危機一髪
CHAPTER 12「危機一髪」
「えー、一緒に行っちゃいけないんですか?」
マコが不満げに言った。
中華の出前で昼食を採っている最中だった。
岡本夫人に同行したいと言ったマコに、俺が留守番を告げた時だった。
「だめだ。それから、昨日みたいに勝手に外へ出てもだめだからな」
俺は少しきつい調子で言った。
「いじわるー」
やはりこいつは自分の立場が解っていない。
しかし、ふくれっ面もかわいい。
「アリスに料理でも教えてもらっていろ」
「いいもん」マコはアリスのそばへ寄り言った。「いじわるなおじさんが外出ちゃだめって、今日はおうちで遊びましょうね。何しよっかな……」
待ち合わせの場所は、臨海通りを挟んで北側の住宅地域だった。
対岸に八潮団地が見える、海辺のオフィスビルの九階が指定の場所だ。
狭いエレベーターを降り、『テナント募集中』の張り紙のあるドアを開けると埃の臭いがする部屋に入った。
奥から声がした。
「暗いから気をつけてください」
電気代くらい払っとけよ……
床を踏みしめるとガラスの割れる音と同時に靴の裏で何かが割れた感触がした。
「岡本さん、気をつけてください。ガラスが落ちてます」
薄暗い部屋には3人の男がいた。部屋の中央には事務用の椅子に座っているのがひとり。ふたり目はその後ろに立っている男。3人目は窓際のデスクに腰をかけている男だ。
3人とも見たことのない顔だった。事務用椅子の男は20代くらい、迷彩柄のカーゴパンツにTシャツ、適当に伸びた髪に無精髭を生やしていた。
生気がなく、暗い表情だった。
後ろに立っている男は、こざっぱりとしたスーツ姿でネクタイはしていなかった。髪を明るく染めていたが、40代くらいに見えた。
窓際の男は見た目20歳前後で、ストリートギャング風のだぶだぶの服に野球帽を被っていた。ガーディアンズだろうか。
こいつだけは俺たちを一瞥した後、興味なさそうに窓の外を眺めている。
「霧野さんですね。はじめまして、杉田と申します。わざわざご足労いただきありがとうございます。甲斐田君から連絡があったと思いますが」
スーツの男が歩み寄り、俺に話しかけてきた。たまに仕事を手伝ってもらっている甲斐田という若い探偵から会ってくれと連絡してきた男がこいつらしい。
『24区』の単位人口あたりの私立探偵の数は、日本で最も多い。
それは『24区』特にウエストガーデンは警察が容易に入ってこられない特殊な地域のため、私立探偵は浮気調査や人探しだけでなく、住民同士のトラブルにも対応しなければならないからだ。
「霧野です。連絡ありがとうございました」
俺が会釈すると隣に立っていた岡本夫人も深々と頭を下げた。今日は明るいベージュのカジュアルな服装だ。
「そちらが依頼人の岡本さんですか」
杉田が言った。
「はい」
俺より先に婦人が答えた。
「早速ですが……」
俺は何か言いかけた杉田を制していきなり本題に入った。世間話などで時間を浪費している暇はないのだ。俺は事務所に残してきたマコとアリスのことが無性に気になり始めていた。
「あ、はい、こちらです。こちらが北条孝夫さんです」
杉田は椅子の男を紹介した。
男は立ち上がり怖ず怖ずと俺を伺った。
表情は暗かったが目元は岡本夫人に似ていた。
「孝夫……」
俺は婦人が男に向かって歩きだすのを制して言った。
「肩を、見せてもらえますか」
男は無言で頷くと、Tシャツを脱ぎ、タンクトップ姿になった。
「右肩に古い火傷、でしたね」
杉田が自信たっぷりに言った。
男の左肩には、赤黒く引きつった大きなミミズ腫れがあった。
「あ、……」
火傷の後を見て岡本夫人が小さく声を上げた。
「施設を出たのは1年前でした。一度大阪に行ったんですが、半年ほどで東京に……」
男が低い声で喋りだした。
「母親を、探そうとはしなかったんですか」
俺は男に訊いた。
「はい、そう思ったんですが、15年前に一度火事があって、入園した当時の記録が残ってなかったんです」
男は目を合わせることなく、下を向いたままで答えた。
「あなたが施設を出た当時の所長の名前は、覚えていますか」
俺は質問を続けた。
「はい、山田先生です」
「よく調べましたね」
「え?」
