118 北陸旅行 再開
12月30日(月)
南雲 琴音
のと三井インターチェンジを降りてから河原田川に沿ってしばらく北上すると、輪島市の市街地が見えてきた。
中学生のころに家族で一回だけ輪島に来たことがあるが、あの頃の街並みとの差にめまいが起きる。
かつてお父さんの運転する車を止めた駐車場はかろうじてその形が残っていたけど、朝市通りの入り口にあった姉さんとお揃いで漆器の湯飲みを買ったお店はまだ復旧しておらず、その隣のお店は全壊して瓦礫にブルーシートがかけられていた。
その向かいにある、ひらがなで店名が書かれた大きな看板のお店は外観は残っているけど、ブルーシートがかけられていてお店の中は全く見えない。
朝市通りの西のほうを見れば、街並みの半分以上が焼失して瓦礫の山になっている。
姉さんが健治郎叔父さんにもらったばかりのフルカラー3Dポラロイドカメラの電池を買ったパナソニックの看板を掲げた町の電気屋さんも、朝市通りの突き当りにあった姉さんとお揃いでキーホルダーを買ったお土産屋さんも、あの震災ですべて燃えてしまった。
明日で震災からちょうど一年が経過するけど、能登半島の複雑な地形や隆起した海岸線による港湾施設の損失が復興の妨げとなっているとは聞いていたが、これほどまでとは思わなかった。
呆然としながら街中を歩いていると、後ろから姉さんの声がかかった。
「琴音。仄香がもうすぐ合流できるって。咲間さんとエルは、バレないように宗一郎伯父さんを見ていてくれてるよ。」
姉さんは瓦礫を片付ける人達に挨拶をしながら、私の手を引いて仄香との合流地点に向かう。
まったく同じ遺伝子を持つ双子のはずなのに、私と違って姉さんはこういった状況を見ても感情的にならずに行動ができる。
そう、昨日だってそうだ。
閉鎖された足湯「いっぷく」の跡地前での戦闘ではガドガン卿の不意打ちにもしっかり反応していたし、隙をついて轟雷魔法を撃っていた。
ホテルの廊下で再度襲撃されたときだって一瞬で反応していたし、詠唱を中断させられはしたけど有効そうな反撃を瞬時に行おうとしていた。
なんとか強制身体制御魔法で勝てたけど、最初のうちは完全にパニックだったよ。
「・・・姉さんって、いつも冷静だよね。何か秘訣でもあるの?」
「え?う〜ん。秘訣ねぇ?特にないけど、強いて言うなら私は琴音のお姉さんだからかな。」
うん、やっぱり私の姉さんは最高だ。
輪島の早い復興と震災犠牲者の冥福を祈りながら、姉さんと二人で仄香のもとへ早足で歩いて行った。
◇ ◇ ◇
朝市通りから錦川通りをまたいで、わいち通りを東に進むと重蔵神社が見えてくる。
ええと、この神社の祭神は・・・天冬衣命と大国主命か。
倒壊してしまった本殿の前に立ち、賽銭箱を探すが見当たらず、お賽銭を入れることはあきらめて二礼二拍手一礼を行う。
・・・賽銭箱も被災したのだろうか。それとも一時的に撤去しているだけだろうか。
倒壊した本殿の裏手に回ると、杖を持った二号さんと仄香が二人で立っていた。
・・・いや、すぐそばにもう一人、ロマンスグレーの髪色の、品のよさそうな笑顔を浮かべた四十代の男性が立っていた。
・・・ヲイ!ガドガン卿じゃないの!なんでこんなところにいるのよ!
