八話 巨熊との再戦
不幸中の幸いが一つある。
それは氷漬けから解放された巨熊が起き上がらなかったことだ。助けを求めたあと、呼吸ができずに意識を手放したのだろう。それでも、真打を呼ばれたとなれば厄介な話である。
あれらは恐らく、親子だ。子どもの叫び声を聞きつけた親が、一目散に駆けつけてきた。これが当事者でなく舞台を見上げる観客だったなら、涙ぐんでいたかもしれない。
「痛い、けど……小さな傷も治ってる」
「治癒魔法ですから。それに」
ルネが手をかざすアルマンは半透明の白い光に包まれていた。
「ロッシュさんのことは誰よりも先に、優先して治すようにとカシアスさんにお金を積まれて――失礼、頼まれていますので」
「それって、俺よりも重傷者がいても……?」
「ええ」
軽く聞いてみたつもりだったのだが、わりと真剣な声音で返され、ロッシュは「は」と短く息を吐いた。
「アルマンさん、これからどうします」
「戦うしか、ないだろ」
治癒魔法をかけられながら、アルマンの手に氷の槍が形成される。切っ先は鋭いが、あの巨熊に突き刺さる未来を見ることができない。
「イリスは」
「気を失っているだけだ。二、三度頬を打てば起きると思うが」
「僕をそんな鬼畜と認識しているのか? 安全な場所に寝かせておけ。目を覚ましたときに主戦場に駆けつけないよう、エドガール、君が傍にいてくれ」
「わかった」
アルマンは決して巨熊から目を逸らさず、動向を窺っている。
「カタリナ。君はスプリンクラーを稼働させて水を集めろ」
「あ、集めたら、どうしたらいいですか?」
「あとで指示を出す。ロッシュ、闇の魔石はどれだけ残っている?」
「え、と……三つ、あります。馬車に戻ればまだあります」
一瞬の沈黙ののち、アルマンが右手を高く掲げた。
「戻る時間はない。今、ここにある戦力で討つ」
ロッシュは深く息を吐く。
親巨熊は子巨熊に気を取られている。心配よりも怒りが勝ったとき、激情がこちらへ向けられるだろう。
「戦場を闇で覆うことはできるか?」
「そんなことしたら、こっちからも見えないんじゃ!? 余計に混乱して……」
「できるかどうかを聞いている。時間を無駄にするな」
巨熊討伐戦において、指揮権はアルマンが持つ。ロッシュは恐怖や不安を飲み込んで、ただ一言――、
「できます」
――震える声で、そう言い切った。
「親巨熊を刺激しないよう、少しずつ展開するんだ。全員の準備ができたら、あとは投げろ。ルネ神官、申し訳ないがエドガールと役目を交代してほしい」
「と言うと?」
「君は下がり、エドガールをここに。治癒魔法は助かるが、理性が追いつかなくなったとき、僕は他人の命も勘定に入れてしまう」
ルネは静かに目を伏せ、踵を返した。幸い、一人一つ持たせたポーションは残っている。それに神官には完全な撤退を命じているわけでもない。最悪の事態は起こらないはずだ。
「――」
ロッシュは右手に闇の魔石を握りしめ、足元から闇を這うように展開させていく。魔力が空になった魔石が砕けたら、次の魔石に手をかける。
「アルマン、俺はなにをすればいい」
「見てほしい」
短い指示だったが、エドガールは辺りを侵食しようとする闇を目に映して理解したらしい。
「カタリナ、空中で円柱のように形成してくれ。そうしてくれたら僕が凍らせるから」
「はい!」
「――総員、覚悟はいいか」
巨熊が異変に気づく。木々を揺らす咆哮が轟いた。
「ロッシュ!」
ロッシュは最後の一つを思い切り投げた。巨熊には外れたが、地面にぶつかり魔石が割れる。目前に完全な暗闇が広がった。
「目標五十、立ち止まっている!」
風を切る音がした。カタリナの水塊が凍りつき、落下している。強大な質量を持つものがぶつかり合い、巨熊の叫びとともに闇から冷気が這い出てきた。
エドガールが距離を言い、そこにアルマンが氷塊を落とす戦法が繰り返される。
「み、水が追いつかないです!」
「手ごたえはある。が」
アルマンが奥歯を噛む。
「こっちに向かっている!」
巨熊は闇の中を闇雲にあちらこちらへと走っていたが、突如こちらに進行方向を定めた。
「進路上に立つな!」
散開した直後、せり上がった氷壁を砕きながら、巨熊が闇を突破した。
「――っ」
闇の魔石は本来、人が使うなら目くらまし程度にしか機能しない。数少ない魔石でこれほどまでの範囲と濃さを実現、維持できるのはひとえに、ロッシュの類まれなる魔力を操るセンスにすぎない。
だからこうまでして、戦闘に組み込むことは想定の範囲外ともいえる。
「――」
アルマンは頭を冷やし、思考を更新し続ける。なにが足りないだとか、どこから読み違えていただとか。今、考えることではない。
