186 忘却から逃れたもの/解呪
4月12日(土)
東京都三鷹市
南雲 琴音
・・・あの後、姉さんは一言も口をきいてくれなかった。
いつもは二人でくだらない話をして盛り上がる食卓も、食後のリビングでのひと時も、まるで冷凍庫の中のように冷え切っていた。
・・・姉さんは私を徹底的に無視した。
姉さんがお母さんやお父さんと話しているときに私が何か言うと、ピタッとしゃべらなくなった。
お母さんやお父さんが姉さんに話しかけても、まるで私の存在がないかのようにふるまった。
二人とも、姉さんの言動に首をひねってたなぁ。
姉さんが部屋に入った後、二人から理由を聞かれて、正直に言ったんだけど・・・「そんなことであれほど怒るか?」と言われてしまった。
あまりにも家の中の空気が悪いので、お父さんの勧めで週末からしばらくの間、制服や教科書、参考書などの最低限の物だけ持って、三鷹の売れない小説家をやっている叔母さんの家に厄介になることにした。
「おー。よく来たね、琴音ちゃん。何か新しいネタはないかな?」
「お世話になります、香音叔母さん。ネタは・・今の私の状況ですね。これ、お父さんからの宿代です。音弥爺ちゃんと弦子婆ちゃんは元気ですか?」
お父さんから預かった封筒を香音叔母さんに差し出すと、叔母さんは目を丸くしながらそれを受け取った。
「ピンピンしてるよ。・・・ありゃ。宿代って、兄さん本気だったの?う~ん、受け取りづらいな。まあいいや。余ったら後で返すよ。それとも琴音ちゃんのお小遣いにでもする?」
香音叔母さんが封筒を開けると、一万円札が30枚くらい入っていた。
・・・お父さん、ごめん。
それ、お父さんのへそくりだよね。
確か、書斎に新しい机を買いたいって言ってたっけ。
私のせいで余計な出費をさせてしまったよ。
「いえ、それは私がご迷惑をおかけする分ですから。・・・あ、お爺ちゃん、久しぶりだね。お婆ちゃんと仲良くやってる?」
「そりゃあもう。ラブラブさ。そんなことより、千弦との間で何かあったんだって?珍しいな。」
三鷹の叔母さんの家は3LDKのマンションで、かつて叔母さんが売れっ子作家だった時の印税で一括で買ってしまったらしく、ローンの支払いなどはないらしい。
部屋割りはそれぞれが香音叔母さん、お爺ちゃん、お婆ちゃんの部屋で、リビングが叔母さんの仕事場なのだそうだ。
「今日のところはリビングでいいかしら。ソファーを変形させればベッドになるから。掛け布団はソファーの背もたれの収納に入ってるわ。晩御飯はお寿司の出前でも取りましょうか。」
香音叔母さんはお金を封筒に戻し、自分の部屋の金庫に放り込んだ。
そのあと自分の財布を出したところを見ると、使う気はないようだ。
「こら、香音。せっかく孫が来てくれたんだから、私が何か作るわよ。琴音、何か食べたいものはないかい?」
「うん・・・ちょっと食欲がなくて。」
3人ともすごく気を使ってくれるけど、それが逆にツラい。
・・・全力で頑張るはずだった高校3年生が、むしろ早く終わってほしいとすら思うようになってしまった。
◇ ◇ ◇
4月13日(日)
まるで実の母親のように気を使ってくれる叔母さんと、子供の時のように可愛がってくれる祖父母のやさしさに逆にいたたまれなくなって井の頭公園の中を一人でふらついていた。
家から持ってきた・・・いや、ついてきた業魔の杖を片手に、スマホを見ながら公園内をぶらつく。
この公園は入園料が400円と手ごろで、近くには三鷹の森ジ〇リ美術館があるので、時間があったらそちらに足を延ばしてもいいかもしれない。
あまりにも手持ち無沙汰だったので、ここしばらく連絡をしていなかったアレクにメールを打とうと思い、以前のやりとりを確認したところ、いちファンとしてのやりとりしかしていない内容になっていた。
一緒にアスピドケロンの背中で遊んだ時期は、彼は台湾でツアーに参加していることになっていた。
当然、5月の連休にそろって九重の爺様に挨拶に行く話はなくなっていた。
私は遠距離恋愛まで失ったのか。
だから、ガドガン先生もあんなにそっけなかったのか。
とうとう、私を見つけてくれる人間のすべてを失ったのか。
そういえば咲間さんが解呪について知りたがってたな。
そんなものを使えるのは仄香くらいだろうに。
・・・これじゃ、まるで缶詰の中の缶切りだ。
半ば亡霊のような気分でスマホを弄っていると、一つの電話番号に思わず目が留まる。
「え・・・?これって・・・水無月紫雨君・・・魔女の、最初の子供!そうか!紫雨君なら何か知っているかもしれない!」
たしか、彼は国立市のどこかにある宗一郎伯父さんの会社の社宅に住んでいるはずだ。
