三十二話 どうして?
塩辛い潮風が鼻腔を突き抜ける。
砂浜には男女の二人や家族の思しきグループがたくさんいた。クラージュ領近海には魔物が多いと聞いていたが、どうやら遊泳エリアは網で囲われて安全が確保されているようだ。
さんさんとした日照りや楽しげな声に背中を押されながら、ロッシュは一人、砂上を歩いていた。
「……っ」
沈む砂に足をとられ、何度も転びかけた。一歩進むごとに靴の中に砂が侵入してきて、ざらざらとした感覚に不快感を覚える。
非常に歩きにくい。
「――」
足元に集中していた視線を、ロッシュは上げる。
波や風で削られてごつごつとした表面になった洞窟をその瞳に映す。ひゅおー、と魔物の叫び声のような音が内から響いてきていた。
「迷宮遺跡へ立ち入る場合は、許可証をお見せください」
洞窟入り口の両端に、重鎧を着た見張りが立っていた。
「魔法陣を見てみたいんですが、それだけでも許可証は必要でしょうか?」
「許可証がなければ、魔物討伐ギルドの遠征期間中は魔法陣への接近も禁止されています」
さすがに、ここで無理に押し通すことはない。
「遠征にかこつけ、出し抜こうなどと考える不届きものが多い故、ご理解をお願いいたします」
重鎧を身につけていようと、頭を下げられたのだとわかった。金属と金属がぶつかる音に、ロッシュも同じようにする。
魔法陣を確認できなかったのは残念だが、見張りの位置や人数などは把握できた。
「――」
しかし正直、ロッシュは自分がなにをしたいのかわからなくなってきていた。
あとどれほどの数、どれほどの強さの魔物を倒せば、みんなから認めてもらえるのだろうか。自分はもう、この魔法を自由自在に使うことができているのに。
『魔法を使うことを推奨できません』
神官の言葉が脳裏に響く。
瞬間、ロッシュは頭に違和感を覚えた。なんと表現していいかわからないが、強いて言えば脳を指でつつかれているような感覚。けれどもそれはたしかなものではなくて、得も言われぬ不快感だけが続く。
「あの、大丈夫ですか?」
ふらつき、頭を押さえるロッシュはゆるゆると顔を上げた。
「顔色が……神官さまに見ていただきましょう。暑さにやられてしまったのかもしれません」
「え、いや……」
偶然通りかかった海水浴客に神官の元に連れていかれた。
「一刻も早く、十分に休息をとる必要があります」
「いや……」
「馬車を出しますので、神殿へ向かってください」
有無を言わさず、ロッシュは馬車に乗せられた。
「うっ」
他の馬車と比べてこの馬車は揺れが少ない。しかし、そんな多少の揺れでもロッシュにとっては致命的だ。
振動が体に伝わるたび、嗚咽が込み上げてくる。
「――」
気持ち悪さと奮闘すること十数分、ロッシュは神殿へと運び込まれた。
「失礼」
ベッドに寝かされ、薄茶色の髪の神官に手を握られる。
「ふむ」
なにかに納得すると、力が強まる。淡く輝く白い光に包まれると、ずっと頭に残っていた違和感がなくなり、すう、と体が軽くなった気がした。
だが、心なしか神官の元気がなくなったように見える。
「ふう。貧血ですね。しばらく海藻やレバー、ナッツなどを中心とした食事をとってください。筋肉量からして運動はクリアしているとして、問題はその目の下の隈です」
神官は頬を膨らませた。その子どもっぽい仕草に思わず目を瞬かせる。
「睡眠というものがどれほど大事なことかわかりますか? あなたはまだ若いですから多少の無茶ができるでしょう。ですが、五年後、十年後、五十年後は? 今の生活を続けた先にある生活を、想像してみてください」
ずず、と顔を寄せられ、鋭く細められた目に圧を感じる。
「寝つきが、悪いんです」
「なるほど?」
神官はこてんと首を傾げる。ロッシュより年上だろうに、いちいちあざとい。
「えーっと、お名前、なんでしたっけ? まだお聞きしていませんよね。ポーション以外に服用している薬があるかどうかも確認したいですし、なによりご家族はどちらに? 身元保証人とでも呼びましょうか」
矢継ぎ早に質問され、ロッシュは目を回す。
