四十一話 嘘
石造りの白い天井の次にロッシュの目に入ったのは、脚長力馬と角兎であった。
脚長力馬の頭の上にちょこんと座っていた角兎がころころと転がり落ちて、ロッシュの胸に腰を据える。
それだけならよかったが、角の形を成してきている部分をぐりぐりと首に押しつけることはやめてほしい。
「レティさんが面倒を見ていたはずじゃ……?」
間違いなくここは神殿だ。だというのに、どうして二体がここにいるのだろうか。
脚長力馬と角兎を撫でようとして、腕が上がらないことに気づく。それどころか全身が動かなかった。
「ロッシュ」
扉の向こうから届いた声にロッシュは身を固くする。
「目を覚ましたんだね」
カシアスの声だ。
意識を失う前のことはぼんやりと覚えている。だからと言って吐き出した言葉を撤回するつもりは、今のロッシュにはなかった。
「――」
姿の見えない兄は、言葉を選びあぐねているようだった。ロッシュもまた、紡ぐべき言葉が見当たらない。
「……強く、なったんだね」
それだけで、胸がいっぱいになる。なんて単純で都合がいいと自分でも思うが、それでも、認めてもらうことで必死だったロッシュにとってはこの上ない肯定だ。
耳を傾けようとすると、脚長力馬に耳をかじられた。まるで聞かせたくないような素振りに思わず苦笑する。
「それでもやっぱり、俺はその魔法を使ってほしくない」
改めての否定に、ロッシュは唇を噛む。ぬか喜びもいいところだ。
「俺は、戦える」
「っ……でも、死にかけたじゃないか」
「でも、死んでない」
「結果論だ! 俺たちが……ルネ神官が間に合わなければ、ロッシュは死んでた」
「それこそ結果論だよ。……俺がどれだけ魔法を使いたかったか、カシアス兄さんにはわからない」
もやもやとした感情が渦巻く。
「魔法を使えないのに、無駄に魔力を持っていて……それが……俺が魔法を使えたらじゃなくて、カシアス兄さんにあったらって思われる俺の気持ちがわかる?」
いつだって望まれたのは自分ではなく、兄たちだった。
オスカーは家を任されて、カシアスは魔物討伐ギルドを託されている。そしたらロッシュには、なにがあるというのか。
魔石作りができるからよかったものの、それすらできなかった場合のロッシュに価値はない。
「カシアス兄さんは魔力が少ないから、俺に魔法を使われると困るんでしょ?」
「――」
「俺の魔法がすごいって評価されたら、居場所がなくなるかもしれないって怖いんだ。だから、俺に無力のままでいてほしいんでしょ!?」
早口に、声を荒げるロッシュの糾弾は自分自身にも驚きを与えていた。己の内をかき回すような激情に任せ、兄を押し黙らせた台詞は自分の胸中にも重々しく響いた。
「違う」
「……なにが違うの」
「俺は、ロッシュが心配で……っ」
「嘘だ」
もう、あとには引けない。取り返しのつかないところまで来てしまっている。
「みんな、嫌いだ」
なにをしてもうまくいかない。どうしようもない自己嫌悪に陥ったロッシュは、周りに責任をなすりつけるような幼稚さを漏らした。
「――それこそ、嘘ね」
扉が不躾に開けられ、呆れを表情に乗せた女性が顔を覗かせた。
「……ステラ……?」
いるはずのない人物の登場にロッシュは息が止まる。いくら目を瞬かせても、彼女は幻影のようには消えない。
「どう、して」
「いつからあなたはくだらない嘘をつくようになったのかしら。見損なったわ」
ヒールを鳴らし、ステラが傍らに立つ。
「なんで、ここにいるの……?」
同じ邸宅で暮らしていたのに、もう何年も顔を合わせていなかった旧友との再会に、ロッシュは瞬きを忘れてしまう。
「話をしましょう」
ステラが椅子を用意している間に、脚長力馬は角兎をくわえて部屋の隅へと移動した。
「魔法が使えるようになったと聞いたのだけれど、それは本当かしら?」
「……うん」
居心地が悪そうに扉の前に立つカシアスを一瞥して答える。
どうせ、否定されるに決まっている。ロッシュは弱々しく唇を噛んだ。
「ずっと羨ましがっていたものね。おめでとう、ロッシュ。私も嬉しいわ」
「え?」
気の抜けた声が出てしまう。
