2 ネイルがボロボロじゃん/南雲千弦の受難
少女の名前は南雲千弦です。
8月24日(土)午後2時
その日は朝からよく晴れていた。
蝉の声は煩わしく、街の喧騒を塗りつぶすかのようだった。
交差点のガードレールにもたれかかる目つきの悪い少女がいた。
足元には使い込まれた学生鞄が置かれている。
湿った空気が肌に張り付くのを誤魔化すように、指先でブラウスの襟元をつまみ、右手で気だるげに風を送る。
ブラウスに編まれた金糸の幾何学模様が光を反射し、微かに輝いた。
もう、かれこれ4時間は経過している。
「ふう・・・。」
少女は、交差点の向こうにある喫茶店の回転ドアを恨めしそうに睨みつけた。
コンビニのビニール袋からペットボトルを取り出し、ぬるくなった麦茶を一気に飲み干す。
なぜ、こんなことを私がしなければいけないのか。
もう夏休みも残り一週間を切った。
今年は夏期講習でほとんど遊べなかった。
今日こそは遊びに行く予定だったのに。
友人との6時の約束に間に合うだろうか。
何着ていこうか。それよりも出かける前にシャワー浴びなきゃ。
だいたい、こんなことはいつも眠そうにしていて、暇そうな、それでいて何でもできる師匠がやってくれたらいいのに。
少女は、腰に下げた無骨なポーチをそっと撫でた。
可愛げなチェック柄のスカートには、どう考えても似合わない代物。
ふと、喫茶店を見ると、レジのあたりに白い人の影が見えた。
いけない、いけない。余計なことを頭から振り払って、本来の目的を思い出す。
強烈なアスファルトの照り返しの中、少女はスマホを取り出す。
アンテナのような周辺機器がついたそれを右手に、目を細めながら出てくる人影を注意深く見守った。
——そして、次の瞬間。
「頭から冷水を浴びせられたような悪寒」が、背筋を駆け巡った。
画面には、見たこともない警告表示。
だが、それを見る余裕すらない。
スマホに警告が表示されていることも気が付かず、スカートのポケットに突っ込む。
喫茶店から出てきた女は、目で見れば人の姿をしている。
表情がないことを除けば、美少女といってもいい。
しかし、ソレの纏う気配は人のものではない。
カンカン照りの真夏の昼間。それなのに。
ソレの周囲だけが異質だった。
まるで 冬霧が立ち込める極夜の森 のような、
あるいは 深い湖の底に沈んでしまったかのような、
冷たい薄闇が、ソレの周りだけに広がっている——そんな錯覚。
まるで骨の髄から凍るような寒さに包まれているかのようだった。
少女はポーチの中に手を突っ込み、歩道の植え込みに下半身を沈め、その小さな手に似合わない無骨な銃を引き抜いた。
瞬間的に様々なことが頭をよぎる。
L9の術弾は22発。予備マグは2本、計66発。
ただの魔力保持者調査だったはず。あんな化け物がいるだなんて聞いてない。
スライドを引き、初弾をチャンバーに送り込む。
大丈夫、練習通りの動きができている。
あの女の形をした化け物は、まだこちらを見ていない。
なるべく自然な動きで、歩道の植え込みの金属製の箱の影に入りながら、あの化け物にサイトを合わせた。
「・・・っ!?」
次の瞬間、なぜか左横から突風が吹き、体が持ち上がるかのような感覚とともに、視界に赤い花びらのような何かが舞い散った。
あわてて、体を低くする。
伏せるように、地面に左手をついた。
ついたつもりだった。
地面に手が届かない。
いや、違う。左腕の、肘から先が、ない。
少女は大きくバランスを崩しながら、左肩から地面に転倒した。
近くの通行人から悲鳴が上がる。
痛い。いや熱い。いつ切られたのか。
ほかに敵がいたのか。とにかく逃げなくては。
その前に私の左手はどこだ。
止血しなきゃ、でも銃が邪魔だ。右手で左腕の付け根を抑えようとする。
でも、指先が震えて、上手く動かない。
声も、出ない。
回復治癒術の術札の発動もできない。
目の前に突然影が落ちた。見上げると、あの女が腰まである黒髪を靡かせて立っている。
その左手に私の左手を持って。
いつの間に。
「ん?魔法で応急処置もできないのか?魔力の気配はあったんだが・・・?」
