十六話 模倣猿
「しにたくない、おーい、おーい、たすけて」
初撃をしかけたのは模倣猿。アルマンが負わせた傷など意に介さず、ぶら下がった蔓で勢いをつけ、一気に距離を詰めてきた。
長い手がしなり、二人ともども薙ぎ払わんとする。
「――」
ロッシュに到達するより前、アルマンが氷盾で受け止める。土の上を両足が僅かに滑るが、吹き飛ばされるようなことはない。それだけでは終わらせず、アルマンは氷剣で無防備になった模倣猿を斬りつける。
けれど、攻撃が通らないことがわかった模倣猿は後ろに飛び退いた。ぽりぽりと頭を指先でかき、首を傾げる。
「学習される前にどうにかしなければならないね」
「俺が、やります」
アルマンの眉がぴくりと動く。
「展望はあるのか?」
「時間稼ぎくらいはできると思います」
ロッシュは短剣を構える。
ここ最近はずっと、短剣の訓練ばかりしてきた。大きな体躯の人、力の強い人、すばしっこい人、自分よりもはるかに優れた人材の集まる魔物討伐ギルドは、成長を遂げるにはうってつけの場所だ。
「そこは、君が仕留めると胸を張ってもらいたかったね」
瞑目したアルマンはその場に氷の剣と盾を放棄する。それから手を高く掲げ、ぎゅ、と握った。
ロッシュと模倣猿が地面を踏み切ったのはほぼ同時だった。模倣猿のほうが少しだけ早かったが、どうせいずれは激突する。誤差の範囲にすぎない。
「たすけて、たすけて、おーい」
「……うるさい」
しなる左腕を手首で上から下に受け流し、ロッシュは体を回転させながら短剣に力をそのまま流す。
次の動作へ移ろうとしていた模倣猿の右腕に、刃が沿った。
「しに、しにたくない」
皮が斬れたくらいで、肉には到達していない。まだだ、とロッシュはもう一歩踏み込む。が、腕を掴まれる。
左腕は軌道を変えただけ。ダメージなんて入っていなくて、動かそうと思えばいくらでも動かせる。
「っ」
ぐん、と浮遊感。そして内臓が浮いたような感覚に歯を噛んだのも束の間、ロッシュは地面に叩きつけられた。
「が、はッ」
弾んだ拍子に衝撃が背中から胸へと突き抜ける。
「ロッシュ!」
痛みに喘ぐ間もなく、今度は横に投げ飛ばされた。なすすべもなく体は空を切り、大木の幹に衝突する。
「う、ぁ……あ」
どさり、と体が地面に落ちる。
「おーい」
なんとも癇に障る音だろう。ロッシュは大木に短剣を突き立て、なんとか立ち上がる。
「おーい、おーい」
口の端から、たらりと血が流れる。無造作にそれを拭い、ロッシュはポーションを飲む。ただでさえまずいポーションと鉄の味が混ざり合って、吐き気がした。
しかし、それすら意識を保つのに役に立つ。
「たすけて、しにたくない、たすけて、たすけて」
「……るさいよ」
模倣猿がばんばんと地面を両の手で叩いた。人語をまねただけの、「おーい」と呼びかけられるほど心が冷えていく。
「おーい、たすけて」
ロッシュは口の中に残るポーションの残滓を吐き出す。
どくどくと、心臓が脈打っているのがわかる。
「――殺さなきゃ」
明確な殺意。普段の討伐とはわけが違い、どこか高揚していた。
いてもたってもいられなくて、どうしようもなくもどかしくて。こんな気持ちは初めてだ。
口元が歪む。
ざわざわと心が波を立てている。許してはいけない、殺さなくてはならない、そう思えば思うほど、なぜか頭が冴えていく。
自分が、自分じゃなくなるような。陰に隠れてばかりいた自分が、顔を出したいと望んでいる。
「ロッシュ、冷静に――」
アルマンの呼びかけなど耳に入らず、ロッシュは模倣猿との距離を詰める。向こうもその気で、真正面から刃を受け――否、手首で受け流した。
その一瞬に、ロッシュは目を見張る。
「おーい」
――模倣された。
前のめりに放り出されたロッシュを穿つよう、下から上に振り上げられる一撃が目に映る。しかし、すんでのところで氷壁がせり上がり、抉るようなパンチが阻まれた。
「――」
咄嗟に壁を越えようとしたロッシュは動きを止める。
弾かれて体勢を崩した模倣猿の周囲を囲むのは、先端の鋭い氷柱が十数本。アルマンが手を下げたと同時、それらが容赦なく模倣猿に叩きつけられた。
冷気がぶわりと吹き抜け、ロッシュは耐えられずひっくり返る。
「模倣猿は」
風を受け、ざわついていた木々が静かになる。
アルマンの視線の先、模倣猿が地に伏せていた。体毛は赤くなり、ところどころ肉が抉れているのが見えた。
「やった、やった……っ」
ロッシュは歓喜に息を漏らす。