「琴音!下がって!」
姉さんがそう叫び、素早く私の前に出て、その腰のポシェットから銃を抜き、ガドガン卿の眉間に向かって構える。
「仄香!どうして彼がここにいるの?捕虜にしたの?それとも洗脳したの?」
姉さんは銃を構え、ガドガン卿から目線をそらさずに仄香に問いただす。
「千弦さん、彼に危険性はありません。銃はしまってください。あとで説明しますから。」
「・・・仄香がそういうなら、危険性はないんでしょうけど・・・。」
姉さんは注意深くガドガン卿を見ながら、ゆっくりと銃を腰のポーチに戻す。
私は銃のことに詳しくないからわからないけど、姉さんのことだから、たぶん安全装置は外したままなんだろうな。
「とりあえず紹介します。彼はエルリック・ガドガン。大英帝国の名門、ガドガン伯爵家の当主で、来学期から開明高校に赴任する英語教師です。それから、産休に入る小場先生の後任で1組の担任にもなる予定です。」
「・・・ウチのクラスの担任。冗談きついわ・・・。」
マジか。思わず声が出てしまった。
「仄香。琴音や咲間さんたちの担任になるのは分かったけど、私たちを襲ってきた理由についてはどうなのよ?いきなり殺されかかった私たちとしては、納得のいく説明を求めたいわ。」
殺されかかったというか、殺しかけたというか・・・。
姉さんの轟雷魔法で焼きかけたし、私の強制身体制御魔法で縦につぶしかけたし・・・。
それに、考えてみればこちらが受けたダメージって、すべて姉さんに集中しているんだよね。
「あー。君たち。いきなり襲ったのは心から謝る。だが話せば長くなるのでな。詳しいことは仄香から聞いてくれると助かる。ああ、今後は久神君と呼ぶべきだな。」
ガドガン卿が仄香のことをそう呼ぶということは、仄香が現状を説明したということか。
「・・・仄香、後でゆっくりできるときに説明をお願い。で?ガドガン・・・先生?わざわざ輪島まで何しにきたのよ?観光なわけないわよね?」
姉さんはやっぱり警戒を解いていない。
そりゃそうだ。右前腕部の橈骨と尺骨の圧迫骨折、そして九つの咽頭軟骨のうち4つを挫滅させられていたんだよね。
下手したら一生、嚥下障害になっていたところだったよ。
「・・・?いや、君たちに謝罪しに来たんだが?」
「うわ、この人ってば天然モノの変人だよ。仄香の周りには変人が集まるのかしらね?」
ガドガン卿の間抜けそうな声に思わず反応してしまった。
「・・・琴音。それじゃ私たちも変人みたいじゃないの。」
「うわ、こっちも自覚ないのかい。」
戦闘狂のガドガン卿と戦争馬鹿の姉さん、かなり面倒なことになりそうだ。
◇ ◇ ◇
南雲 千弦
あのあと仄香の前でガドガン卿から謝罪は受けたものの、どうもあの戦闘狂的な感覚が理解できない。
とりあえず土下座はさせたし、土足で頭を踏んでおいたけどね。
一度目の戦いでは私が轟雷魔法で彼を撃退することに成功し、二度目の戦いでは琴音が強制身体制御魔法で彼を半殺しにしたから、私たち二人は勝者だということらしい。
で、勝者の権利として、ガドガン卿になんでも一つずつ要求していいことになったんだけど・・・。
何を要求したらいいわけ?