俺の言葉に男は初めて顔を上げた。
「ネットではそう書いてあったんでしょう」
俺は笑いたいのを必死に我慢しながら言った。
「いや、俺は……」
男が口ごもった。
「それはどういう意味だ」
杉田が気色ばんだ。
「愛信児童館の公式サイトでは歴代所長の欄が間違っているんですよ」
俺は杉田を手で制しながら答えた。
「なん、だって……」
杉田は目を見開いた。
「ちょうど8年前の4代目所長と、その後の5代目所長の名前が入れ違ってるんです。だから、彼が施設を出た当時の所長は山田ではなく高木なんですよ。8年前に施設を出たのなら、山田所長のことは知らないはずなんです」
「何で、知っているんだ」
杉田は納得いかない表情で言った。
「施設の元職員に直接、電話で確認したんですよ。一次情報を調べるのは調査の基本ですよ」
「く……」
杉田は絶句した。
「まあ……」
岡本夫人も驚いていた様子だった。
「いや、でも、…… 。記憶違いと言うことはないのか。なあ君」
杉田は北条孝夫を名乗る男を見た。男は驚きの表情で立ち尽くしたままだった。
「それにこの……」
俺は男の右肩に手をかけ、火傷の痕に爪を立てた。
「!」
男は驚いて俺の手を掴み引き剥がそうとした。
「やめろ!」
「それは……」
岡本夫人が俺の爪に残った物体を見て言った。
俺の爪には、男の肩から剥がれた薄いゴムのような物体が引っかかっていた。
「な、何をするんだ!」
杉田が声を上げた。
「特殊メイクです」
俺はゴムのような物体を夫人に差し出した。それはラテックスで作られた偽物の火傷痕で、映画の特殊メイクと同じ技法で作られていた。
「お、俺は知らなかったんだ」杉田がうろたえながら言った。そして窓際の若い男を指さした「こいつが連れてきたんだ」
「だからあんたはいつまでも三流なのさ」
若い男は初めて口を開いた。
「何だと、貴様……」
杉田は怒りに顔を真っ赤にし、震える声で言った。
「さすがはキング。お見事でした」
男はそう言うと。ひとりでさっさと部屋を出て行こうとした。
「もう、その名前で呼ぶな」
俺はすれ違いざま一瞥をくれた男に向かって言った。
「失礼……」
男は悪びれもせずに答えた。
男は少し肩をすぼめただけで立ち去って行った。
「時間の無駄でしたね。さあ、帰りましょう」
俺はまだ何かぶつぶつ言っている杉田を無視して出口へ向かった。婦人は気落ちした様子で俺の後に付いてきた。
「そう落ち込まないでください。この街はこんな奴らばかりなんですから」
俺は慰めにもならない空しい言葉を口にした。
建物を出て気づいた。
携帯端末にコールが入っていた。
「マコからだ」
俺は急いで着信履歴から返信した。
緊急時以外にはかけるなと言明してあった。
何か悪い予感がした。
「マコか、何かあったのか」
『あ、直人さん』
意外にも緊張感のないマコの声が聞こえてきた。
「非常時以外は電話するなって……」
『非常事態です。事務所に泥棒が入ったんです』
「何だって? 泥棒?」
マコの呑気な口調と『泥棒が入った』という異常事態を告げる単語とのギャップの狭間で俺は混乱していた。
『はい』
「それでどうしたんだ」
『アリスが捕まえました』
「捕まえた?」
『はい、今、電気のコードで縛ってます』
まあ、アリスならそのくらいは朝飯前だろう。
『アリスってすごいんですよ。いきなり泥棒の後ろにジャンプして……』
「ああ、解ったから、報告は帰ってから聞くよ」
俺はマコの言葉を遮って質問を続けた。
「どんな奴だ人相は……」
『中年で…… 、ホームレスみたいですが…… 、本人に訊いてみましょうか?』
「いや、余計なことしなくていいから…… 。今からすぐに帰る。十分気をつけろ」
『はーい』
「俺たちの留守中、事務所でなんかあったようです。急いで帰ります」
電話を切ると俺は岡本夫人に言った。
「まあ……」婦人は驚いた顔で言った。「あの子たち大丈夫かしら」
「電話の様子じゃ大丈夫なようですが……」
俺は早足で路上に駐めた車に向かった。
俺の事務所に泥棒だって?
本当に泥棒目的で俺の事務所に押し入ったのならそいつはとんでもない間抜け野郎だ。
おそらくそうではあるまい。目的はマコか?
