十九話 推奨できない
長らく眠っていたロッシュの意識が覚醒する。薄っすらと開いていく目に映る天井はいつもの宿舎のものではなく、見知らぬ石造りの白い天井だった。
「体が、動かない……?」
意識ははっきりしていくが、体が鉛のように重く感じた。
「ここは、どこなんだろう」
頭だけはかろうじて動かせる。首を左右に振り、辺りを見回す。ロッシュが横になっているベッドと、来客用の椅子が壁に並べられている簡素な部屋だ。
それにしてもベッドは体を包み込むように柔らかく、ふわふわとしている。寝心地が素晴らしい。
「――目が覚めたのか」
ベッドの感触を楽しんでいたロッシュはびくりと目を見張る。
「あ……アルマンさん?」
入り口で、朱色の目をぱちくりとさせてこちらを見ていた。
「少し待っていてくれ。ギルド長にすぐ呼ぶよう伝えてくる」
「あ」
返事を待たずして、アルマンはどこかへ行ってしまった。すぐに戻ってくるかと思ったが、なかなか姿が見えない。
ある程度予想はついているが、ここがどこなのか聞きそびれてしまった。しばらく天井を見つめていると、アルマンではなくカシアスがやってきた。
「カシア――」
兄の名前を呼ぶ前に強く抱きしめられる。
「よかった。目を覚ましてくれて、よかった」
兄の切実な声音に、本当に死地を彷徨っていたのだと自覚する。
「心配かけてごめんね」
柔らかな熱に、ロッシュもゆっくりと背中に手を回した。
「ところで、ここって神殿?」
「ああ。ロッシュは三、四日も眠ってたんだよ」
「そんなに!?」
どおりでだるいわけだ。
「あ、アルマンさん……と、ルネ神官」
扉がノックされ、二人が入ってくる。アルマンはルネを呼びにいってくれていたようだ。
「どこか痛かったり苦しかったりなどはありませんか?」
「体が重い感じがすること以外、大丈夫だと思います」
「酷い怪我を負い、数日もの間、眠りについていたのですから無理はありません」
ルネは軽く診察してくれ、体調に関しては「問題なし」と判を押してくれた。
「なにがあったか……いや、なにをしたのか話してくれるか?」
カシアスの引き締まった表情に、ロッシュも息を詰める。
「そ、そう……! カシアス兄さん、俺……魔法が使えたんだ」
「その、魔法って?」
「えっと……」
ロッシュはあのとき抉られた脇腹を抑えた。痛みはおろか傷痕だって綺麗さっぱり消えている。
「多分だけど、血を……操れるんだ」
三人は予想していたのか、驚くようなことはない。だが、三者三様に頬を固くしたことは見て取れた。
「形や硬度を自由に定められて、思い通りに動くんだ」
自らから溢れる血を操ったときの高揚感が戻ってくる。心がどきどきして、けれど頭がざわざわしていた。
「確認だけど……君が一人で、あの岩竜の首を落としたんだね?」
「はい、そうです! でも俺、気を失ってしまって……」
「模倣猿や岩竜のことは王城の魔物対策課と協議を重ねているから、ロッシュは気にしなくていい」
カシアスの表情が暗い。なぜ、そんな顔をするのだろうか。
「カシアス兄さん……?」
「ロッシュさん、私からもいいですか?」
「え? はい、なんでしょうか」
ロッシュはルネへと顔を向ける。やはり、ルネの顔色も明るいものではない。
「血を操ると言いましたが、もう少し具体的に教えてもらってもいいですか? ああ、決してロッシュさんのことを疑っているわけではありません。これは、神官として聞かねばならないことなのです」
ロッシュはあのとき、なにが起きたのか順を追って説明した。
模倣猿に鋭い爪を脇腹へ突き立てられたこと、魔法が使えたのは偶然だったこと、体外へ出た血だけではなく、まだ体内にある血を出せたこと。覚えていることを包み隠さず話した。
だが、話せば話すほど、みんなは深刻そうな顔をする。
「他者の血は操れますか?」
「それは、わかりません……」
「そうですか。すぐに戻りますので、お待ちください」
部屋を出て、足早に戻ってきたルネの手には布包みがあり、その中身は小柄なナイフであった。
「……っ!?」
「どうですか? 操れますか?」
ルネは自分の手のひらをナイフで切った。ぽたぽたと血が滴り、床を赤く濡らすさまはとても痛々しい。
「ルネ神官、血が……! は、早く治癒を……っ」
「確認してください」
ルネは動じることなく続ける。ロッシュは意識を集中させ、ルネの血を操ろうと試みるが、ぽたぽたと落ち続ける一方だ。
「で、できないです」
「わかりました。人間以外の血も確認したいところですが、あいにくここにはありません。とはいえ、ロッシュさんが血を操れる対象は自分だけだと思います」
ルネは淡々と説明しながら、自身に治癒魔法をかけた。どうやら他者だけでなく自分の怪我を治すこともできるようだ。
「血を作り出すことはできますか?」