すぐに決められないからちょっと待つように言っておいた。
そしたら、「僕のひ孫、ガドガン伯爵家の嫡男なんだけど、今大学生だから結婚相手にどうだ?それにガドガン伯爵家は大貴族でイギリス最大の大金持ちだぞ。」とか言い出したよ。
・・・婚約したら、イギリスの本家にある禁書庫で山のような魔術書や禁呪の類いが好きなだけ読めるとか言われた時には少し心が動いてしまった。
それに九重本家の爺様がどこかでこの話を聞きつけて、私たちのどちらかをガドガン伯爵家と政略結婚をさせたいとか言い出したら目も当てられないことになる。
私はこの国が気に入っているんだ。わざわざ9時間も時差がある国になんて行きたくないよ。
まあ、長距離跳躍魔法のおかげで里帰りするのは簡単だけどさ。
ガドガン卿が悩みの種を大量にばらまいて後始末もせずに帰った後、伯父さんと輪島のボランティア団体の人たちとの打ち合わせが済んだらしく、持ってきた資材の受け渡しをすることになった。
ああ、もう。悩みの種から芽が出ても私は知らん。
「姉さん!見て!?ガドガン先生のひ孫さんって、イギリスのバンドグループのギターボーカルなんだよ!」
仄香を含めた五人で荷下ろしを行っている横で、琴音が興奮しながらスマホの画面を差し出してきた。
おいおい。かなりのイケメンじゃないか。これ、面食いの琴音だとマジでグラっと来そうな顔だぞ。
というか、後ろにいるよく似た女性は妹か?アイドルというより、マネージャみたいな恰好をしているな。
まあいいや。くだらないことで悩む暇があったら、宗一郎伯父さんの手伝いを終わらせてしまおう。
今ちょうど、伯父さんの車のトランクからエルと咲間さん、そして仄香の三人が大きな荷物を降ろして台車に乗せているところだ。
あれは・・・小型の発電機か。40キロくらいはありそうだ。
それにしてもエルは力持ちだな。身体強化魔法もかかっていないようだ。
さっきから重量物を持ち上げる作業は、エルがほとんど一人でやってるよ。
エルフは非力で魔法が得意だと思っていたけど、エルは魔法をほとんど使えないらしい。その代わりかどうかはわからないけど、やたらと力持ちなんだよね。
あの燃料缶だって小型とはいえ30キロ以上あったと思ったんだけど・・・。
エルが一人で荷台から降ろしてるよ。仄香は合図してるだけだし、咲間さんは台車を下に入れる係だけをしているし。
「あ、千弦。琴音。あとの細かいのは任せた。」
エルのまったく疲れを感じない動きに見とれていると、そのエルから手伝えと号令がかかる。
幸い荷台にあるのは軽い箱ばかりだ。早く終わらせて最後の温泉地に向かいたいね。
◇ ◇ ◇
被災地のボランティア団体の人たちに支援物資を渡した後、宗一郎伯父さんの運転する車は一路南に向かって走っていた。
宗一郎伯父さんの車は、さすが元軍用車両だけあってかなりの積載量を誇るが、行きと帰りで車の中の広さがまるで違うのにはびっくりした。
行きの時なんてルーフキャリアまで使ってたからね。
っていうか、差し入れと称して持って行った支援物資のほとんどがパソコンや通信機器などで、一部を除いてものすごく単価が高いものだったよ。
ポケットWi-Fi付きのパソコンとかSIM付きのスマホとか、避難所で避難者たちを慰安するためのプロジェクターとかスクリーンとか。
よくわからないけど、すべて被災地側から要望のあったものらしく、一つも無駄にならなかったようだ。
「ねぇ。伯父さん。今回の支援物資って総額でいくらくらいなの?」
やっぱり気になったので聞いてみることにしたが、伯父さんから帰ってきた答えは少し拍子抜けするようなものだった。
「さあね。いくらかかったのかは青木君が管理してるよ。俺はなるべく金額は見ないことにしてるんだ。知ってしまえば恩着せがましい気持ちが生まれるからね。」