状況に似合わないほどかわいらしい声で、女が意外そうに、そしてなぜか困ったようにつぶやく。
逆光で顔が見えない。それに、何か頭に霧がかかっているような違和感がある。
うるさい、私は魔法が使えないんだ。
心の中で毒を吐く。
照準もつけずにトリガーを引き絞る。3回、4回、5回。
術弾が連続して発射される。
銃の反動が腕に伝わる。
高速射出術式が付与されたバレルが弾丸を加速させ、マズルを出た瞬間に弾丸に付与された術式の安全装置が解除される。
着弾。炸裂術式が作動する。破裂音とともに着弾したアスファルトや電柱が砕け、3~5㎝程度の穴が開く。
術弾は一度の不発もなく、すべて発射された。
22発の装弾数をすべて撃ち切り、スライドストップがかかる。
それでもまだトリガーを引き続けていることに少女が気づいた時には、もうあの女の形をした化け物はいなかった。
・・・路上にはアスファルトの破片が当たったのか、ズタズタになった少女の左手が落ちているだけだった。
パニックから立ち直ろうとするも、体の一部を喪失した事実がそれを許してくれない。
奥歯のガチガチという嫌な音が止まらない。
気配はもうない。逃げたのか、いや、見逃してくれたのか。あの化け物の気まぐれで助かったのは事実のようだ。
血の匂いが、夏の熱気に溶ける。
少女の精緻な細工の左耳のピアスが、血の雫を受け止め、静かに滴っていた。
「助かった・・・の?」
少女は今しがたのことに戦慄しながら、師匠からもらった使い捨ての回復治癒術の術札を発動した。
左手の切断面から噴き出していた血がゆっくりととまり、痛みが引いていく。
左手の切断面には薄い肉が盛り上がってきているようだった。そして右手だけで器用にポーチに銃をおさめ、自分の左手を拾う。
腐る前につながないといけない。
たしか、妹が似たようなのを回復魔法でつないできれいに直していたのを見た覚えがある。
「ふざけんなよぉ。左手のネイル、ボロボロじゃん。」
生まれて初めての大怪我なのに、現実感のなさからか、間の抜けた言葉がその口から出た。
ブラウスに付与された認識阻害術式が働いているうちに、早くこの場を離れないといけない。
警察沙汰はごめんだ。
通行人が電話をかけている。
110番か、119番か。スマホをこちらに向けている通行人もいる。
「あれ?カメラアプリが起動しない?」
通行人が何か言っているのが、遠くに聞こえる。
それにしても、認識阻害術式は便利だ。
人間の目だけでなく、カメラまでごまかしてくれるのだから。
一緒に師匠特製の痕跡除去系の術式札も何枚か使っておこう。
それでも、片腕を失い、白いブラウスとチェックのスカートは鮮血と植え込みの泥で、それはもう派手に汚れている。
肉眼に対しては隠し切れないようで、だんだんギャラリーが増えてきた。
とりあえず、左手をしまわないと。
学生鞄は小さくはないものの、全部は収まらない。
一瞬迷ったが、切断面が鞄からはみ出ているよりマシかと、肘側を鞄の中に突っ込んだ。
はみ出ている指とその先端の割れたネイルがシュールだ。
この格好じゃ電車やバスじゃ帰れない。即救急車と警察を呼ばれてしまう。
師匠に頼んで車で迎えに来てもらおう。
「もしもし。ししょー?千弦だけど。大怪我しちゃった。助けてほしいんだけど、車で迎えに来てもらえる?」
電話の向こうで慌てた声が聞こえたが、迎えに来てくれることだけを確認して電話を切る。
なによりも、疲れた。血を流しすぎてめまいがする。
少女は、使用済みの術札を握りしめながら、ぼんやりと思う。
もっと可愛く見られる術式、ないかな・・・。
化粧の手間が省けるし、便利だと思うのに。
そんな場違いなことを考えながら、少女は心配そうに声をかけてくる通行人をかき分ける。
足元がふらつく。
だが、一歩ずつ歩く。先人が積み重ねたものに感謝しつつ。
スカートの裏地に付与された 隠蔽術式と気配遮断術式 を順番に作動させながら——。
当然ですが千弦の使っているハンドガンは実銃ではありません。
女子高生が9ミリを片手で連射できるはずは、・・・多分ないかな、と。
それ以前に、舞台が日本で、千弦は公的機関員でもないので警察に補導されたらアウトです。