三十五話 忘れるな
「――ッ」
流動的な血液は屍兵の胸を貫いた。
「ぅあああぁぁ」
皮膚なんてとっくに削れて腐った人体は異臭を放ち、無残にも爛れた肉片がぼたぼたと地面へと落ちる。
屍兵とは、迷宮遺跡で命を落とした人間の成れの果てだ。だから身につけているものや戦闘スタイルは生前に由来するし、奪われた『生』を求めて人間を襲うようになる。
「く……っ」
二階の回廊には、クラージュ家の魔物討伐ギルドの鎧を着た屍兵が闊歩していた。何年、何十年と経過する中で冒険者たちの衣服はぼろぼろに風化しているが、一級品の鎧は残存している。
それを身につけているのが生者であったなら心強いが、今となってはただの魔物だ。
「次から次へとやってくるな」
ロッシュは頬を流れた汗を拭う。
どれだけの人数がこの迷宮遺跡で命を落としたのか。それを物語る屍兵はロッシュの居場所を知っているかのようにやってくる。
「そろそろ体を休めないと、動けなくなりそうだ」
丸薬のおかげでかなりの無茶はできている。
屍兵ものろのろしているおかげでまだ余裕はあるが、これではきりがない。連戦に連戦を重ねたせいで視界が霞み、呼吸も浅く、荒くなっていた。
「は……ッ!?」
ロッシュは倒れるようにして地面に伏せる。頭上を火の玉が通過した。
顔を上げれば、杖を持った屍兵が落ち窪んだ眼窩でこちらを見据えていた。生前は火属性の魔法士として猛威を振るっていたのだろう。火の玉の威力はそこまではないが、肌を焼くような熱を残した。
急いで起き上がろうとしたロッシュだったが、重力に負けた体は思うように動いてはくれない。
「なん、で。俺は、まだ、戦える」
動くことを諦め、魔法を使うことに集中する。血液は地面ぎりぎりを這い、屍兵を一刀両断にした。そうして集まってきていた屍兵を一掃してから、ロッシュはようやく立ち上がる。
窓もなく、外に通ずる道もない。迷宮遺跡に入っていったいいくつ夜を越し、朝を迎えたのだろうか。
これまでに一睡もしていないロッシュにとっては、体内時計などないようなものである。
ロッシュはよたよたとした足取りで壁面に書かれた『行き止まり』へと歩みを進めた。三回ほど角を曲がり、かなり奥まった場所で道は終わりを告げる。
「……つかれた」
壁にもたれるように座り、リュックから飲み物だけを取り出す。携帯食は残っているが、食欲がなくて喉を通らない。喉の渇きに襲われるばかりで、そろそろ底をついてしまいそうだ。
「土の魔石があったらなあ……」
そうすれば一時的に壁を作り、身を守ることができたのに。
ぼんやりとする視界を無理やりなんとかしようと目をこする。指先の冷たさが心地良くてしばらく目元に当てていた。
孤独は寂しさを呼び、瞼の裏にシャルルとエリゼオの姿が浮かんだ。二人には申し訳ないことをした自覚がある。
シャルルからの手紙は無視したし、エリゼオとの約束は破ってしまった。心配させてしまっているだろうか。それとも、働き口が消えててんやわんやさせてしまっただろうか。
どちらにせよ、帰ったら謝らなくてはならない。
脚長力馬と角兎は仲よくやっているだろうか。喧嘩ばかりしてレティを困らせていないといいが。
「俺……」
帰れるのかな、という言葉は飲み込んだ。それを声に出してしまったら、今すぐ踵を返してしまいそうだった。
「ここで少し休んだら、早く三階を目指さなきゃ。ああ、俺って本当に魔力がたくさんあるんだな……もっと小さい頃に魔法が使えてたら、もっと要領よく戦えてたのかなあ?」
ぽつぽつと弱音を吐き、ロッシュは自嘲するように口角を吊り上げた。
『今まで魔法が使えなかったのは、どうして?』
幼い頃の自分の声が脳裏に反芻する。
「そんなの――」
