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130 記憶の水底、母の面影

 1月8日(水)


 長崎県佐世保市

 某福祉事務所


 ことの発端は昨年の9月初旬のことであった。

 海軍佐世保基地の敷地内で、一人の海軍士官の遺体が発見され、すぐ近くで衰弱しきった小学校低学年くらいの男児が保護された。


 直ちに佐世保中央警察署は男児を保護し、海軍士官の死因と合わせてその身元を調査したが、本人が重度の記憶喪失であり、行方不明者リストにも該当者がいないことから捜査は難航を極めた。


 なお、検死の結果、海軍士官の死因は急性アルコール中毒であり、高齢であったこと、そして発見の数時間前に複数の店舗ではしご酒をしていたことから、事件性はないものとされた。


 男児は銀髪紅眼であり、顔立ちは東スラブ系のようであったが、同年代の児童よりも流暢な日本語を話していた。


 また、その髪や肌、目の色は先天性白皮症(アルビノ)の一種であるとの診断がなされたことから、日本人と推定された。


 福祉事務所員は警察官立ち合いのもとで男児を病院に連れて行き、約1か月間の入院を行ったが記憶が回復せず、身元も不明であったため、10月末日をもって戸籍法第110条に基づき家庭裁判所に就籍許可申立を行い、仮名での戸籍を作成することになった。


 なお、名前は男児を保護した際に身に着けていた、水滴が描かれた石片のペンダントから紫雨(しぐれ)と名付けられ、苗字は保護施設の名称から水無月とされた。


 また、保護・育成の観点から、年齢はその外見の通り6歳とされ、保護の翌年から市内の小学校に通学させることになった。


 ◇  ◇  ◇


 長崎県佐世保市内 児童養護施設 水無月園


 九重 宗一郎


 正月の喧騒も終わり、忙しくなってきた仕事を青木君や信頼できる部下に任せて、わが社の究極の青田買い先である児童養護施設を巡っていた。


 親子喧嘩が絶えないクソ親父と俺だが、どういうわけか子育て世帯への厚遇や子供の教育については見解がズレたことがなく、九重財閥の児童教育部門については全幅の信頼がおかれている。


 九重興産長崎支社の社用車であるトヨタのヴィッツの後部座席には荷物が満載だ。


 新しく園に来たという男の子用の被服一式、ランドセル、筆記用具、ノートや問題集。


 その他の男の子が欲しがっていたサッカーボールや野球のボール、バット、グローブ、女の子たちが欲しがったクレヨンや色鉛筆、スケッチブック、そして男女どちらでも遊べそうな最新型のゲーム機とソフトを数台積んでいた。


 この一週間、忙しかったからな。

 子供は嘘が少なくていい。少し癒されていこう。


 子供たちの喜ぶ顔を見るのも役得というものだ。だって後部座席の荷物は全部俺のポケットマネーで買ったものだしな。

 これくらいはいいだろ。


 わが社が支援している水無月園の敷地に入り、掃き清められた駐車場に小さな社用車をとめる。


 さて、結構な量の荷物だ。よし、子供たちに手伝ってもらおうか。


「こんにちは。九重興産の九重です。弥生先生はいらっしゃいますか?」


 玄関先にいた若い職員に声をかけると、すぐに園長先生を呼びに行ってくれた。

 すぐに恰幅の良い中年の女性が小走りで出てきてくれた。


「あらあら。あけましておめでとうございます。去年の24日ぶりですね。お正月はゆっくりできました?」


 水無月園の園長の如月弥生(きさらぎやよい)先生だ。


 ・・・いや、2月なのか3月なのかどっちだよ、と思うところだが、苗字が如月(きさらぎ)で生まれたのが3月だから弥生(やよい)だそうだ。


 少なくとも、本人の責任ではない。


「姪っ子のおかげで退屈しない年末年始でしたよ。それより、男の子が一人増えたと聞きまして。彼の生活に必要そうなものを一式持ってきました。それと、お年玉代わりにみんなで遊べそうなものを少し。車から降ろすのを子供たちに手伝っていただいても?」