「はしゃぐな。討伐はまだ――」
言葉半ばでアルマンが片膝をつく。ロッシュは慌てて肩を貸す。
「大丈夫ですか!?」
「魔力枯渇による眩暈だ。少し休めば、問題ない」
魔力枯渇とは、文字通り魔力が空になった状態のことだ。眩暈や頭痛、倦怠感に襲われることが多く、酷いときは気絶するものもいる。
ロッシュは、枯渇はおろか不足になったことはないが、幼い頃はカシアスが悩まされていた。そのため、大変さはよく知っている。
「魔力供給ができたらいいんですが……」
あいにく、ヴァンサンの魔物討伐ギルドに魔力供給の魔法を使える魔法士はいない。仮にいたとして、この戦場から探し出すのは至難の業と言えるが。
「なるほど。君たち兄弟はそうやって均衡を保っていたわけだ」
「え?」
どう納得されたのかいまいち理解できず、ロッシュは聞き返す。だが、詳しく教えられることはなかった。
「ところで、君の脚長力馬はどこに行ったんだ? 僕たちが合流した最初から姿が見えなかったが」
「あ、負傷者を安全な場所まで運ぶようにお願いしました。多分、通路まで退いてくれてると思います」
「もうそこまで信頼関係を深めたのか。どうやら君は、魔物に好かれるようだね」
「――ぇ」
ロッシュは一瞬、息を詰まらせる。
「そ、そうですかね?」
ちらりとアルマンの顔を見るが、答えはもらえなかった。
「じゃあ、アルマンさんの脚長力馬はどこに行ったんですか?」
「合流できた非戦闘員を連れ、同じく退避させている。ロッシュと会う前に、エドガールが僕の居場所を索敵し、さらにあの猿たちを潜り抜けてきたんだ。イリスもすでに戦地を脱しているだろう」
「はぐれたあとに一回だけ声が聞こえて、心配してたんです。無事ならよかったです」
アルマンの脚長力馬がついているのなら一安心だ。
「俺たちもいったん、通路まで戻りましょう。いいですよね?」
「ああ、それには賛成だよ。ここに残ったところで僕はまだ戦いないからね。悪いけど、しばらく肩を――」
はた、とアルマンの言葉が途切れる。その原因が、ロッシュにも聞こえていた。
「……ぃ」
全身から血の気が引く。
「……ぉーい」
ロッシュは戦々恐々として、それでも振り向かずにはいられない。
「そん、な」
「――おーい」
巨大な影が、立っていた。
血で赤く染まった体毛の中で、赤い目がじっとこちらを見据えている。
「っ」
ロッシュは上がりかけた悲鳴を飲み込み、咄嗟に短剣を投げつけた。深々と肩に刺さり、模倣猿が咆哮する。
その耳をつんざくような迫力に、地面が揺れたのではないかと錯覚さえしてしまう。
「いや、これは――」
模倣猿が地面を強く、強く蹴る。追い込まれた獣ほど恐ろしいものはない。
「逃げますよ、アルマンさん!」
体に鞭打ってもらい、逃走を図る。しかし、支え合う二人が満足に走れるわけもなく、もろにタックルを受けた。
二人はばらばらに、けれどかなりの距離を宙に投げ出された。全身が軋み、吐血する。枝に肌を傷つけられながら、なすすべなく下へと落ちる。
「がふっ」
ひゅー、ひゅーとロッシュはか細い呼吸しかできない。投げ出された手足も言うことを聞かなくて、けれど視線を動かしてアルマンを探す。
自分以上に満身創痍なはずだ。
「――」
アルマンを見つけるよりも先に、最も見たくないものが視界に入る。
「しに、しにたく、ない。しにたく、ない。たすけて、たすけて、おーい、たすけて」
それは、こちらの台詞だ。
ロッシュは歯を食いしばる。どれだけ体に力を入れようと、芋虫にも劣る動きしかできない。
「おーい」
近づいてくる足音に、ロッシュは涙が零れて止まらなくなる。
怖い、というより、悔しくて、悲しくて、辛い。志願しておいてこのざまである。迎え入れてくれた魔物討伐ギルドに面目が立たないし、家族にだって愛想を尽かされてしまうかもしれない。
やっと上を向いて、前に進められるようになったのに。
「ふ、ぅ……う」
視界が滲む。だというのに、模倣猿がすぐそこに迫ってきていることだけはいやでも認識できる。
「ギャッ、ギー!」
ぼやけた視界に、赤い色が足される。それは模倣猿から出てきたように見えるが、この視界では正解などわからない。
そして、誰かに名前を呼ばれた気がした。
「しにたくない、しにたくない、たすけて」
この期に及んで、意味が通るように使うのは、腹が立つ。
「げほっ」
薄れゆく意識の中で、ロッシュは模倣猿に掴まれたことだけはわかった。




