十七話 魔法は想像で、創造だ
配慮なんて微塵もない疾走に、体が大いに揺さぶられる。掴まれた胴が苦しく、ばたばたと乱舞する頭と四肢が痛む。
「っ……」
瞼が震えたロッシュの目に映ったのは、ものすごいスピードで流れていく土の地面だ。
「おーい、おーい」
上から降ってくる声と、身動きの取れない体。模倣猿に鷲掴みにされ、どこかに連れてかれていると理解するのに、時間は必要としなかった。
坂を下っていた。いつの間にか植物の生い茂るジャングルではなくなっていて、通路を走っている。
いったいこの猿はどこを目指しているのか。それともただ、なにかから一心不乱に逃げているだけなのか。
「――」
模倣猿が減速する。揺れがなくなり、ロッシュは顔を上げた。
薄暗く、けれどどこまでも続いていそうな、ごつごつとした岩の地面、壁、天井の空間がここにある。不安をかきたてられるのは、剣山のように鋭い岩がそこら中にあるせいだ。
「……ォォ」
地鳴りのような音が耳に届いた瞬間、自分の胴を握る手に力が込められた。
「ぎ、ゃあああぁ――ッ!?」
左の脇腹に熱が集中する。灼熱さえ感じるそこを中心に、やがてとてつもない痛みが広がった。ちかちかと視界が明滅し、ロッシュは手の中で悶える。
模倣猿の爪が、脇腹に食い込んでいた。身じろぎするほど痛みが増して、喉が張り裂けそうなほど叫ぶ。
痛い、熱い、痛い、痛い。なにも考えられなくなる。
「――ぁ」
ふいに、手が離された。どさりと地面に落とされたロッシュは、なんとかして痛みを逃がしたくてごろごろと転がる。
制服を染め、地面に流れる血を見ながら、ロッシュは声にならない声を上げた。
自分はどれほど、甘やかされた環境にいたのだろうか。それを今、思い知る。
幼い頃から、魔法が使えないことを不憫に思われ、それは寵を受けて育った。両親からは欲しいものを全て買い与えられ、兄たちからは手を擦りむいただけでもポーションを飲むように言われていた。
ポーションは一本、金貨五枚で取引されている。本来ならかすり傷程度で飲むような代物ではない。
だからロッシュはほとんど、痛みとは無縁に過ごしてきた。
「おーい、おーい、おーい」
模倣猿へと顔を向ける。背中に氷柱が一本、刺さっていた。
気を失う直前、血しぶきが見えたのは気のせいではなかった。恐らく、アルマンが魔力をかき集め、最後に一撃を与えたのだろう。
「……?」
ロッシュは違和感を覚える。模倣猿の体が小刻みに震えていた。なにかを恐れているように、きょろきょろと辺りを見回している。
「な、にを……」
地べたに這いつくばっているから、それは鮮明に感じた。
「――オオォォ」
地面が、揺れている。
ずしん、ずしん、と内臓を震わす地響き――否、足音だ。
「しにたくない、しにたくない」
模倣猿がばんばんと地面を叩く。
「――」
ロッシュは薄闇から現れるそれに、呆然と目を奪われる。
「――岩竜」
黄金色の鱗に覆われ、背中には多角形の翼、重厚感のある巨躯。強靭な尻尾にくっついた岩石が地面を削っていた。
岩竜は地底に住むとされており、竜の中で唯一、空を飛ぶことができないことが確認されている。
「うっ、が……っ」
金色の、縦に割れた瞳孔と目が合ったと思った瞬間、岩竜の咆哮が轟く。たちまち地震が発生し、抵抗もできずに激しく揺さぶられた。ロッシュは目を瞑り、必死に耐える。
模倣猿も四つん這いになり、身を屈めていた。
しばらくして揺れが鎮まり、ロッシュは目を開ける。
「いた、いたく、ない……っ」
自分に言い聞かせ、ロッシュはふらりと立ち上がった。ぜえはあと肩で息をして、脇腹をぐっと押さえる。
「逃げ、ないと」
岩竜から目を離さないよう、じりじりと後ろへ下がる。
「なっ!?」
がん、がん、と岩竜が剣山のような岩に尻尾を叩きつける。そうして砕けた岩が宙に浮き、ロッシュと模倣猿にめがけて飛んできた。
これが拳大の石ころだったならまだ笑えたかもしれない。けれど今、襲いかかってきているのは石ころなんて可愛いものではなく、粗大な岩石だ。
走って逃げようとするロッシュだが、刺傷が痛んで膝をつく。刹那、直前までロッシュの頭部があった場所を岩石が通過した。
「ギャッ」
悲鳴の主は模倣猿だ。岩石を避けられず、勢いのまま壁まで吹っ飛んでいた。そして、ぴくりとも動かなくなる。
ロッシュの背筋がぞっと凍った。
いくらアルマンとロッシュがダメージを与えていたとはいえ、模倣猿を一撃で仕留めたのだ。そんなにもあっさりと倒れるのならば、アルマンの攻撃で倒れてほしかった。