「ええ、もちろんです。・・・みんな、宗一郎お兄さんが来てくれたわよ!車から荷物を降ろすのを手伝って!」


 弥生先生がそう言うと、子供たちが一斉に社用車に群がる。

 トランクを開け、順番に荷物を渡していく。ちょっと年上の子供には大きめの荷物を、小さな子供には軽くて小さな、落としても壊れない荷物を持たせる。


「宗一郎兄ちゃんありがとー!この前のケーキ、すごくおいしかったよ!これ、私が作ったの。あげる!」


 駆け寄ってきた小さな女の子が小さな紙包みに入ったお菓子をくれた。

 女の子の頭をなでながら包みを開けると、不揃いな形のクッキーが数枚入っていた。


「ありがとう。陽菜ちゃん。どれ、さっそく一つ。」


 その子の前で紙包みからクッキーを一つ取り出し、口に運ぶ。

 ・・・少し硬すぎるかな。きっとグルテンが多すぎたのかな。それと、バターと卵黄が分離してる。だが、ものすごくおいしい。


「うん、おいしい。残りは大事にとっておこう。帰りの車の中で食べるよ。」


 こういう時に俺の呪病は最高に役に立つ。

 かわいい子供たちが作ったものならば、それが泥団子だろうが腹を壊さず食えてしまうのだ。


 ・・・いや、実際にはトリカブトだろうが青酸カリだろうが、場合によってはポロニウムの毒性だろうが呪病で固めて体外に排出できるだけなんだけどさ。

 あ、そうだ。後で子供たちの健康状態を呪病で確認しておこう。


「ねえ。宗一郎兄ちゃん。この子が新しく家族になった子だよ!紫雨(しぐれ)君。水無月紫雨(みなづきしぐれ)君だよ。すげー面白いやつなんだ!」


 ふと男の子の声がしたのでそちらを見ると、周りの子供たちより長身の少年が、一人の小さな少年を伴って駆け寄ってきた。


「お、壮介君、お兄さんとして頼もしくなったね。で、この子かい?・・・!これはまた・・・!」


 壮介君が連れてきた紫雨(しぐれ)という男児を見て思わず息をのんだ。

 紅い瞳に銀髪、アルビノのようでいてそうではない。

 その証拠に、髪や眉、まつ毛にはうっすらと黒みがさしている。


 そして、何より彼の異常さを示しているのが、その潜在魔力量だ。

 ・・・この子の魔力、エルさんと同じくらいあるぞ!?


「お初にお目にかかります。水無月紫雨(みなづきしぐれ)と申します。紫雨(しぐれ)とお呼びください。この度は僕のために色々と用立てていただき、感謝に堪えません。」


 紫雨(しぐれ)という少年は、きれいな姿勢で深く(こうべ)を垂れ、まるで大人のように謝意を示した。


 ・・・この男児、本当に見た目通りの年齢なのか?

 それにこの感覚、つい最近、どこかで感じた覚えが・・・。


 まるで沼の水底のような、冬霧の深い極夜の森のような、不自然に淀んだ薄闇と、骨の髄から凍るような寒さに包まれているかのような・・・。


「ねえねえ、宗一郎兄ちゃん。面白いだろ。こいつ、時々何言ってるのかわからないんだけど、いろいろ物知りなんだぜ!もの探しもうまいし、俺の宿題だってわかるんだぜ!?」


 壮介君の声で現実に引き戻される。


「いえ、偶然ですよ。僕はまだ知らないことばかりですよ。何より、去年の9月より前の記憶がありません。母の顔も父の顔も、何も覚えていないくらいです。ただ一つ、姉・・・いえ、叔母かな?その存在だけは頭の片隅になるのですが・・・。」


「そうか、記憶喪失なのか。かわいそうに。でもご兄弟か叔母さんがいた可能性があるなら、きっと肉親が見つかる可能性があるよ。ちなみに、そのお姉さんか叔母さんの名前はわかるかい?」


「いえ、名前までは。・・・ただ、その名を口に出して呼んではいけないことだけは覚えているのですが・・・。」


 名前を呼んではいけない?どういうことだ?

 そういえばエルさんと一杯やってる最中に聞いたが、とある宗教の創世の女神の名前も呼んではいけないことになっていたっけな。


「それってどういう・・・」


「あ、兄ちゃん!全部運んだよ!紫雨(しぐれ)君のやつ以外は開けてもいいんだよね!」


 子供たちの歓声で紫雨(しぐれ)君との会話は中断されてしまったが、すでに辺りに散布した俺の呪病が情報の収集を始めていた。


 呪病の反応では、彼は嘘をついてはいないようだ。

 記憶喪失であることも真実であるようだ。残念ながら彼の魔力が高すぎるせいでその体内への侵入はできなかったため、頭のどこに損傷があるのかまではわからなかった。

 呪病にとって脳の修復はお手の物だ。侵入できるなら治しちゃうんだけどな。


 ただ、彼がいくら大きな魔力を持っているとはいえ、仄香(ほのか)さんには遠く及ばないな。

 ・・・少し感覚がマヒしてきたか?


