レモンと君と
『さて問題。私の好きな果物はなんでしょう!』
『いきなりなんだよ。そんなんわかりきったことじゃねえか……だろ』
懐かしい夢を見ていたらしい。
朝起きて、ふと、窓の外を見た。
いつもは布団の中で新しい週が始まるのを拒むというのに、妙に爽やかに目が覚めたからだった。
「え?」
思わず口から驚きが溢れる。
天気予報では今朝は大雨で、実際昨日の夜中に雨音がし始めていた。なのに今朝は快晴で、初夏らしい日になっている。
スマホを充電器から抜いて、天気アプリを起動すると、昨日から晴れ予報。
「俺、寝ぼけてんのか?」
ぽりぽりと頭を掻きながら、顔でも洗おうと洗面所に向かう。
「あんたご飯できてるよ」
「おー。……ん?」
月曜日は夜勤で母さんはいないはずだ。なんで、普通に家にいるんだ?
「今日夜勤じゃなかったん?」
「あんた寝ぼけてるでしょ。夜勤だったら今ここにいないわよ。職場出るのが7時半よ?」
「……だよなぁ」
いいから早く顔洗って朝飯を食えと言われ、言う通りにする。
「いただきます」
「そういやあんた今日散歩しないの?」
「ああ……なんかいいかなって」
モソモソとバターを塗っただけのパンを食べる。牛乳とかと一緒に食べたい物だが、冷蔵庫から取ってくるのがめんどくさい。代わりに味噌汁で流し込む。
夢かと思ったが、ちゃんと味がした。
「いってくる」
「お弁当忘れないでよ」
「……」
その後も色々とおかしかった。
時間割は全部違う。おかげで俺は先生に当てられる羽目になった。産休に入る数学IIの先生の苗字も違った。俺が間違えていただけなのか、今日から変えたのか。流石に今日変えたのはないだろう。
ついでに弁当の中身も変わっている。これは別に親の気分なのかもしれないが。
「変だなぁ」
「何が変なの?」
唯一変わっていなかったのは駆け寄ってきた幼馴染だけだった。
「変なのは君でしょ。今日は散歩してなかったじゃん」
「……ああ、なんか」
自分が元々少し変わったやつなくせに何を言う。いつもどんなときでも、目立つレモンの髪留めをつけて、その上奇行をしているのに。
……これがトレードマークってやつなのだ、って何度ドヤ顔を見たことか。
どこでも構わず俺を見つければうるさいくらいに呼ぶし、人のことを雑に使ってくる割に自己犠牲も多い。
「小学生の時からの日課だったのに。寝癖がない君なんて久しぶりだよ。寝起き悪いくせに行くんだもの、セットする時間なんてないもんね」
そういえばポチの散歩をしなかったのは初めてかもしれない。
いや、ポチの散歩じゃなくて、ポチと散歩していた道を歩く、ことか。
「嫌味ったらしく言うな……」
「幼馴染の寝癖つけたままの散歩に付き合ってればこそだよ」
「別に付き合えなんて言ってない」
それなのにこいつは朝俺が家を出ると、隣の家から出てきて、隣を歩くんだから、お節介なやつだ。
本当に、お節介なやつなんだ。
「ポチが死んじゃったこと、やっと受け入れられたの?」
「……さあな」
……正直に言って今までが受け入れられてなかったとは思えない。
もう使われていない小屋を見れば、ああ死んだんだよな……と思うし、犬の話題になれば死んだことを前提にポチの話をする。
なぜか、でも、散歩にだけは行っていただけだ。
ちゃんと頭で理解できていた。
「全く変に淡白だなぁ」
人のことを淡白とか言ってるお前だってそうだろう。
散歩についてきたと思えばただ黙って一緒に歩くだけで。
俺が話しかけても必要最低限しか話さないし、何もしない。
「無視か全く。そういえば変と言えばさ」
……なにかおかしい。
「君があの時……」
……おかしいのは俺か。
「ねえ聞いてる?」
……いや。
「お前が一番変だ」
だって、こいつは金曜日に。
言葉にすれば、辺りや教室がパズルのピースのように、崩れていく。
押し飛ばされた感覚。
何かが折れた音がした。
あいつの柑橘系のシャンプーと、トラックの排ガスの匂い。
青く光った歩行者マーク。赤くなった信号機。
俺を呼ぶ、声。
「……気づいちゃったか」
起きると、ちゃんと雨が降っていて。
親が夜勤の予定だったのもそのまま。
時間割も、先生の名前も、いつも通り。
代わりに朝のHRが長くなり、生徒たちはざわめく。
あいつの葬式に向かうバスの中で、雨をぼうっと見ていた。
葬式でクラスメイトは泣いてたり無表情だったりで。
いつのまにかあいつは火葬されていた。
死亡確認の時も通夜の時も、何もかも、覚えてないから。
この煙だけでも、覚えておく。
「……気づかないわけがないだろ」
雨が降っていて、よかった。初めてそう思った。
俺はもう二度と、朝の散歩に行かない。お前が生きていない。
きっと俺はお前の話をあまりしなくなるし、避けるだろう。けどスマホのアドレスを消そうとは思えないし、消せない。
手元の、汚れて欠けたレモンの髪留めが、物語っている。
このレモンの髪留めは、ずっと欠けたままだ。