あわよくば解呪も使えるかもしれない。
「よし!まずは電話して、話を聞いてみよう。」
はやる気持ちを抑えながら、表示されている電話番号を選択し、電話をかける。
「はい、もしもし。水無月です。・・・あれ?琴音さん?どうしたの突然。」
「紫雨君!・・・私のこと、覚えてるよね?」
「・・・?突然何を言ってるんだい?母さんの子孫で高校の友達だろう?母さんがアスピドケロンとマヨヒガで南海のリゾートを作るって騒いでたけど・・・まさか、あの後に何かあったのかい?」
「・・・!覚えてるの!仄香と、遥香のことも?ジェーン・ドゥのことも!?」
「当り前じゃないか。・・・何があった?今、どこにいる?」
「みんな、仄香や遥香のことを忘れちゃった。・・・グスっ・・・やっぱり、夢じゃなかったんだ。」
「忘れた?・・・とにかく今すぐ迎えに行く。今どこだい?自宅?それとも高校?」
「・・・井の頭公園。目の前にボート乗り場が見える。」
「わかった。今すぐそちらに向かう。吉祥寺駅の改札・・・いや、公園口のところで待っていてくれ。今すぐ行くから。」
紫雨君はそういうとすぐ電話を切った。
・・・まるで世界に自分一人しかいないような心細さを感じていたけど、彼のおかげで何とか自分が保てるような気がした。
気付けば、スマホを持っていないほうの袖口が、涙でびしょびしょになっていた。
30分ちょっとくらい待っただろうか、「KEIO吉祥寺駅」と案内板がある階段の下で待っていると、サングラスをかけた銀髪の高校生または大学生くらいの男性が階段を駆け下りてきた。
「ごめん、待った?急いできたんだけど・・・。」
「大丈夫。そんなに待ってないから。」
・・・嘘だ。彼が来るまで、まるで何日も待ってるような不安さだった。
「とりあえず、どこか落ち着ける場所へ・・・まいったな。吉祥寺なんて『ゾウのはな子』くらいしか知らないぞ・・・。」
「紫雨君の家は、ここから遠いの?」
「いや、電車と徒歩で30分くらいだけど・・・。」
「ごめんなさい、家でお休みだったのね。・・・お邪魔してもいい?」
さっきから感情が爆発しそうだ。
咲間さんやガドガン先生に心配そうな目で見られ、姉さんにはいないモノとして扱われ・・・。
やっと会えた理解者に縋り付きたくなるのを何とか堪える。
紫雨君は周囲を見回し、複数の術式を起動しながら何かを確認する。
「どうやら誰かに尾行されているってことはなさそうだ。となると、これは君だけを狙ったものではないね。とにかく、僕のアパートでよければそこに向かおう。・・・大丈夫かい?すごい顔色だ。」
紫雨君は私の手を握り、引いてくれた。
中央線青梅行きに乗り、座席に座るとすぐ、何日ぶりかの安堵感が少しの眠気とともに襲ってきた。
◇ ◇ ◇
国立駅の南口を出て、大学通りを南に進むと一橋大学が見えてくる。
そして、学園通りを東に曲がってすぐのところに彼が住んでいるアパートがあった。
「まだ何もない家だけど、どうぞ上がって。」
「お邪魔します。・・・すごくきれいにしてるのね。」
紫雨君のアパートは約6畳のキッチン、6畳の洋室、そして6畳の和室からなる2DKであり和室は寝室、洋室はリビングになっていた。
リビングに置かれたやや小ぶりのソファーに座らされ、しばらく待っていると、紫雨君はティーセットをお盆にのせ、ローテーブルにそっと置く。
「心細かったろう。これを飲んで。セントジョーンズワートだ。気分が落ち着くから。」
ああ、セイヨウオトギリソウか。軽度から中等度の抑うつの症状緩和を目的として利用される、一般的なハーブだ。
しばらく無言でハーブティーを飲み、少し落ち着いてきたところで、これまであったことをゆっくりと話し始める。
かなり混乱していたこともあり、話の内容は飛び飛びだけど、紫雨君は一切口を挟まず最後まで話を聞いてくれた。
「・・・これが昨日までの話。信じられないだろうけど、仄香のことも遥香のこともみんな忘れてる。遥香なんて去年の3月14日に死んだことになっているのよ。」
それに、住民票や戸籍はどうしたのか。
高校の学籍だってデータだけでなく書類や写真だって残っているだろうに、忘れている人間が見れば矛盾に気づくだろうに。
紫雨君は私の手や目、全身を眺めながら何かの術式を起動して何かを計測している。
「・・・なるほどね。母さん、超広範囲で洗脳魔法を使ったな?それにネットワークに接続されたコンピュータに対しては干渉術式を使ったようだ。あとは召喚魔法・・・グレムリンか。」
「洗脳魔法を使ったのは仄香なの?それにグレムリン?」
なぜ仄香はそんなことをしたのだろう?