 まあいい。仄香(ほのか)さんの回復治癒呪で記憶喪失が治るかもしれないから、機会があったら彼女を連れてこようか。


 とにかく、記憶喪失という重大なハンデを抱えているにもかかわらず、これだけ落ち着いて会話ができるのだから心配はないだろう。


 食堂と遊戯室を兼ねた大部屋で、箱を開けてはしゃぐ子供たちを除いた後、紫雨(しぐれ)という男児のことを考えながらその場を後にした。


 ◇  ◇  ◇


 水無月 紫雨(みなづき しぐれ)


 水無月園の子供たちと僕のために様々なものを持ってきてくれた、みんなが宗一郎兄ちゃんと呼ぶ人が帰ってから、園の中はお祭りのような騒ぎだった。


 子供たちは、箱から出したばかりのゲーム機とやらを食堂の片隅にあるテレビとかいう装置につなぎ、あるいは小さなゲーム機を両手で挟んで遊んでいる。


 あのゲーム機とかいうものはとても気になる。失った記憶の中にあったのかもしれないが、初めて見るような気もする。


 ふと横を見ると、思い思いの道具を使って遊ぶ子供たちを水無月園の園長をはじめとした職員たちがやさしく、だが少し疲れた顔で眺めていた。


「この光景を見られるのも、あとどれくらいかしらね。」


 ボソッと園長がつぶやいた言葉につい反応してしまう。

「園長先生。何かあったんですが?」


紫雨(しぐれ)君。大丈夫。何も心配ないわ。ほら、明日の学校のしたくは?明日、初登校日なんでしょ?」


「ランドセルと筆記用具、ノートは準備しました。必要なもののチェックリストを見る限りでは足りないものはありません。必要書類は福祉事務所の方がすでに提出してあるそうです。教科書は明日、もらえるそうです。」


「・・・しっかりしてるわね。あなた、本当は何歳なの?」


「さあ?それは僕自身が一番気になるところです。何しろ佐世保駐屯地の敷地内で発見される前のことは何一つ覚えていないのですから。」


「・・・ごめんなさい、聞いてはいけないことだったわね。あなたも遊んだら?ほら、陽菜ちゃんが相手を探してるわよ。」


 ふと陽菜という女児のほうを見ると、緑色の板の上で白黒の駒を裏返すような遊びに興じている。どうやらちょうど勝負がつき、次の相手を探しているようだ。


「え〜!陽菜、強すぎだろ!盤面のほとんどが白じゃないか!」


「あ、紫雨(しぐれ)君!オセロやろ!」


 オセロという名前の遊びなのか。せっかくだ。ルールを教えてもらいながらやってみようか。


「陽菜ちゃん、これはどうやって遊ぶの?」


「え〜!紫雨(しぐれ)君、オセロ知らないの!?仕方ないなぁ。おねーさんが教えてあげよう。ええとね・・・。」


 その後、すっかり陽菜ちゃんにつかまってしまい、夕食の時間の直前まで延々とオセロに付き合わされることになってしまった。


 しかし、なぜか一度も勝つことができなかった。最後のほうで必ず一斉にひっくり返されてしまう。

 少し悔しいが、今日初めてやったばかりなのだから仕方がない。


 ・・・「初めてやったのだから仕方がない」?6歳の子供がこんなことを考えるだろうか?

 僕はいったい何者なんだろう?


 ◇  ◇  ◇


 施設のみんなが宗一郎お兄さんが持ってきてくれたというボールやゲームで遊び疲れて寝静まったころ、同じように陽菜ちゃんや壮介君に付き合わされてくたくたになった僕は、お風呂で温まった身体を柔らかいベッドに沈みこませるように眠りについていた。


 誰かの声が聞こえる。


 女性の声だ。


 とても悲しく、でも優しい声だ。


 なぜか、はるかな昔に聞いたような、魂を揺さぶるような懐かしいその声は、まるで僕を呼び続けていた。


 ・・・深い林の中、あたり一面に雪が深々と降り積もっている。

 これは夢だ。なぜかそれだけは、はっきりわかる。

 だが、なぜだろう、この夢はずっと前から見ていたような気がする。


 ふと前を見ると、雪焼けした上にあかぎれだらけの汚れた手をした、一人の金髪の女性の姿が目に入った。


 その女性は、鞣した獣の皮に穴を開け、蔓紐を巻き付けただけの粗末な貫頭衣に、藁を編んだ粗末なサンダルのようなものを履き、麻のような植物を叩いてほぐした繊維で作った布を体に巻き付けている。


