二十話 家出
ロッシュは伸ばしかけた手を引っ込める。自室のクローゼットには魔物討伐ギルドの制服がかけられ、主に袖を通されることを待っていた。
「これは、だめだ」
制服を着ていこうものなら一目でばれてしまう。着る機会は少なかったが、普段着として用意していた白のシャツと黒のズボンを引っ張り出す。
ロッシュは今、夜逃げまがいのことをしようとしている。テオドールはロッシュを宿舎に置いてすぐ、ギルドのほうへ向かった。用事を済ませたら迎えに来るとのことで、もたもたしている時間はあまりない。
防水袋に魔物討伐ギルドから今までに受け取った給与と申し訳程度の着替えを詰め込み、ロッシュはぐるりと部屋を見回した。
「カシアス兄さんが、持っているのかな」
残念ながら、ベルトと短剣は見当たらなかった。部屋中をひっくり返して探す時間はなく、もちろん当人に聞きに行くわけにもいかない。
「――」
「――そんなことだろうと思っていたよ」
諦め、部屋を出ようとしたとき。開けた扉の先でアルマンが腕を組んで立っていた。足先から頭のてっぺんまで、じろじろと見たアルマンが呆れたような顔をする。
魔物討伐ギルドの制服は着ず、防水袋を背負い、こそこそと部屋を出ようとするロッシュ。聡明なアルマンなら、今、なにが行われようとしているかわかっているだろう。
「忘れものだ」
「え?」
止められると身構えたが、差し出された手にはロッシュのベルトと短剣があった。それをぽかんと見てしまう。
「いらないのか?」
「い、いります」
おずおずと受け取る。
沈黙に耐えられなくなり、ロッシュが口を開いた。
「止めないんですか……?」
「止めたら残るのか? 残らないだろう。それなら僕が言えることは一つだけだ」
ロッシュは固唾を飲んで続きを待つ。朱色の目が、氷のように冷ややかになった。
「君が思っているより世界は、甘くない」
「――」
アルマンはそれだけ言うと、踵を返した。
「あ、あの……っ」
「なんだ」
足を止め、振り返ってはくれる。
「……ごめんなさい」
「それはなにに対しての謝罪だ? 少なくとも僕は、君に謝られるようなことをされた覚えはないけど。とにかく、出ていくのならさっさと行くといい」
それ以上、ロッシュはなにも言えなくなってしまった。
遠ざかっていくアルマンの背中が見えなくなった頃、ロッシュの足はようやく動いた。宿舎を抜け、厩舎へと向かう。外はすっかり日が落ちて暗くなっていた。
厩舎の奥で眠っていた脚長力馬はロッシュの足音を聞きわける。円らな瞳にその姿を捉えると、柵に阻まれながらもロッシュぎりぎりに近づき、首を伸ばした。
「また、俺を乗せてくれる?」
答えは頬ずりだけで十分だった。
「ロッシュ!」
脚長力馬に跨ったロッシュははっとして入り口に顔を向ける。
ランタンを片手に、息を切らしたイリスがそこにいた。
「イリス……」
「ロッシュが宿舎を出ていくのが見えて……厩舎の方向へ歩いていったから……」
「俺」
「魔法、使えたんだって!?」
脚長力馬の厩舎に、イリスは入れない。だからロッシュは周りを気にしながらも、イリスの傍に寄った。
「うん。使えたんだ、俺にも」
「よかったね。ねえ、どんな魔法? やっぱり闇属性の魔法……って、ロッシュの魔力が闇属性なんだから、魔法も闇属性だよね」
「――」
「あ、気が急いちゃって……なによりも先に、目が覚めてよかったって伝えないといけなかったね。神殿から出られたってことは、もう体調は大丈夫なの? 無理してない?」
「イリス」
なにもかもを無視して名前だけを呼ぶ。イリスの笑顔が、固まった。
「――ごめんね」
手綱を操り、ロッシュは厩舎を飛び出した。イリスの引きとめる声は風の音にかき消されて、けれどロッシュは速度を上げ続ける。通りを抜けて、王都を出て、街道を駆ける。
仕方のないことだ。認めてもらうにはきっと、成果を上げなくてはならない。この魔法とうまく付き合っていけると証明できれば、「推奨できない」なんて言わなくなるはずだ。
ロッシュは夜通し街道を走り、早朝にどこかの街へと辿り着いた。
「俺の荷物ばっかりで、脚長力馬のものはなにも持ってきてなかった。餌とかあるかな? 飲み水は……俺と一緒で大丈夫だよね」
ひとまず、今日はこの街に一泊し、必要なものを揃えてさらに南下するつもりだ。