なぜ、私たちに黙って行ってしまったのだろう?
「ああ。僕が封印されている間にあちら側に結像した存在だからそこまで詳しくはないけど、大事なモノを隠したり、機械モノを動かなくしたりすることが得意な連中さ。・・・とにかく数がたくさんいるから、そういったことにはもってこいな連中だよ。ここ数日の間、このアパートに張った結界で立ち往生してたっけな。」
「隠す・・・無くなったわけではないの?」
「ああ。彼らは隠すことと障ることしかしない。・・・まあ、機械モノは障った時点で故障扱いされるけどね。だから、母さんが召喚魔法を解いた時点ですべて元通りさ。おそらくは君や千弦さんの部屋にも忍び込んでるだろうね。」
・・・良かった。じゃあ、もしかしたら、遥香は帰ってくるかもしれないんだ。
グレムリンについてはお母さんにお願いして家に強めの結界を張っておいてもらおう。
でも・・・あれ?
「みんなが忘れてしまったのと、データや写真、書類が見つからないのは分かったわ。でも、なんで私だけ二人のことを覚えていたのかしら。それと紫雨君も。」
「それは簡単さ。僕はこう見えて1700年もの間、4本の聖釘の浸食に耐えてきたんだよ?精神操作系の状態異常はほとんど効果はないさ。それに・・・琴音さん、君は気付いていないのかい?」
「・・・何を?」
「抗魔力、母さんよりも強くなってるよ?多分、君の抗魔力は史上最強クラスだろうね。母さんの全力の呪いを受けても弾き返せるだろうよ。」
・・・気付かなかった。
そういえば仄香に私の抗魔力は世界でも5本の指に入るといわれていたけど、ジンベイさんに魔力結晶を入れていたのが魔力だけではなく抗魔力にまで影響があったのか。
「と、とにかく、私に洗脳とか呪いとかいうのが効かないことは分かったけど、この状況を解決する方法ってあるのかしら?」
「根本的な解決方法は、母さんが洗脳魔法を解くことかな。それと、干渉術式を使ってすべてのデータを復旧して、グレムリンに隠したものをもとの場所に戻させることだね。」
「そう・・・やっぱり、仄香を見つけないことには、話が始まらないということね。・・・それと、洗脳魔法には何か副作用があったりする?」
「う~ん。通常はないんだけど、抗魔力が中途半端に高いと、洗脳されたうえで精神的に不安定になるかな。なにかきっかけでもあれば、イライラするような、近くにいる最も近しい人間を攻撃したくなるような・・・でも、かなり抗魔力が高くないとそうはならないよ?」
・・・まさか、仄香のやつ、私の抗魔力が高いことを忘れて・・・?
ということは、私も姉さんみたいになっていた可能性があるのか。
それと、きっかけ・・・日記を読んだというきっかけがあるから、普段すごく優しいはずの姉さんが私に攻撃を?
・・・いや、それはただの言い訳だ。
でも、もし姉さんだけでもなんとかできたら・・・。
ウンウンとうなっている私に、紫雨君は思いもよらないことを告げる。
「とりあえず、千弦さんだけは解呪したら?その杖・・・解呪の詠唱も内蔵しているから、千弦さんに向けてただ『解呪』というだけで洗脳を解けるよ?まあ、洗脳魔法の効果が持続していると正気に戻るのは一時的になるけど・・・。」
その言葉に驚いて業魔の杖を眺める。
その杖は心なしか、とても誇らしいような思念を放っている気がした。
◇ ◇ ◇
南雲 千弦
始業式の後からイライラが止まらない。
・・・全部琴音のせいだ。
昨日の夜なんて、琴音のことを心配する理君にLINEでひどいことを言ってしまった。
よくわからないけど、理君がメールに添付してきた楽曲を聞いた瞬間、胸騒ぎが止まらなくなってしまった。
私が何かを忘れてるって?
知らないわよ!