「青木さんが管理ってことは、税金対策にはなるのよね。というか、伯父さんの会社って青木さんのおかげでもってるんじゃないの?」
広くなった車内で琴音が靴を脱いで足を延ばしながら、伯父さんの秘書の青木さんを手放しで褒めている。
「はは、違いない。青木君だけじゃない。優秀な社員がいなけりゃ俺は何もできないからな。おかげさまで何とかやれているさ。」
・・・うん、それは半分本当で半分は嘘だな。
たしかに伯父さんに生活力はない。
放っておけば三食カップラーメンだし、青木さんがクリーニングに出してくれなければスーツはヨレヨだし、家は家政婦サービスなしでは完全に汚部屋だし。
仕事だって、メール管理は苦手で会議や社内イベントなどのスケジュールは管理できないし。
でも、琴音は気づいていないかもしれないけど、伯父さんの「呪病」の力は経済や政治のような場面でも力を発揮するのだ。
いや、むしろ最大の力を発揮するといってもいい。
特質すべきは対象に密着しての情報収集力。そしてそれを一元化して正確に分析できる能力。
さらに伯父さん特有の人たらし能力。つまり、自分は仕事が苦手なのに、部下の能力を最大に引き出し、適材適所で組織を回す能力。
まさに九重本家の跡取りにふさわしい能力といえるだろう。
それだけではない。伯父さんは秘密にしているけど、この呪病、普通の病気をばらまくだけでなく、限定的だけどまるでドラ〇もんの「流行性ネ〇シャク〇ウイルス」のように、流行や市民運動などの短期的な思想を制御する能力があるのだ。
川崎の武蔵小杉警察署とかいうところで起きた致死性の伝染病騒ぎもヤバかったけど、私はむしろ頭の中に入ってくるウイルスのほうがよっぽど怖いよ。
それに気付いたのは私たちが中学一年生のころ、伯父さんの高校時代からの親友が通勤電車内で痴漢冤罪で逮捕されたときのことだ。
親友のことを信じていた伯父さんは、即座に能力をフルに使ってその沿線で通勤・通学をしていたサラリーマンや学生たちに呪病をばらまいた。
たまたま通学中の電車の中で魔力検知の練習をしていたら、伯父さんの呪病がかろうじて引っかかったんだけど、そもそもナノサイズの呪病が私の魔力検知に引っかかるほどの濃度だったという時点でお察し案件だ。
結果、親友の逮捕からたった2日で、自称被害者の女子大生が賠償金目当てで痴漢冤罪をでっち上げる常習犯であることを炙り出したよ。
あっという間に何人もの証言者が現れ、その手にはいくつもの映像、録音、そして共犯者とのやり取りを記録したメールデータなどの証拠が握られていた。
一週間もしないうちに、複数のSNSでは痴漢冤罪でっち上げ女子大生の個人情報や過去の悪事、しまいには口座情報やその暗証番号までもが公開され、ものすごいお祭り騒ぎになった。
それでも頑として釈放しない警察や、無理やり公判請求しようとする検察官は次々に新型コロナウイルスっぽい何かで倒れていった。
その辺は武蔵小杉警察署とあまり変わらないね。幸い死者は一桁で済んだみたいだけど。
その時の警察署はたしか、保谷警察署だったかな。今はもう統廃合されてなくなちゃったっけ。
バタバタと警察官が倒れて、生活安全課の担当者や関係する部署の刑事が丸ごと入れ替わったってさ。
しかも担当者が変わったせいで、当時の担当刑事たちと痴漢でっち上げ女子大生の爛れた肉体関係を隠し切れなくなったのか、週刊誌で白日の下にさらされていたよ。
一か月もしないうちに、その女子高生は首をつって自殺未遂事件を起こしたらしい。
なんだ、未遂か。死ねばよかったのに。とか思うけど、ここからがさらに怖いところだ。
当時付き合っていた男に発見されるまで数時間ぶら下がっていたにもかかわらず、原因不明の「奇跡」により、脳への血流はギリギリ死なない程度に保たれ、その女は首から下が二度と動かない状態で助かったんだって。
