀ごろの大移動時代にケルトの伝承が伝わったと考えられています。ただ、「チェフレン」という固有名はあまり文献に登場せず、似た存在として「水の妖精」「水の悪霊」の地方名が口承で伝わっています。
いずれも、ナーシャでも使役できる程度に優秀で、あまり有名ではない(有名すぎると強力ではあるが、制御コストが高すぎるので。)召喚獣として魔女がチョイスしました。
ただし、①のヘルハウンドは、制御がナーシャではなく魔女その人に依存するため、コストは度外視されています。(ナーシャの言うことよりも魔女の命令を優先する。)