なぜか、胸をひどくかきむしりたくなるような、恐ろしいほどの不安が押し寄せてくる。
・・・「所詮、男なんて私たちの身体が目当てなんだよね、それともせっかくの双子だから姉妹どんぶりでもしたかったの?」なんて言ったら、それから返信がなくなってしまった。
そんなこと、言うつもりはなかったのに。
でも、返信がないってことは、理君は琴音の身体で満足したってことだろう。
とうとう理君までも奪われた。
私の方が先に好きになったのに。
咲間さんが解呪の術式についてあれこれ言うのも、父さんが仲直りを迫るのも、母さんが訳の分からない結界を張るのも全部琴音のせいだ。
それなのに、琴音のやつ、三鷹の叔母さんの家に逃げやがった。
あいつ、私の大事なモノを何もかも奪っていく。
あんなに大事にしてやったのに、命がけで守ってやったのに。
・・・うん、もう駄目だ。
イライラがひどくなって吐き気すら覚えている。
頭の中で理君が添付した楽曲が流れ続けて止まらない。
お昼ご飯が終わり、自分の部屋に戻った後、部屋の中を見回すと、すっかり荒れ果ている。足の踏み場もない。
足元には、シュレッダーにかけようと思っていた日記が転がっている。
部屋の奥には片付けようと思っていた段ボール箱と、その上に見慣れないブレスレットが接続されて起動したままになっているノートパソコンが目に留まる。
「・・・呆れた。私ってば、このパソコン、1週間もつけっぱなしじゃない。ネットワークにも繋いでないってのに、なんで電源を落とす気にならないかったのかしら。・・・それもこれも、あいつが余計なことをしたせいだわ。」
部屋の中のガラクタをかき分け、パソコンの電源を落とそうと段ボール箱に近寄ったところ、1階のリビングでテレビを見ているはずの母さんの声が、部屋の外から聞こえた。
「千弦?琴音が荷物を取りに帰ってきたわよ。そろそろ許してあげたら?あなたたち、中学生まで一緒にお風呂に入ってるような仲だったじゃない。」
「うるさい!母さんだって私と琴音の区別がいまだにつかないくせに!私は・・・私は琴音の予備じゃない!」
父さんは琴音を三鷹の叔母さんの家に泊まらせるとき、自分のへそくりからかなりのお金を出していた。つまり、琴音の味方だ。
父さんだけじゃなく、母さんまで琴音の味方をするのか。
じゃあ、私の居場所なんてこの家にもないじゃないか。
頑張っても頑張っても、私の周囲のモノは琴音のモノになっていく。
もう駄目だ、もう、頑張りたくない。
・・・琴音が帰ってきた、といったな。
よし。
殺そう。
◇ ◇ ◇
ベッドの枕の下から愛用のSteyr l9a2を引き抜き、魔導付与術式専用の人工魔石弾を装填する。
「魔導付与術式。雷よ、天降りて千丈の彼方を打ち砕け。」
渾身の魔力を込めたSteyr l9a2を腰に差し、階段を下りていく。
術弾は5発もあれば足りるだろう。
階段を降りてすぐのリビングには、琴音ともう一人、見知った顔がいた。
「あら。千弦。琴音が帰ってきたわよ。家の前で偶然、水無月さんと会ったんですって。彼、あなたに話があるんですって。」
・・・。
あいつ、頼る相手がいないと、父さんの仕事仲間にまで頼るのか。
私と琴音の区別がつく「唯一の人」まで、琴音の味方になるのか。
早く琴音を消さないと私は世界で一人になる!
同じ顔した鏡の中の悪魔に全て奪われる。
誰にも、見つけてもらえなくなる!!
無言でリビングの入り口に立ち、腰から銃を引き抜く。
ゆっくりと、だが確実に琴音の眉間に照準を合わせ、引き金を引き絞る。
「何を!琴音さん!危ない!」
水無月さんが何か叫んでいるが、頭の中に霞がかかっているかのようにそれが何か理解できないまま、術弾は発射された。
着弾を確認しないまま、続けて3発。
だが、確実に琴音の眉間を打ち抜き、その脳をぶちまけながら雷撃で焼き尽くすはずだった術弾は、彼女が持つ奇怪なデザインの杖によって全て受け止められ、空中で停止していた。
「千弦!な、なにをしてるの!琴音を、自分の妹を殺すつもり!?」
「うるさい、うるさい、うるさい!母さんだって私たちの区別がつかないくせに!だったらどっちか一人いればいいでしょう!?みんな琴音だけが大事なら!私はどうすればいいのよ!?」
「だからってやって良いことと悪いことの区別もつかないの!?」
要するに殺しそこなったんだ。
あの杖も、紫雨君も、私のしようとすることの邪魔をする。
・・・だったら。
銃口を自分のあごの下、脳天に向かって弾丸が貫くように押しあてる。
「姉さん!やめて!」
「じゃあ、琴音一人いればいい!よく見ろ琴音!お前と同じ顔をした人間の死体を見せてやる!」
もう嫌だ、生きていたくはない。
くそ。私だって、いい姉さんでいたかったのに。
琴音と私、どちらか一人にまとまって生まれてきたらよかったのに!
引き金に指をかけた瞬間、理君からメールで届いたメロディが頭の中で響き渡る。
そう、まるで引き金を引く指を止めるかのように。