1 プロローグ
異世界転生はありません。
深度4000メートルの海の底で、ソレは目覚めた。
それは、"封じられた存在"。
鉛と石で作られた、幾重もの封印に覆われた棺の中。
身じろぎひとつしないその姿は、まるで幼い男児のようだった。
しかし——
先ほどから、箱の外がうるさい。
聞き慣れぬ低い唸り。
不規則なようで、どこか人為的なその音が、静寂を乱していた。
夢を見ていた。遠い、幼き日の夢。
その夢を、現実が侵食する。
ソレは、重い瞼をゆっくりと開けた——。
かつて、彼は 「当代一」 と謳われた。
だが、今やその力は ほぼ完全に消耗 している。
残された魔力は、最盛期の数万分の一。
それでも、ただ死を待つつもりはなかった。
「教会」 を名乗る者たちが、彼を封じた。
東西を問わず、あらゆる術式を重ね、鉄壁の封印を築き上げた。
棺の中には 酸素はなく、極寒の圧力 が容赦なく押し寄せる。
封印が完全に機能する限り、ここからの脱出は不可能。
——ならば、とソレは考えた。
《人間であることを捨てればいい。》
不要な部位を縮小し、余剰な質量を直接魔力に変換する。
少しずつ、じわじわと魔力を回収し、封印をこじ開けていく。
しかし——
無から有は生み出せない。
確実に、着実に、すり減る命。
今残された魔力を使い果たせば、「緩慢な死」だけが待っていた。
——そのとき、「音」 がした。
(・・・・・・何かの音がする?)
ソレは、長い年月をかけてようやく開いた封印の「針の穴ほどの隙間」から魔力を伸ばす。
外界の情報を感知できる、唯一の「感覚器」。
感度は悪い。だが、それでも——
にわかには信じがたい情報を捉えた。
(人だ!)
この深海に?
昼夜の区別もなく、嵐すら届かぬ、「この場所」に?
鋼鉄の球に包まれた 生身の人間 が、自由に動いている——!
胸が高鳴る。
歓喜するソレは、わずかに残る魔力を振り絞り、「彼ら」に交信を試みた。
「しんかい12000、こちら支援母艦させぼ。予定より1時間遅れだ。作業を急げ。」
「こちら、しんかい12000。ポイント23に到達。先ほどから通信にノイズが混じる。・・・誰か、鼻歌でも歌ってるか?」
「しんかい12000、感度良好。ノイズは確認できない。・・・ちょっと待て。船外マイクが、何か音声を拾っているぞ。」
「こちらでも確認した。・・・子どもの声?深度4000の海の底で?」
静かな混乱が、船内を満たしていく。
「潜行長、音源を特定しました! 南南西約20メートル、金属探知機にも反応があります!」
「しんかい12000、回収は可能か。」
「確認します。・・・あれか、大きいな。この装備じゃ無理だ。させぼのクレーンで巻き上げてもらうしかないな。」
「潜行長。・・・死体とか入ってたら嫌ですよ。」
「馬鹿を言うな。死体が喋るわけないだろう。大方、不法投棄された防水オーディオでも動いているだけだ。」
「させぼ、こちらしんかい12000。当船では回収できない。クレーンによる回収を提案する。」
「しんかい12000、了解した。クレーンを下す。」
——こうして、封印された棺は引き上げられた。
何重もの鎖が巻き付き、錆びついた石棺。
その内部には、確かに 人が入れるほどの、鉛で気密された空間 があった。
だが。
——中には 何もなかった。
誰もいなかった。
生命の気配も、死体すらも、見当たらなかった。
海洋調査チームの者たちは 首を傾げる ばかりだったが——
「あの時、聞こえた声は、きっとクジラか何かの歌だったのだろう」と、日誌の片隅に記されただけで、
「報告」されることもなく、「記憶」されることもなく、
それは まるで最初からなかったことのように 忘れ去られていった——。
しんかい6500は実在しますが、しんかい12000はまだ実在しません。
また、支援母艦よこすかは存在しますが、支援母艦させぼは存在しません。
石棺が結構な重さと大きさだったので、架空の船舶を登場させました。