 必死で大切なものを探しているのだろう。雪の中に残った足跡に点々と血の跡が続いている。

 藁のサンダルは(くるぶし)のあたりまで黒く染まっているが、よく見ればどこか赤茶けた色のようにも見える。


 何を探しているのだろうか。声をかけようとして、だが思いとどまる。


 そう、たしか、何度も声をかけたのだと思う。肩に手を置こうとしたのだと思う。


 だが、どれほど声を張り上げても彼女には届かない。

 何度、肩に触れようとしても、その手は彼女に触れられない。


 その女性はとうとう疲れ果ててしまったのか、雪の上に腰を下ろし、とうとう動かなくなってしまった。


 ・・・おそらくこのまま目が覚めるのだろうと、漫然とその女性を見下ろしていると、予想に反して、不思議なことが起こった。


 病院の寝衣だろうか。飾り気のない服を身に着けた、長い黒髪の少女がその女性のすぐそばに立つ。


 そして二人で何かを話した後、金髪の女性は立ち上がり、黒髪の少女と手を取り合い、雪煙に消えていった。


 夢の中でずっと見続けてきたような、懐かしい金髪の女性と、初めて見たような新鮮な黒髪の少女の姿を、夢から覚めても忘れまいと思い、僕はその場を後にした。


 ◇  ◇  ◇


 南雲 琴音


 旅行に勉強、そして魔法の練習・・・人生で一番充実した冬休みが終わり、いよいよ新学期が始まる。


 電子黒板を切り替えた画面で、やたらと短い講話を校長先生が話しておしまいという、生徒に大好評のわが校伝統の始業式が始まる。


 今回の校長先生の講話のセリフはこうだ。


「いよいよ最後の学期です。将来、諸君が高校生活を振り返った時、まず楽しかった思い出が浮かぶよう、後悔のない学生生活を送ることを祈る。終わり!」


 ・・・相変わらず短いな。進行役の先生が話している時間のほうが長いくらいだよ。


 ・・・さて、次は小場先生の産休の話らしい。

 私たちはすでに知っていたんだけど、代理としてガドガン卿・・・ガドガン先生が着任することを聞いて、クラスの女の子たちは大騒ぎだった。


 見た目はいいからね。電子黒板に映っているということは、今は放送室にいるのかな。あ、隣の席で仄香(ほのか)がこれまでに見たことがないくらい渋い顔をしている。


「ねえ、ほの・・・遥香。ガドガン卿ってホントに英語教師とかできるの?体育教師のほうがあってるんじゃないの?」


「琴音さん、あの戦闘狂が体育教師になったら死人が出ますよ。それに、ああ見えて何かを教えるのは上手いんですよね、私よりも。」


 へえ。まあ、ガドガン卿、じゃなかった、先生とは今週末の土曜に浅草でひ孫さんを紹介してもらう約束をしているから、ついでにその時に日本国内で魔法や魔術を使わないように注意しておこう。


「ねえねえ、コトねん。ガドガン先生ってさ、魔法使いなんだよね。」


 こっそりとスマホを取り出し、週末の予定を確認していると、後ろの席の咲間さん(サクまん)が小声で話しかけてきた。


「うん。たしか、世界最強の魔導士って言われてるよ。」


「その魔導士?魔法使いや魔術師との違いが分からないんだけど・・・?」


 う〜ん。そういえば魔導士の定義ってなんだっけ?

 首をかしげていると、仄香(ほのか)が助け舟を出してくれた。


「魔法使いとは生まれつき才能があり、自分の魔力を使い、詠唱して魔法を使う者、魔術師とは努力で真理を追い求め、自分以外の魔力を使い、術式や魔道具を使って魔術を使う者、魔導士とは、その両方を使う者のことです。」


「へぇ〜。でも、魔法使いとか魔術師って、結構たくさんいるんだね。二人に会うまでおとぎ話だと思ってたよ。」


「いや、ちょっとこの高校は異常でしょ。健治郎叔父さんに聞いたけど、魔法使いは日本全体で千人もいないはずなんだよ。それなのに・・・ねえ?」


 ちらりと仄香(ほのか)のほうを見ると、彼女もこぶしを顎に当てて思案している。


「・・・たしかに、私が生徒として通ったことがあるどの高校や大学でも、もともといた生徒に魔法使いがいたことはありませんでした。ですが、この高校には現在最低でも4人の魔法使いがいます。」