しかも全く反省してない遺書まで公開されてさ。燃料満載で大炎上。
その女の名前は定期的にSNSに上がり続けてるし、ずっと寝た切りなのに中傷メールや迷惑電話は未だに止まらないってさ。
・・・うん。絶対伯父さんの仕業だ。死んで逃げることも許さないとか、マジで怖い。
宗一郎伯父さんは色々な意味で敵に回しちゃいけない人間だ。
今回のように身銭を切って人助けして、まったく見返りを求めないどころかその金額すら確認しないという仏のような人ではあるけど、卑怯な手を使って伯父さんや伯父さんの周りの人を害するような連中には、マジで鬼になる。
助手席に座って、鼻歌交じりにシャインマスカットを伯父さんの口に運んでるエルと、ちょっと恥ずかしそうにそれを食べる伯父さんの顔を見ながら、なぜかブルっと背中が震えるのを感じた。
◇ ◇ ◇
仄香
身体の制御を一時的に遥香に預け、さっそくバイオレットの身体を玉山の隠れ家で微調整することにした。
ふふ、身体を丸ごと一つ取っておいてくれるなんて。エルリックのやつ、なかなか気が利いてるじゃないか。
コーヒーはインスタントだったけどな。
だがバイオレットの身体に完全に憑依してしまえば、その身体を破壊するまでは遥香の身体に戻れなくなってしまう。
そこで仕方なく、杖の材料の余りで作った念話のイヤーカフを使い、遠隔制御で動かしている。
つまり私の本体は遥香の中に入ったままだ。
「マスター。動き心地はどうデスカ?」
シェイプシフターが後ろでビデオカメラを片手に記録をとっている。
「ああ。全く問題はない。むしろこちらのほうが安定しているくらいだ。保存しておいた魔眼もきっちり定着したしな。」
今のこの身体の外見は、右目がスミレ色、左眼が翠色。
以前の碧と翠の瞳よりもかなり派手だ。カラーコンタクトでも使ってごまかすか。
それ以外はジェーン・ドゥとほとんど変わらない。・・・いや、抗魔力が少し高めで魔力総量がちょっと少ないか。
まあ、ほとんど誤差みたいなものだな。
隠れ家の中の実験場で100メートルほど先の金属製の的を狙って魔法を発動させてみる。
「光よ、集え。そして薙ぎ払え。」
的に向かってかざした右手から扇状にまばゆい光がはなたれ、それなりの厚みを持った金属製の的が、熱せられた鉄板の上に水滴を落としたかのような音とともに蒸発した。
「・・・よし。使い慣れた身体と全く変わらんな。というより、ほとんど新品だな。霊的基質はきれいな状態で丸ごと残っているし、術式束を新しく刻むことすらできそうだ。」
さて・・・。連唱も試そうか。危険性の低い魔法といえば・・・。
「三十連唱、炎よ。導きの灯となれ。」
灯火魔法を唱え、目の前の空間に2メートル間隔で2×3×5の誘導灯を発生させる。
ボッという音とともに現れたそれは、虹のように様々な色で光を放ちながら宙に浮かび、ゆらゆらと燃えている。
「魔力制御の緻密さも問題なし。高威力の魔法はおいおい試すとして、後はこの身体をどこに保存しておくかだな。」
「あとはこのバイオレットの左眼デスネ。いらなければ食べてもいいデスカ?」
そういいながらも、シェイプシフターの手にはすでにスミレ色の眼球が握られている。
「おまえ、前に人間は食わないって言ってなかったっけ?一応、使う予定もあるからとっておきたい。停滞空間魔法をかけて冷凍庫にでも入れておくよ。」
「あ、コレ、人間の身体扱いなんデスネ。てっきり人間に似た怪異だと思ってマシタ。・・・あ、本当に人間ダ。アレ?そういえばこの遺伝子、保存してある例の生きてるアンデッドと似てマスネ。」
シェイプシフターが私の魔力回路を使って解析術式を起動させる。
そんなに腹が減ってるのか?