「名前は、ロッシュです。薬は一応……飲んでいます」
「どんな薬ですか?」
「痛みを、和らげる薬です。魔物の討伐を生業にしていますから」
少しだけ真実を隠す。
「……鎮痛剤でしょうか?」
「みたいなものですかね」
神官は、む、と顔をしかめた。その様相に噓がばれたのではないかとロッシュの心臓がどきりと跳ねる。
「みたいなものとはなんですか」
「え?」
子どもらしい表情から一変、きりりとした雰囲気に変わる。
「今、持っていますか? 見せてください」
「寝る前に飲むものなので、宿にあります。ですが、怪しいものでは――」
「では、効能は? 副作用は? 素材は? 飲む方法は? 効き始めるまでの時間は? 期間は? 飲み合わせは?」
捲し立てる神官にロッシュは喉が詰まった。表情を硬くしたロッシュに声のトーンを低くし、神官は抑えた口調で言う。
「――この全てに答えられなければ、今すぐ服用をやめなさい」
魔法を否定された瞬間が、フラッシュバックする。
ルネ、アルマン、カシアスのあの目。恐れ、否定を滲ませた三人に、目の前の神官を通して見つめられているような気がした。
「――」
ばくばくと動悸が激しくなる。視界がじわじわと暗くなっていく。呼吸が、浅くなる。
「しっかりしなさい」
がしっと掴まれた肩に意識が割かれ、ロッシュは我に返る。
「ちがう、違う……俺、は……魔法を」
「体内に入れて血肉とするものくらい、自分で把握していなさい!」
激しい剣幕に、ロッシュは奥歯を噛む。体の中心から指先へ、波のように震えが突き抜けた。
「……大きな声を出して申し訳ありません。ですがこれは、神官として言わなければならないことなのです」
ロッシュは頭に血が上ったのがわかった。わかっていたのに、衝動は抑えられない。
「俺は、頼んでない……っ」
酷く、声が震えていた。
神官が面を食らうが、蓄積されていた苛立ちをぶつけてしまう。制御できない感情を恩知らずにも押しつけた。
「――」
八つ当たりだ。わかっている。わかったうえで吐き出して、治癒してくれた人を、傷つけた。
唇を震わせて、宥める言葉を探させている。きっと、これ以上熱くならないよう、傷を抉らないように、慮ってくれている。
「は……はあ、はあ……っ」
だからロッシュは、逃げ出した。
お金を払っていないだとか、謝らなければだとか、そういったことは宿の部屋に帰って、ベッドに潜り込んでから気がついた。
なにも考えたくない。ロッシュは靄がかかったような意識の中、小瓶に手を伸ばし、ひっくり返す。
◇◇◇
「臆病者」
どこからか声が聞こえる。
「臆病者」
繰り返されるそれはやがて明瞭になり、耳元で響いた。
「臆病者」
ロッシュは振り返る。否、動かせる頭がない。
意識はたしかにある。けれど器がなく、一面の黒い闇に溶け込んでいた。
「もっと、魔法を使ってよ」
いつの日か響いた気がした、幼い頃の自分の声だ。
それに気づいた刹那、目の前にぱっと人型が模られた。魔法が使えず、諦めを覚え始めた頃の自分の姿。
「散々、邪魔されてたでしょ」
「――」
声を出そうとしたら、詰まったように出なかった。
「カシアス兄さんに嫌われてたこと、忘れないで」
心臓なんてないはずなのに、大きく波打った気がした。
「なにもなかったみたいにしてるけど、ついた傷はなくならない」
幼い自分が、包み込むように左胸へと両手を添える。
「オスカー兄さんにあの人をとられたこと、忘れないで」
目だってないのに、見開いた気がした。
「先に仲よくなったのは、俺だったのに」
「――」
「魔法、使ってよ。俺が使いたくて使いたくてたまらなかった魔法、使ってよ。今の俺なら、使えるんでしょ?」
つきりと頭ではないどこかが痛んだ、気がした。
「みんな、俺のことが怖いんだ。だから魔法を使うなって言う。俺のことを考えてくれるなら、そんなこと言うはずはないでしょ。だって俺は、あんなに羨望してたから」
「――」
人型が、溶けていく。霧散して、目の前から呆気なく、ぱっと消えた。
「今まで魔法が使えなかったのは、どうして?」
最後に耳元で、そう響いて。