考えなくてはならないのは、あの巨熊を叩きのめすことのみ。
「カタリナ、足を狙え!」
巨熊の四肢に水がまとわりつく。それでもなお動き回り、目につくものを攻撃しようとしていた。
「いい加減、止まれ」
アルマンがカタリナの水を氷結させる。動きが止まったところを、アルマンが事前に生成していた槍を飛ばした。
それが肩に突き刺さるが、食い込みは甘い。とはいえ巨熊は呻き声を上げ、痛みにもがいて体を大きくよじる。ぴし、といやな音がした。
「氷が!」
前脚付近の氷に一部、亀裂が走った。
「は……?」
全員が、あっけにとられる。自由になった前脚、それが割れた氷塊をがっしりと掴んだのだ。ボールでも投げるかのように、抛られた。
「うぐっ」
瞬時にアルマンが氷をぶつけたが、空中で粉々になった氷片が弾丸のように四方へ降り注いだ。
その一つ、拳ほどの欠片がロッシュの頭に直撃した。
「ロッシュさん!」
衝撃で体が弾かれ、地面を転がる。
「ぐ、ぅ」
脳震盪を起こしたのか、体に力が入らない。仰向けになった視界に、清々しいほど青い空が映る。
「なんだ!?」
巨熊が後ろ脚の拘束を引っかき始め、削り、強引に削り取った。グオーッと高らかに咆哮し、巨熊はロッシュめがけて地面を蹴った。
アルマンやカタリナが妨害しようと、巨熊は見向きもせずに、一心不乱で駆け抜けてくる。
強い個体ともなれば、やはりそれなりに知能はあるらしい。それはそうだ。魔物だって生きている。家族を思いやる気持ちがあってもおかしくはない。
弱いものから狙うのは至極当たり前のことだ。ロッシュは迫りくる脅威をただ、見つめることしかできない。
「――」
自分の弱さを痛感させられる。頭だけが、冴えている。
「う、く……っ」
顔に影がかかる。怒りに満ちた目、鋭い歯の並ぶ口に、震えが走る。逃げないと、そう思った瞬間、視界に鎮座していた巨熊が横に吹き飛んだ。
「立てるか!?」
氷槌を両手に持ったアルマンに目線だけで無事を確認され、ポーションを頭からかけられる。飲んだほうが効果は出るが、こうしても一応、効果は得られる。
「アルマンさん、力持ちなんですね」
「言っている場合か!? 僕だって吹き飛ばせたことに驚いている!」
「火事場の馬鹿力ってやつですか」
おかげで回復したロッシュは自力で立ち上がり、背中に手を回した。寝転んだとき、背中にある短剣の存在を思い出した。闇の魔石に意識を向けすぎたのと、重量が軽すぎたこともあってすっかり抜け落ちていた。
「短剣使いだったのか?」
「護身用です。実戦で使ったことはありません」
「……僕が隙を作る。君は首を狙え」
「心臓ではなく?」
「届かないだろ」
巨熊は分厚い毛皮と筋肉を持っている。短剣の刃の長さでは足りないだろう。
「そうですね」
ロッシュは額の血を袖で拭った。
仁王立ちしてこちらを窺う巨熊に氷の礫を浴びせ、アルマンが踏み込んだ。振りかぶられる前脚を避け、氷槌を顎に向かって振り上げる。がつんと音が響き、巨熊が体をのけぞらせた。
すかさずロッシュが飛び込み、スパッと首元を斬る。さすがは、希少素材で作られた短剣である。
やった、と思ったのも束の間、ロッシュの体は後ろに投げ出されていた。
アルマンが服を掴み、巨熊から引きはがしたのだ。そうした理由も、前脚にがっしり抱かれたアルマンを見て悟る。
今、こうして地面に尻もちをついていなければ、あそこにいたのは自分だ。
「アルマンさ――んっ!?」
ずるり。なにが起きたか、巨熊の頭が胴体から滑り落ちた。
「うがっ」
切り口からおびただしいほどの血をまき散らしながら、巨熊の体がアルマンを抱えたまま倒れる。
エドガール、カタリナと協力し、巨熊の体をひっくり返す。圧迫されていたアルマンが「ぷはっ」と大きく空気を吸った。
「あー、最悪だ」
前脚から抜け出し、返り血に顔をしかめるアルマンの頭上に水塊が移動してきて、ばしゃんと落とされた。
「……雑だが、許す。エドガール、悪いがルネ神官を呼んできてくれ。体中が痛い」
あの巨体に抱きつかれたのだ。骨にひびが入っていてもおかしくはない。
「さっき、なにをしたんですか?」
「なにって、なにが」
「首が、落ちたの……」
ごろんとしている巨熊の首に目をやり、すぐに逸らした。死してなおいかつい顔が怖い。
「ロッシュが切り込みを入れたから、僕がさらに氷の刃も通ったんだよ。お前のおかげだ」
「あ、ありがとう、ございます」
それから目を覚ましていたイリスを連れてルネがやってきた。イリスは巨熊の首にまた失神しかけ、ルネに支えられていた。
衰弱していた子巨熊も戦いのうちに息絶えており、アルマンによって「討伐完了」が告げられた。