まだ王都に近い街ということもあり、それなりに物資を揃えることができる。店が開いてきた朝に諸々を購入しておき、昼は宿で睡眠をとり、夜には出発した。そうして脚長力馬を走らせ、ロッシュはひたすら南を目指す。
フィエルテの南は海だ。国境はないため隣国との小競り合いは発生しないが、厄介な魔物が多い印象がある。特に海中の魔物はまだまだ知見が浅く、誰も遭遇していない未知の魔物もいるだろう。
とはいえ、ロッシュもいきなり海の魔物に挑もうとは考えていない。ゆくゆくの目標ではあるが、当面は己の魔法の限界を知ることに専念するつもりである。
「――ついた」
およそ三日。海辺を治めるクラージュ領へと到着した。王都には見劣りするが、確実にヴァンサン領よりも活気に満ちる領地である。
◇◇◇
「ロッシュがいなくなった!?」
ときは三日ほど前に遡る。
ロッシュが厩舎を飛び出したあと、その数時間後にカシアスは弟の家出を知らされた。
王城の魔物対策課と模倣猿や岩竜の処遇についての議論が白熱し、カシアスがギルドに戻られたのは夜も更けた頃である。
神殿へ、ロッシュの元へと再び足を運んだカシアスは、神官に事態を伝えに来ていたテオドールと鉢合わせた。
「そ、それが……」
テオドールは眉を下げ、神殿から今に至るまで、ことの顛末を話した。
「イリスが、ロッシュが脚長力馬に乗って飛び出していったって」
カシアスは唇を強く噛み、ふらりとよろけた。慌ててテオドールに支えられるが、頭が真っ白になっていた。
「……俺たちの、俺の……せいだ」
でも、あのとき、あの場で、自分はなんと声をかければよかったのか。
己の中に流れる血を操る。ヴァンサンらしく、闇属性らしい魔法。これまでのロッシュの気持ちを知る分、もちろん発覚は喜ばしい。
だが、内容は到底、喜べるようなものではない。
「だって、そんな魔法を使い続けたら……ロッシュは、死んでしまう」
王国中を探せば、血液を生成できる、あるいは回復できる魔法士がいるのだろうか。仮にいたとしても、ロッシュには絶対に紹介はできない。
魔法に憧れ、恋焦がれ続けたあの子はきっと、自分を傷つけることを厭わなくなる。そして、まるで他人事のように血を流し続ける。
「ロッシュを、探さないと……」
「探さなきゃいけないのはそうだが……ロッシュだってもう、引きこもっていたばかりのロッシュじゃないだろ? 朝になってから探しても」
「ああ、そうだ……ロッシュはいつも、家に閉じこもっていた。だから、外の世界を知らない……っ。どれほど危険で、いつ何時も死と隣り合わせにあるか、知らないんだよ!」
カシアスはギルド長としての立場ではなく、兄として叫ぶ。
「朝になってから!? 朝になる前に死んでしまったら!?」
「いい加減にしろ! いつまでロッシュを弱いと思い込んでいるんだ!?」
テオドールに怒鳴り返され、カシアスは目を見張る。
「あいつはもう、立派に戦えているだろ」
「だって、ロッシュは……」
「お前が見てやらなくて、認めてやらなくて……誰がロッシュの傍に寄り添ってやれるって言えるんだ!?」
テオドールに肩を揺さぶられ、目の奥が熱くなっていく。
「カシアス。お前はあいつに、魔法を使いたいと思い続け、ようやく叶ったロッシュに……一言でも祝福の言葉をかけてやったのか?」
唇が震えるが、声は出ない。
「お前の言いたいことだってわかる、わかるぞ。使うたび命を削る魔法なんて、そりゃあ使わないでくれって思うのは当然だ。だがまず、『よかったな』って、一緒に喜んでやるのが先じゃないのか……? あいつの気持ちを知っているって言うなら、なおさらだ」
カシアスは強く奥歯を噛んだ。そうでもしなければ、目尻に溜まる涙が、零れ落ちてしまいそうだった。
「――騒がしいわね」
突如として鼓膜を打った女性の声に、二人は同時に顔を向けた。
「ロッシュが魔物討伐ギルドに入り、巨熊討伐に一役買い、友人を作り、脚長力馬を手懐け、夜犬を蹴散らし、岩竜の首を落とし、死地を彷徨うほどの怪我を負い、目を覚まさないと聞いて」
金色の髪と目。闇夜に浮かぶ月を思わせるような淡黄のドレスに身を包んだ、二十代くらいの女性がヒールを鳴らして近づいてくる。
「オスカーの妻として。そして、ロッシュの友人として」
二人はよく知るその人の来訪に、驚かずにはいられなかった。我に返ったのは、凛とした顔の彼女に、容赦なくぎろりと睨まれたときだ。
「――なにが嘘か、確かめにきたのだけれど?」