「できない、です」
「ふむ。ではあくまでそこにある血を使うしかないと」
アルマンが氷を生成できるように、ロッシュも血を生成できればよかったのだが。
「結論から申しましょう。ロッシュさん、私はあなたが魔法を使うことを推奨できません」
ロッシュは目を丸くする。
「な、なんで……そんなこと、言うんですか?」
「これは私個人の意見ではなく、神官としての警告です。ロッシュさんの魔法は危険すぎます。このまま行使し続ければいずれ、ロッシュさんは命を落とすことになるでしょう」
「――」
「ロッシュさん。人は三、四割の血液を失うと意識不明に、五割を失えば死に至ります。それに加え、ロッシュさんの魔法は失血速度も関わってくるでしょう。一度に多くの血を失えば、それ相応の身体ダメージを受けます。五割を失わなくとも、死に至ることだってあるのです」
ルネは小さく息を吸う。
「幼い頃から魔法と触れ合ってきた魔法士とは違い、ロッシュさんは魔力の扱いに長けていても魔法の使い方は赤子同然。魔法が発覚して嬉しい気持ちはわかります。ですが――」
「俺の気持ちなんて」
ロッシュは強く奥歯を噛む。
「わかるわけがない」
「――」
白くなるほど手を握り、吐き出すように言った。
ようやく、夢に見るほど待ち望んだ魔法を、どうして否定するのだろうか。どれだけ悲しくて、辛くて、苦しくて、惨めで、それでも発覚した魔法を一緒に喜んでもらえなくて、どうして「気持ちがわかる」なんて言えるのだろう。
わかるわけが、ない。
「しばらく、一人にしてください」
「ロッシュ……」
「出てって」
ロッシュは兄とも会話を拒絶して、再び横になり、毛布を頭まで被る。
「カシアス兄さんも、ルネ神官みたいなこと言うんでしょ」
「俺は、ロッシュに」
「出てってよ。なにも聞きたくない!」
「……わかった。また来るよ」
三つの足音が遠のいて、扉の閉まる音が聞こえた。ぽつんと残ったロッシュは毛布から顔を出して、目を伏せる。
一緒に、「おめでとう」と、「よかったね」と、喜びを分かち合ってくれたなら。
夕刻。再びカシアスがやってきたが、ロッシュは眠っているふりをした。何度かの呼びかけにも返事をしないでいると、しばらくしたらカシアスは帰っていった。
寂しそうな兄の声に胸を締めつけられたが、認めてもらうには仕方のないことだ。
そう、認めてもらうには、自分がこの魔法を使えると証明しなければならない。だからロッシュは、ギルドから離れることを決めた。
そのためには、準備が必要だ。
「伯父さん、俺はいつ帰れる?」
翌日、見舞いに来た伯父のテオドールにそう尋ねる。カシアスは王城の魔物対策課に呼ばれて一緒に来られなかったそうだ。
「そうだなあ。まだしばらくは無理なんじゃないか? まだ貧血なんだろ?」
「俺はもう大丈夫だよ。みんなが大げさなだけ」
「それに、カシアスからも念を押されているんだ。ロッシュが無茶しないように、見守ってくれってな」
ロッシュは笑みを作る。
「えー? 俺はもう子供じゃないよ。竜だって倒せたんだから!」
「ああ、シャルロットから聞いたよ。まさか血を操る魔法だなんて想像もしてなかった。だがまあ魔法が使えるようになって、本当によかったな。お前が塞ぎ込んでいた時期もあったし……俺も嬉しいよ」
純粋な賛辞が送られ、ロッシュは僅かに喉を詰まらせた。
「でも! お前の魔法は……いや、闇属性の魔法は使い方を間違えると自分の命を危ぶむことになってしまうからな。俺も手伝うから、ゆっくり学んでいこう」
優しい手に頭を撫でられ、ロッシュの決意が揺らぐ。
「伯父さんは……」
「ん?」
テオドールは首を傾げる。
「ううん、なんでもない」
魔法を使ってもいいか。もし尋ねて肯定されたら、家出を取りやめてしまうかもしれない。そもそもルネもカシアスも、アルマンだって難色を示していた。
テオドールが認めたとしても、他の人が承認しなかったら意味がない。
「――ねえ、叔父さん。俺、ちょっとだけ宿舎に戻りたい」
「え? なんでだ? ホームシックか?」
「違うよ。ほら、まだしばらく神殿にいなくちゃいけないなら、持ってきておきたいものもあるし。ね、ちょっとだけ! 伯父さんが一緒ならいいでしょ?」
ロッシュは胸の前で手を合わせ、頭を下げる。
「それなら俺が持ってきてやるから」
「だって、ずっと神殿にいるんだ。飽きちゃうよ」
テオドールは腕を組み、「うーん」と唸る。
「気分転換に、荷物を取りに行くだけ。お願い! ……それにっ、脚長力馬にもそろそろ会わないといけないんじゃない!?」
「それもそうだな、うん。ちょっとだけならいいか?」
力押しではあるが、なんとかテオドールの首を縦に振ることに成功する。嘘をつき、協力してもらうことに罪悪感はあるが、それでもロッシュは、溢れる欲望を止めることはできなかった。