そういえば、前の旅館で出された料理は香辛料がよく効いてたっけ。もしかして食べられなかったのか。
仕方がない。あとで生肉を出してやろう。
「生きてるアンデッド?ああ、ベオグラードで拾ってきたアレか。せっかくだ。近親者かもしれん。調べてみるか。」
そういいつつ、停滞空間魔法で保存しておいたアンデッドのもとに歩いて行った。
例のアンデッドの前に立ち、解析術式を用いてこの身体とアンデッドの血縁関係を調べ始める。
「このアンデッド、まだ生きてるんデスヨネ。魂が揮発してても霊的基質がしっかりしてるカラ、命令さえすれば見た目だけは普通に生活させられるんデスケドネ。」
このアンデッドにはグローリエルが外出しているときなど、コーヒーを入れてもらったり簡単な食事の準備をしてもらったりしている。
アンデッドとは思えないほど性能がよく、かつアンデッド特有の問題が一切ないため、非常に助かっている。
「ああ。何気なく回収してきたが長い付き合いになったな。お、解析結果が出たぞ。どれどれ・・・。」
大した期待もせずに解析結果を読み上げようとして、一瞬凍り付いてしまった。
「マスター?どうかしマシタカ?」
「・・・このアンデッド、バイオレットと母子関係が肯定確率99.99パーセント以上だってさ。バイオレットって人造人間だよな?つまりバイオレットのオリジナルのジェーン・ドゥの母親だったということか。」
何のことはない。50年近くの間、親子の身体は誰も気付くこともなく、近くにあり続けたんだ。
「ヘェ〜。そんな偶然ってあるんデスネ。」
ただの偶然なのだろうか。
ハバロフスクで娘を失った母親が、死んでその魂を失ってもなお、娘に会うために執念だけで偶然の中から必然の糸を手繰り寄せて私のところへ来たような気すらする。
思わず、眠ったまま動かない母親の頬を撫でながらつぶやいた。
「・・・もうしばらく娘さんをお借りします。一人はあなたの完全な娘ではありませんが、少なくとも妹さんの左眼だけは本物です。いつになるかはわかりませんが、必ずあなたと一つの墓に埋葬することをお約束します。」
隣ではシェイプシフターが手を合わせて祈るようなしぐさをしている。
う〜ん。シェイプシフターって祈り方とか行動様式にキリスト教要素がほとんどなくて仏教式か神道式なんだよね。
まあいいや。それより、私がいない時は誰にこの身体の制御を任せようか・・・。
よし。久しぶりにあいつを喚ぶか。
「原初の男の妻にして全ての悪霊の母よ。死の天使の淫猥なる番いよ。我はセノイ・サンセノイ・セマンゲロフの護符を持ちて汝を深き海の底より解き放たんとするものなり。来たれ。リリス!」
詠唱が終わるとともに、目の前に暗く深い沼のようなものが現れ、風の吹くような、誰かが泣いているような音が響き渡る。
そして一切の光を反射しない、まるで空間に黒く空いた穴のような、あるいはペンタブラックを全身に塗りたくったような姿の女の影が現れた。
「・・・オヒサしぶりです。マスター。本日はどのような御用ですか?」
セリフの語尾が不明瞭になるシェイプシフターと違って、セリフの最初に濁ったような音が混じる発音が独特だ。
「今、私が遠隔制御をしているこの身体の管理を任せたい。頼めるか?」
「オまかせください。早速入ってもよろしいですか?」
「ああ。よろしく頼むよ。」
イヤーカフを外し、シェイプシフターに手渡すとバイオレットの身体とのリンクが途絶え、意識が一瞬で遥香の身体に引き戻された。
《マスター。コノ身体の完全な制御に成功しました。ホカにご命令はございますか?》
リリスから確認の念話が送られてきたが、とりあえずは現状維持でいいだろう。
《今のところは特にない。待機していてくれ。》
《ハイ。ご命令をお待ちしております。》
《あ、その身体の魔力回路は自由に使っていいが、出力がバカ高いから気をつけろ。それと娯楽施設は好きに使っていいぞ。》
《カしこまりました。》
リリスは自分の身体を持たない眷属で別名はサキュバスともいい、人間の女の死体を操ったり、男の夢に忍び込んで夢精させたりするといわれている夢魔の一種だ。
古くはアッカド神話「ギルガメッシュ叙事詩」の序において「キ・シキル・リル・ラ・ケ」と呼ばれる女の妖怪のようなものであったが、メソポタミアにおいてリルと名を変え、ヘブライ語の「リーリース」とアッカド語の「リーリートゥ」に変じ、その字義から夜を司る女の悪魔とされた。
つい最近では、旧約聖書のイザヤ書34章14節で夜の魔女とされ、ユダヤの伝承においては男児のみを襲う悪霊としても描かれている。
・・・人間は勝手なものだ。人気が出れば死海文書やタルムード、カバラで引っ張りだこだ。
御多分に漏れず、私も同じだがな。
とりあえずバイオレットの身体の管理はこれでいいだろう。
そのうち琴音や千弦にも会わせてやりたいし、慣らし運転もしておきたい。
さて。そろそろ一時間くらい経ったか。
遥香の活動時間をこれ以上無駄にすることもできないし、戻って体の制御を交代してやらないと。