車のドアを開け、運転席へ滑り込んだ俺はキーを差し込んだ。
そのとき携帯端末の呼び出しが鳴った。
「どうした……」
相手はマコだった。
『あの、さっき言い忘れたんですけど。泥棒が、直人さんはもう帰って来ないって言ってたんですが、直人さん無事ですよね。そちらで何かありました?』
心配そうな声だった。
「いや、何もない。こっちは大丈夫だ」
『よかった。じゃ、早く帰ってきてくださいね』
電話を切って考えた。
俺はもう帰って来ない、って?
車のキーを回し、エンジンをかけた。
「しまった」俺は重大なミスを犯したことに気づいた。「岡本さん、早く車から降りて!」
言うや否や俺もドアを力一杯開けると外へ飛び出した。
「え? はい」
岡本夫人も戸惑いながらも助手席のドアを開けた。
「こっちです」
俺は車の前方から助手席側に回り込み、引きずり出すように婦人を車から降ろした。
「走って!」
そのまま婦人の手を掴み、走り出した。
荒れたアスファルトにハイヒールを掬われ、倒れそうになった婦人を抱き止めた。思ったより軽い体だった。
「すみません」
母の匂いがした。
「急いであの陰へ」
俺は五メートルほど前方にある大きな金属製のゴミ回収箱を指さした。
「こっちです」
婦人を押し込めるように回収箱の陰にしゃがませると俺はその場で伏せた。
「!」
同時に車が爆発した。
古いステーションワゴンはオレンジ色に包まれ、黒煙を吹き上げた。強い熱風が吹き付けてきた。
おそらくリチウムイオン・バッテリーに可燃物を仕掛け、エンジン始動から一定時間がたった後でバッテリーが発火炎上するように何者かが細工したのだろう。
「大丈夫ですか」
俺は立ち上がり婦人に尋ねた。
「はい。私は大丈夫ですが……」
婦人は青ざめた顔で燃えた車を茫然と見つめていた。
「まいったなあ……」
車はこのまま捨て置いてもかまわないのだが、急いでいるのに帰りの足がないのが困る。しかもこの辺りじゃタクシーはほとんど通らない。
「とりあえず大通りまで歩きます」
俺は岡本夫人に告げた。
「え、でも」
婦人は燃えている車の方を見て答えた。
車の周りには騒ぎを聞きつけ野次馬が集まってきた。
「あれは金融車だからこのまま捨ててっても大丈夫なんです」
「はあ……」
岡本夫人は怪訝な顔で俺と燃えている車を見比べていた。
携帯の呼び出し音が鳴った。
非通知か…… まあいいだろう。
『これは警告だ。直ちに円城寺眞佐子から手を引くように』
「おい、貴様誰……」
一方的に切れた。
本能的に辺りを見回した……
警告だと?
大通りでタクシーを捕まえた俺は渋る運転手に相場以上のチップを約束し事務所へ向かった。
やはり心配だ。車に細工した連中と事務所に押し入った連中は同じグループだろう。
「アリスが付いているから大丈夫だと思いますけど……」
俺は婦人に言った。しかし、本心は別にあった。
俺はむしろアリスが余計なことをしないか心配だったのだ。
Aドールがオーナーでもない人間を守るということが信じられない。
行動パターンが全く読めないのは却って不安だ。
昨夜は不良を殺しかけた。
アリスは単なる家事Aドールでも愛玩用Aドールでもない。
俺には得体の知れない怪物に思える。
「だといいのですが……」
婦人は心配そうに言った。
俺はマコの携帯に連絡を入れた。
「マコか、そっちは大丈夫か? ちょっとトラブルがあって少し遅くなる」
『はい、大丈夫です』
「カーテンを引いて窓から離れていろ。誰が訪ねてきてもドアは開けるな」
『解りました』
「アリスは何をやってる?」
『え、アリスですか? アリスは泥棒を見張ってます』
「そうか…… 。なるべく早く帰るから十分注意するように」
俺は電話を切って婦人に言った。
「事務所に押し入った泥棒が誰なのか気になります」
「そうですね……」
婦人は本当に心配そうな顔で言った。
俺たちは事務所のある雑居ビルより1ブロックほど手前でタクシーから降ろされた。
「俺がいいと言うまで中に入らないでください。もしも…… 、万一危険だと思ったらこれでSSOに通報してください」
俺は婦人に自分の携帯端末を渡した。
「SSO?」
「24区全体の治安維持を担当している警備会社です。この辺りはほとんどが私有地なので、警察は簡単に入ってこられないんです」
「そうなんですか……」
婦人は不安そうな顔で端末を受け取った。