「は、は……は、ッ」
呼吸が浅くなる。視界がぶれる。音が遠のいていく。
「――グォオオオ」
びりびりと鼓膜を揺らす咆哮に身がすくむ。はっとしてロッシュは背中に手を回すが、短剣はない。当たり前だ。意識を失っていたのだから、短剣を掴み続けることなどできず、鞘に納める余裕もなかった。
それなら、とポケットをまさぐる。片方に闇の魔石が二つと、もう片方に魔晶石が一つ。
ロッシュは闇の魔石を二つ手に持ち、岩竜に向けて投げた。岩のような鼻先にぶつかり、割れる。
「よ、し」
岩竜の頭を闇が覆う。数秒の目くらましにはなる。その間に少しでも、少しでも遠くへ。
ぼたぼたと額から頬へ汗が伝い、じくじくと抉られた脇腹が悲鳴を上げる。
「はあ……っ、ぐぅ!?」
まただ。揺れる地面に立っていられなくなる。
両手をついたロッシュに、いやな――どたどたと走る音が耳に届く。短い足を動かして、闇から抜け出した岩竜が向かってきていた。
「く、来るな!」
迫りくる重圧に押しつぶされそうになる。
ぐわ、と鋭い歯の並んだ口がと開けられた。
「うわあああぁぁっ」
死にたくない。その一心でロッシュは目を瞑った顔の前に両腕を出し、体を庇おうとする。
瞬間、岩竜の咆哮が響き渡る。しかし、それは今までとは違う叫びだった。
まるで、痛みに悶えているような。
「――ぇ?」
恐る恐る開いていた目が大きく見開かれる。
「は、なん……?」
ロッシュは自分の目を疑う。
赤い液体が氷柱のような形になって、岩竜の首元に深々と刺さっていた。
「うっ」
眩暈と脱力感に襲われ、ロッシュはふらつく。が、再び膝をつくことはない。どうして今、この瞬間に膝をついていられようか。
「ぁ」
赤い液体、あれは疑いようもなく血だ。どこから現れたかといえば、ロッシュの抉られた脇腹。
絶体絶命であるというのに、違う意味で心が震えた。急激に思考が更新されていく。ああ、そうだ。二番目の兄に「王都へ行かないか」と誘われたときの、あの高揚感。
――魔法は想像で、創造だ。
無意識下。魔法の師はアルマンの姿。
初めからそれが摂理だったかのように、ロッシュは右手を高く掲げ、ぎゅ、と拳を握っていた。
「――」
動いた。氷柱から形をなくし、液体としての姿に戻る。
「槌みたいにできるかな……?」
もはや痛みなど忘れてしまっていた。
そして、ロッシュはあの血液が槌になる想像をした。
「できた」
イメージさえしてしまえばぱっと姿形を操れる。ロッシュは勢いよく右手を下げた。
血液の槌が振り下ろされ、岩竜の頭を直撃する。あまり効いているようには見えない。だから槌はやめる。
氷柱のように戻そうかと思ったが、今度は斧のようにしてみた。しかし、血が足りない。岩竜の首を落とすには、もっともっと大きい斧でなくてはならない。
「これも、操れる?」
ロッシュは脇腹に触れる。左手に血液の塊がまとう。それも合わせて、ロッシュは再び拳を握る。
「すごい、すごいすごいすご……いっ」
シャルロットが火を、アルマンが氷を操るように、ロッシュは自身に流れる血液が操れている。朦朧とする意識を興奮で繋ぎ止め、血液の斧を形成する。
柔軟で流動的に、けれど硬質化も併せ持つ。
「かふっ」
口から溢れるこの血ももったいない。ロッシュは弾丸を浴びせるがごとく岩竜にぶつける。
「グオオォ――ッ」
「だめだよ、動かないで」
血の弾丸を払おうとする岩竜のうなじに、血液の斧を振り下ろす。
がん、と鈍い音がした。岩竜の血液が飛び出すが、切断するまでには至らない。
「さっきは、刺さったのに。鋭さが、足りない……?」
地面が大きく揺れた。しかし、先ほどまでと打って変わってかなり威力が弱まっていた。ロッシュが思考を巡らせる余裕があるほどに。
目の前がちかちかする。息が荒くなる。体がふらふらとする。一瞬でも気を抜けば倒れてしまいそうになる。
でも、だけど、なによりも、楽しくてやめられない。
「――これが、魔法」
ロッシュは右手を上げて血液を、斧からただの塊に形を解き、そこから形成する。断頭にうってつけの、一枚の刃を。
「あは、はははっ。俺も、魔法が使えたんだ」
ゆっくりと、右手を下げた。
ごと、と首が落ちる。まるで気づくのが遅れたみたいに、岩竜の切断された首から血が吹き出し、司令塔を失った胴体がずしりと倒れる。
それを見届けたロッシュの意識が、ぷつんと途絶えた。どさりと仰向けに倒れる。
「――」
最後の最後まで、今の今まで、ロッシュは自分がぼろぼろと涙を零していたことに、気づくことはなかった。




