心と鏡
CHAPTER 16「心と鏡」
TKが去り、マコとアリス、そして岡本夫人の女性陣が隠し部屋の方へ引っ込んだ後、デスクでメールをチェックしていると、背後でマコの声がした。
「あの、アリスがどこに行ったか知りません?」
「アリス? どうかしたのか? わっ!」
振り向くとバスタオル一枚のマコが立っていた。
風呂から上がった直後らしく、濡れた髪がシャンプーの甘い香りに包まれていた。
ピンク色に上気した肌からは若いエネルギーが発散されているように、眩しく輝いていた。
「いなくなっちゃったんです。お風呂から上がって、目を離した隙に……」
「いなくなった、て……」
俺は立ち上がり、リビングからキッチンを見回した。
確かに、アリスの姿は見えなかった。
「ちょっと待って」
俺はパソコンに向き直り、デスクトップのアイコンのひとつをクリックした。
モニターにこのビルの監視カメラの映像が表示された。
これはビルのオーナーに無断でハッキングしている映像だ。もちろん、TKの仕事である。
「五階のエレベーター・ホールはこれか」
俺は画像のひとつを拡大すると、巻き戻しボタンをクリックした。
動画が巻き戻され、やがてモニターの中に少女の後ろ姿が現れた。
「アリス!」
マコが声をあげた。
「5分前か……」
タイムコードを確認した。
アリスは確かに、この事務所から出てどこかへ行ってしまったようだ。
「どこ行っちゃったんだろう…… アリス……」
よく考えてみれば、俺たちはアリスのオーナーでも何でもない。
アリスは勝手に付いてきて勝手に出て行ったのだ。
「野良猫か……」
本当に何を考えているのか判らない、謎のAドールだ。
「アリスちゃんのこと、みんなが化け物とか怪物とか言うから、怒って出て行っちゃったんですよ」
まさか、そんなことは……
「いや、それは……」
マコの顔が迫っていた。
「ちょっ……」
さすがに10代美少女のアップは刺激が強すぎる。
バスタオル、あぶない、落ちるぞ。
「!」
マコは慌ててバスタオルを押さえた。
そして顔を赤らめながら隠し部屋へ小走りに戻った。
「ちょっと外出してくる」
俺はデスク脇のハンガーからジャケットを降ろすと、隠し扉の向こうのマコに言った。
「アリス、探しに行くんですか?」
扉が開いてマコが顔を出した。
「残念だけど……」
「……」
マコは落胆した表情で目を伏せた。
「そうですよね…… 直人さん、アリスのこと嫌いだから……」
何?
「いや、そんなことはない……」
「だって、直人さん、アリスを見る時、怖い目をしている……」
何だって?
「そう…… なのか?」
「うん、始めて会った時からずっと。何かお化けを見るような目で、アリスを見てる…… そんな目で見られてたら、アリスだって居辛くなるよ……」
全く自覚がなかった。
しかし、アリスに自我や感情があるとは思えない。
「アリスって、本当に人間みたいに心があるんです」
まさか、俺には無表情な人形にしか見えなかったのだが……
マコには別の一面を見せていたということなのか?
「とにかく、ちょっと出てくるから。留守番していてくれ…… くれぐれも外へ出ちゃだめだぞ」
「判ってます……」
マコは落ち込んだ表情で答えた。
『アランの店』は、カイザー通りから一歩奥に入った寂れた裏路地の、雑居ビルの地下にある小さなショットバーだ。
店内はカウンター席のみで、十人も入れば満席になってしまう。
「よう、久しぶり」
店に入るや否や、常連客のひとりに声をかけられた。
いつもは常連客で席のほとんどが埋まっているのだが、今日はまだ時間が早いので席が埋まっているのは三つだけだ。
俺は会釈をすると、俺の指定席であるカウンターの一番奥の席に座った。
「10日ぶりですね、最近お忙しかったんですか?」
マスターがグラスを俺の前に置きながら言った。
シングルモルトのストレート。チェイサーはいらない。
「貧乏暇なしってとこだ」
俺は苦笑いで答えた。
マスターは白髪で、上品な口ひげと銀縁めがねの六十代だ。
経歴不明で前職は警察官ともヤクザの親分だとも言われている。
「お尋ねの件、やはり該当者いましたよ」
マスターが少し声を低くして言った。
「そうですか」
俺は中身が半分になったグラスをカウンターに置いた。
「原田智之。日本ではナンバーワンと言われる特殊メイクの専門家です。3年前、大物プロデューサーとトラブルになって映像の仕事を干され、最近では舞台やイベントの仕事をこなしているようです。ウエストガーデンのサウスコースト地区に工房があります」
「やはりいましたか。ありがとうございます」
古くから『24区』に住んでいるマスターは、驚くほど顔が広く、俺の大事な情報源のひとつだ。
「これが連絡先です」
マスターは二つ折りにしたメモ用紙を差し出した。
「いつもありがとうございます」
俺はメモ用紙を受け取ると、ジャケットの内ポケットから出した手帳に挟み込んだ。
「それと、ご注文の品、これでよろしかったでしょうか」
マスターは包装紙に包まれた小箱を俺の目に前に置いた。
包装紙の一部を剥がして中身を確認する。
白頭鷲が描かれた赤いパッケージ、32口径、フェデラルのフルメタルジャケットだ。
「間違いありません、助かります」
「珍しいですね、こんな物騒な物、注文されるなんて」
「保険ですよ。ちょっとした」
俺はグラスに残った琥珀色を飲み干すと、札入れから数枚の紙幣を出しカウンターに置いた。