「コトねん、千弦っち、ガドガン先生。それと仄香(ほのか)さんか。確かに多すぎるね。」


 私と姉さんは双子だからいいとしても、ガドガン先生まで来るとは思わなかったな。


「何か良くないことが起きないといいんですが・・・。」


 三人でコソコソと話しているうちに始業式が終わり、さっきまで電子黒板に映っていたガドガン先生が教室に来ると、教室の中が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。


「ねぇ!ガドガン先生って日本語話せるの!?」

「ガドガン先生って何歳!奥さんいるの!?」

「出身はイギリスのどこ!?日本に来たことあるの!?」

「先生、今どこに住んでるの!?」


 ・・・てっきり女子ばかりが騒ぐものかと思っていたら、男子生徒もしっかりと騒いでいる。


「あ〜。まだ自己紹介もしてないぞ。・・・ま、いい。僕の名前はエルリック・ガドガン。今日から君たちのクラスの担任で、科目は英語だ。3年になってからも担当することが決まってるから、1年3か月、よろしくな。」


 ガドガン先生はそう言うとクラス全体を見回す。

 仄香(ほのか)と私の姿を見ると、目線を止めて、なぜかニヤッと笑った。


「さて、今日のところはこれでおしまいだ。明日からよろしくな。日直、あとは任せた。」


 日直の男子生徒が立ち上がり、号令をかける。

「起立。礼。」


 生徒たちは一礼した後、ガドガン先生に群がる半分近くを残して、わらわらと帰り支度を始めた。


 さあ、とっとと帰ってまた遥香の部屋で勉強でもするか。


 ◇  ◇  ◇


 南雲 千弦


 校長がやたらと短い講話をするという、恒例の始業式が終わり、帰り支度をしていると不意に(おさむ)君が話しかけてきた。


「ねえ、千弦。琴音さんはあのバレッタ、つけてくれてた?」


「ああ、あれ。初詣で着けてたよ。ちょっと待って。・・・ほら、振袖に合わせてたよ。」


 そういって琴音が振り袖姿で一人で写ってる写真を見せる。


「うわ、琴音さんの振り袖姿だ。後でメールかLINEで送ってもらってもいい?」


 この喜びよう・・・マジで嫉妬するんだけど。まあいい。琴音と私は同じ顔なんだ。私にもまだチャンスがあるだろう。


「いいよ。でもさ、あのバレッタ、高校生へのクリスマスプレゼントにはちょっと高価すぎない?もったいなくて正月や特別なイベントの時しか使えなさそうだよ?」


「あ、そうそう。中々言い出すチャンスがなくてさ。これ、千弦にも。遅くなったけどクリスマスプレゼントだよ。」


 そういいながら、(おさむ)君は懐から小さな紙包みを取り出した。


「え?・・・これって?」


「琴音さんから聞いたんだけど、クリスマスにもらったCZ用のカイデックスホルスター、千弦が選んでくれたんだよね。遅くなったけどそのお礼。あ、それ、作るのに一週間くらいはかかるけど、材料費はそれほど高くはないんだ。だから普段使いで使って大丈夫。」


 (おさむ)君の言葉を聞きながら紙包みを開くと、琴音のバレッタを収めた箱と同じものが入っていた。


 そっとその箱を開けると、琴音のような桜の枝ではなく、、鮮やかな色の朝顔とちょこっと顔をのぞかせた小さなカエルが描かれた、かわいらしいデザインのバレッタが入っていた。


「うわ・・・これって・・・。」


挿絵(By みてみん)


 ルーペを使わなければそのすべてを確認できないほど細やかで色彩豊かな蒔絵と、規則正しく並び、有機的に光を奏でる螺鈿。


 黒の漆に沈んだはずなのに、まるで表面にあるかのような輝きを放つ沈金。


 そして艶めかしい漆の地肌。琴音のバレッタよりもずっと出来がいい気がする。


「普段使いでガンガン使っちゃって。大丈夫、作った本人がここにいるんだから、壊れても直せるし、最悪失くしても同じものが作れるから。じゃあ、また明日!」


 手を振る彼の右手を見ると、ところどころに赤く炎症を起こしているように見えるところがある。


 漆かぶれだ。鉄砲好きは特に右手を大事にするっていうのに。

 やばい、なんか泣きそう。


 慌てて彼に手を振り返し、教室を出ていくのを見送った後、そのバレッタをそっと髪に通した。

 ・・・ふふふ、琴音め。私だっていつまでも負けてないからね!

作中に登場するバレッタは、実際に作者が制作した、一品ものです。

市販はされておりませんのでご了承ください。


・・・ただし、作中で言及しているほど技術は高くありません。

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