「使うなって、言わないの?」
「あら、どうして? ロッシュが使いたいのなら、使えばいいと思うけれど」
だって、とステラは言葉を続ける。
「ロッシュは死にたいのでしょう? だったら思う存分魔法を使って、死ねばいいわ」
美しい唇から出たとは思えないほど過激な言葉にロッシュは愕然とする。こちらを見守っていたカシアスも絶句していて、時間が止まったかのような沈黙が流れた。
「――」
本当は、ここは夢の中ではなかろうか。
もし体が動くなら確実に頬をつねっていた。けれど仮に頬をつねれたとしても、痛みを感じないロッシュにとってここが夢か現実かは判断が難しいが。
「そんなに驚くことかしら?」
「な、だっ……て、死にたいなんて、そんな……そんなこと、思うわけが」
口をぱくぱくとさせ、しどろもどろになりながらなんとか否定する。
「そうなの? 勘違いしてしまったみたいね」
にこりと笑うステラに、ロッシュはなんとも言えない心地になる。
「一朝一夕では回復しない血液を使い続けて減らし続けて、身元も確認していない錬金術師が作った怪しい薬を飲んで、不調がわかっているにもかかわらず迷宮遺跡に侵入して、案の定瀕死になっていたと聞いたものだから」
本格的になにも言えなくなったロッシュに、ステラはため息をつく。
「自分がどれだけ危険なことをしているか、自覚はある?」
笑顔の裏に隠し持っていた棘が抜かれ、剣呑とした雰囲気が和らいだ。
「みんながあなたに魔法を使うなというのは、命の危険があるからよ。だからあなたは今、こうしてベッドの上にいるの」
「違うよ……俺が、弱いからだ」
まっすぐに見据えられ、ロッシュは顔を逸らす。
「話はちゃんと、顔を見ながら聞きなさい」
ステラは逃げたロッシュの顎を掴み、無理やりに視線を交えた。
「いい? あなたがどれだけ強くなろうと、命をかけることに変わりはないの。私たちは、大量の血を失ったら、死ぬの。傷を放置すれば病気になるかもしれないし、治らない怪我を負うことになるかもしれないの」
感情に任せそうになるところをぐっと抑え、ステラは淡々と諭す。命の重みを、存在の大切さを理解できていない幼子に説くように、真摯に伝える。
「魔法の使い方を覚えなさい。制御する技術を身につけなさい。致死量を見極めなさい」
「――」
「たしかに、あなたの魔法は発覚が難しかったかもしれない。でもそれが、心配して辺境まで追ってきた家族を責める理由になるの? 誰のせいでもないことを、人のせいにしないで」
視界の遠くにぼんやりと映るカシアスの輪郭に、ロッシュは焦点を合わせられない。
「ポーションを飲まなければとか、家族のせいだとかまどろっこしいことを考える前に! 愛されていることを自覚しなさいよ!」
声を大にしたステラにロッシュは驚く。
「――」
幼い頃のステラの面影が重なる。
常に理知的で、同年代の子どもよりも大人びていて、誰よりも先にいるはずの彼女は、いつだって傍にいてくれた。
「あんなに素直だったロッシュは、いつから嘘をつくようになったの?」
靄がかかったようにくぐもっていた視界が晴れていく感覚。
「俺は、帰りたくない」
「嘘ね」
「みんな、嫌いだ」
「それも嘘よ」
「兄さんたちのこと、恨んでる」
「嘘ばっかり」
ロッシュは否定してもらうためかのように思いの丈を吐露する。
「他に、確かめたいことは?」
ステラもそれをすくって、手を差し伸べるように返してくれる。
「――俺のこと、好き?」
ステラは目を見開いたが、すぐに慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「ええ」
ずっと、好きだった。でも、その目に自分を映していなくてもそれでいい。
「あなたは大事な義弟で、大切な友人だもの」
だって、ロッシュが好きになったのは、難しい本に目を奪われ、読み耽るステラなのだから。
それに、八年前にこの恋はとっくに終わっているし、なによりロッシュが映っていなくて当然だ。映っていたら逆に困ってしまう。
「――」
薄暗く、まとわりついていた幻影が霧散するように、消えていく。