ふいに、ずりずりと地面を鳴らしながら屍兵が姿を現した。ロッシュはふるふると頭を振り、重たい腕を掲げる。
「ああ、あああぁ」
幸いなことに武器を手にしていない個体で撃破は容易かった。
ぼろぼろと崩れ落ちる肉片には、もはや思うところはない。かつては人であったそれも、ロッシュにとっては倒すべき敵であり、他と変わらぬ魔物でしかなかった。
「――」
「――、――ッ」
どこからか雄叫びのような声が聞こえてきた。
「もう、追いつかれたのか……」
耳を澄ませてみても反響していて、言葉は音として届くばかりである。それでも怒りや悲しみは伝わってきた。
クラージュ家の魔物討伐ギルドの人間からすれば屍兵を討つのは心苦しいだろう。なにせ自分たちを同じ鎧を着た魔物に武器を向けなければならないのだから。
「向こうが引きつけてくれているなら、少しは休める」
ロッシュはポーションを飲む。傷が塞がったのを目にした途端、張りつめていた糸が切れたように、がくん、と頭が揺れた。
口で大きく呼吸して、肺に目いっぱい酸素を取り込む。
「目を、瞑るだけ……眠ら、ない」
言い聞かせるようにロッシュは声を出す。しかし、動きっぱなしだった体は少しの休息も喜んで受け取り、さらなる回復を求めてここぞとばかりに眠気を誘う。
「――」
宙を泳いでいた血液が地面に落ちたのと同時、ロッシュの体も横になっていた。
◇◇◇
ロッシュは一心不乱に走っていた。終わりのない金糸雀色の地面、壁、天井。それらは進むたび、引き返すたびに姿を変えて翻弄してくる。
目の前が暗くなったり明るくなったり、騒々しくなったり静寂に包まれたり、視覚と聴覚はめまぐるしく脳を刺激した。
「――」
気持ち悪さに眩暈と吐き気がして不快感に襲われ続ける。
「あ、あぁ」
真正面からなにかとぶつかり、双方は後ろに弾かれた。
「屍兵……っ」
ロッシュはすぐさま背中に手を回して短剣を引き抜き、左の手のひらに押し当てた。
「――ぃ」
ぶしゅ、と血液が噴き出す。
「だ、ああぁッ!?」
手のひらから全身に熱が駆け巡る。それはやがて痛みを伴って、否、熱と痛みがごっちゃになって内側から暴れていた。
「ッ」
久しく感じていなかった痛みに体は過剰に反応する。ただ手のひらを斬りつけただけ。いつものことだ。だというのに、ロッシュは必死に傷を押さえて地面をのたうった。
薬は飲んでいるし、指輪だってつけているのにどうしてこんなにも痛むのか。しかしその疑念はすぐにどうでもよくなった。だって、そんなことを考えている余裕などないのだから。
なんとかして意識を逃がしたいのに、痛みは「忘れるな」と言わんばかりに縋りついて放してくれない。
「は、は、は、は」
腹部が大きく起伏して、短く掠れた呼吸を繰り返す。苦しくて、熱くて、痛くて、怖くてたまらない。
「や、めろ……来るな……」
先ほどぶつかった屍兵が視界に入る。手には剣が握られていて、ロッシュの拒絶も空しく振りかぶられる。
「――ぁ」
ごぼり、喉の奥から出てくるはずだった絶叫を押しのけたのは大量の血液だ。ロッシュは自身の吐血に溺れ、ごぼごぼと口の端から溢れさせた。
「――」
ぐさ、とまたも腹を刺される。引き抜かれては、刺された。何度も、何度も、何度も繰り返される。
落ち窪んだ眼窩に見下げられ、跳ねる体を無防備に晒すことしかできないロッシュは、まるで他人事のように命を弄ぶ屍兵を見ていた。
「あ、あああぁ、ぁぁ……」
無数につけられた切り傷から絶えず血液が零れ出て、急激な喪失感に支配された。やがて体に力は入らなくなり、ロッシュの頭は横を向く。
口いっぱいの血液が地面へと流れた。
「――」
その光景を目の当たりにしてもなお、ロッシュは「もったいない」としか思えなかった。