「もうお帰りですか?」
マスターは意外そうな顔で言った。
「まだ酔っ払う訳にはいかないんです。仕事が残っているんで」
やはり事務所に残してきたマコが心配になってきた。
「え? 探偵さん、もう帰っちゃうの?」
俺が立ち上がると、常連客のひとりが振り返りざま言った。
この辺りでは珍しい30代のビジネスマンだ。
「すみません、まだ仕事が残ってるもんで…… 皆さんはゆっくりしてってください」
「判った、女だろ。今度連れて来てよ」
俺は苦笑しながらマスターに手で合図した。
「通り魔に気をつけてな」
今まで黙っていた別の常連客が声をかけた。
「通り魔?」
「ここんとこ毎日やられてるってな」
常連客は真剣な表情で続けた。
「ギャングやチンピラが殺されてるってあれか」
別の客。
「しかし不思議だよなあ。これほど防犯カメラがあってみんながカメラ付き携帯持ってるのに、まったく姿を見せないってのは…… 今のところ一般人は被害に遭ってないが…… あんた堅気に見えないから気をつけてな」
「ご忠告ありがとうございます」
背中で聞きながらバーの扉を開けた。
階段を上り外に出た。
ダウンタウン特有の湿った風が頬を撫でた。
見上げると、高層ビルの隙間から満月になりかけの月が見えた。
偽者の北条孝夫と、郷田の変装に使われた特殊メイクは、素人目に見ても相当高度な仕事だ。
おそらく同一人物によるものに間違いないだろう。
とりあえず岡本婦人の件とマコの件が裏で繋がっていることが判っただけでもここへ来た収穫があったというものだ。
カイザー通りはまだ人通りが絶えず、ブティックや飲食店の灯りが町並みを賑やかに煌々と照らしていた。
「ん? あれは……」
目の前に気になる集団がいた。
いずれも10代と思しき5人で、奇抜な髪形、無数のピアスと刺青……
周囲を威嚇するような視線を飛ばし、すぐにでもトラブルを起こしそうな雰囲気を辺りに振りまいていた。
いかにもガラの悪そうな集団だった。
そろそろ街にストリートギャングが繰り出す時間帯だった。
「あいつら……」
ギャング風の集団がコンビニに入って行くのが見えた。
ごつい体に優しい目をしたオーナーがいるコンビニだ。
少し心配になった俺は、連中の後を追って店のドアを開けた。
「こちらのジェルでしたら肌の弱い方にも安心してお使いいただけます……」
店に入ってみると、件のオーナーがギャング風の五人相手に商品の説明をしていた。
いつも通りのにこやかな顔で、様々なコスメを手に取り、丁寧に対応している。
「お客様の髪質ですと、こちらのムースの方が纏まりが良いかと…… 今ならこちらの試供品の方もお付けしますが」
結局5人の男たちはそれぞれ、男性用化粧品とペットボトルのソフト・ドリンクを買い、店を出て行った。
「毎度ありがとうございます」
オーナーは5人の後ろ姿を見送ると俺の方を向いた。
「いらっしゃいませ。こんばんは」
赤ちゃんのような笑顔だ。
「今の連中、よく来るんですか?」
俺はオーナーに尋ねた。
「ええ、週に1、2度はお見えになりますね」
「ああいった連中が、何か、トラブルを起こすようなことはないんですか?」
「はい、他の店ではどうか知りませんが、幸い、うちでは何の問題も起こしたことありませんね。今のお客さんだけでなく他の、所謂、ギャングみたいな若い方でも」
「珍しいな…… オーナーの人徳かな」
「そんなことないと思いますけどね」
オーナーは笑顔で答えた。
カイザー通りは、この付近で複数存在するストリートギャングの勢力が拮抗している地域だ。
そのため、毎日のようにギャング同士のいざこざが絶えず、ガーディアンズですら手に負えないと言われている場所なのだ。
「人の心って、鏡みたいなものなんですよ」
オーナーが続けた。
「鏡?」
「そうです。誰だって笑顔の前では優しい気持ちになるでしょう?」
「……そう、ですね……」
「例えば、不機嫌な顔をした客がいたとしましょう。この場合、不機嫌な顔の理由は三つです。ひとつは性格的な問題。世間に対し、常にネガティブな感情を持った人間ですね。もうひとつは、たまたまその人の気分を害すような出来事があって不機嫌になっている場合。最後に、店員の側がお客様に対して失礼な言動を取ったり、不機嫌な表情で対応したりした場合です」
「そうなんですか」
「経験上から言えば、性格に問題ある人っていうのはごく少数で、大部分は二番目か三番目の理由なんです。なのでこちらの対応は決まっています。誠意を持って笑顔で対応していけばいいんです。それでお客様は穏やかな気持ちで買い物をしていただけます」
「そうですね」
確かにオーナーの言う通りだ。
よほど性格のひねくれた者でなければ、優しく接客されれば自然と穏やかな気持ちになれる。
だから『鏡』なのか……
「先ほどの若者にしたって、彼等を見る目が、実は彼等の心を傷付け、荒れた振る舞いをさているんじゃないでしょうか。心に問題のある子はごく一部です。こちらから誠意を見せればそうそうトラブルにはなりませんよ…… すみません、なんか説教じみたこと言っちゃって」
オーナーは少し照れた顔になって言った。
「いや、勉強になりました。ありがとうございます」
俺は心から礼を言った。
探偵だなんて粋がって、俺は人間のことを何も知らなかった訳だ。
鏡、か……
ーー直人さん、アリスを見る時、怖い目をしているーー
アリスから感じる違和感は、実は鏡に映した俺の心だったのだろうか?