疑惑
CHAPTER 11「疑惑」
昨晩はいつの間にか寝てしまったようだった。
起きてみると自室のベッドではなく、事務所のソファの上だった。
何かとても懐かしい夢を見ていたようだ。
いや、夢ではない。
今、事務所の中においしそうな匂いが充満しているのだ。
「あ、起こしてしまいましたか」
事務所の隅にある小さなキッチンから岡本夫人の声がした。
「いや、もう起きる時間なんで……」
嘘だ。いつもは急な呼び出しさえなければ正午近くまで寝ている。
俺はゆっくり起きあがると壁の時計を見た。
8時を少し回ったところだった。
次にキッチンの方に視線を移すと、岡本夫人だけではなくマコやアリスまでシンクに向かっているのが見えた。
「ちょうど良かった。今できたところなんです」
マコは料理の載った皿を中央のテーブルに運んできた。スクランブルエッグとベーコンと野菜を炒めたものが乗っていた。
「冷蔵庫の中身勝手に使ってしまってけど、いけなかったかしら」
岡本夫人が言った。
「かまいませんよ。でも、ろくなものなかったでしょう」
食品はいつも一週間分くらいまとめ買いしている。ただ、仕事が忙しい時はほとんど外食ですませてしまうので、余って腐らせてしまうことも珍しくなかった。
今週は2日前に、ミッドタウンの会員制スーパーで買い物してきたばかりなので、冷蔵庫にはまだ十分に食品が残っているはずだ。
「これ、私が作ったんですよ」マコは誇らしげな笑顔で料理を指さした。「本当はアリスにも手伝ってもらったんだけどね」
チーズをトッピングしたサラダのような何か…… 。
「見た目は百点だな」
俺は笑いながら言った。
「味も大丈夫ですよ。ちゃんと味見したし。これ、アリスが教えてくれたレシピだから」
「アリスが先生なら安心かな」
「ひどいな、もう」マコは少しふくれたような表情で言った。「でも、アリスってすごいですね。1200種類以上のレシピを知ってるって」
家事Aドールならそのくらい知っていて当然だ。
「小麦粉があったので作ってみたのですが……」
岡本夫人が香ばしい匂いのする皿を運んできた。
乗っているのは焼きたてのパンケーキだった。
「わあ、おいしそう」
マコが感嘆の声を上げた。
「久しぶりに作ったものなので、出来のほうは保証できませんが」
婦人は母親のように微笑んで答えた。
「手作りの朝食なんて何年ぶりかな」
次々と運ばれてくる料理を前に、俺は少し感動していた。
アリスがコーヒーを淹れて運んできた。婦人とマコはテーブルについた。
「いただきまーす」
マコは早速パンケーキにかぶりついた。
「おいしい! どうしたらこんなにふっくらと焼けるんですか? スフレみたいに軽くて、これなら幾らでも食べられます」
「ベーキングパウダーがなかったから、メレンゲで作ってみたの。巧く膨らむか心配だったのだけれど」
「メレンゲでこんなに膨らむんだ……」マコは感心した面もちで聞いていたが、ふと俺の方を向いた。「ねえ、私の作ったサラダはどう?」
「あ、うん。おいしいよ、意外と」
「意外と、は余計です」
マコは少し拗ねた表情でふくれると部屋の隅で立っているアリスの方を見た。
「アリスはおなか空かないの?」
「貯蓄されている炭水化物はカロリー換算で60パーセントあります」
「冷蔵庫の中にゼリーがあっただろ。あれでカロリー補給しておけ」
俺はアリスに言った。
「はい、ありがとうございます」
アリスはお辞儀をするとキッチンへ向かった。
「どうしたのですか、お嫌いでしたか」
ふいに岡本夫人が俺に尋ねた。目の前のパンケーキに手を着けようとしないのを不審に思ったようだ。
「いや、好物ですよ」俺は慌てて答えた。「なんか、子供の頃を思い出して胸がいっぱいになってたもので……」
「そうですか」婦人は優しい笑顔で言葉を続けた。「パンケーキに生クリームとメープルシロップをかけた物が息子の大好物だったんです」
婦人はそう言うと少し目を伏せた。
「息子さん、早く見つかるといいですね」
マコは優しい目をしていた。
ちょうど、食後のコーヒーの2杯目を飲もうとしていたら事務所の電話が鳴った。
『直人さんか、今大丈夫?』
TKだった。
「ああ、大丈夫だ。込み入った話か」
『できれば周りに人がいない方がいい』
「解った、場所を変わるからちょっと待ってくれ」
俺は電話を一旦保留にし、プライベートルームへ入った。
「OK、大丈夫だ。ここなら他人に聞かれる心配はない」
受話器を取り、俺は言った。
『円城寺眞佐子のことなんだが……』TKは切り出した。『昨夜からマスコミ関係者や警察方面に顔が利く友人たちに問い合わせてみた』
「判ったのか」
『円城寺眞佐子。父親は円城寺信夫、キングメーカーと呼ばれる与党の重鎮、元首相の衆議院議員、江川浩輔の私設秘書だ』
「やはり永田町方面か」
マコの正体については名字からなんとなく想像はついていた。
最近のニュースで聞いたことがある名字だったのだ。
『先月から騒ぎになっている違法献金問題があるだろ……』
違法献金問題とは、法律で禁止されている外国企業からの献金を江川が受け取っていた問題で、現在、野党とマスコミから激しい追求を受けている。
『江川と与党側は事件の責任を全て秘書の円城寺に押し付け、追及をかわす作戦だった』
「よくある話だ。でも、それが何で眞佐子の家出と関係があるんだ?」
『それなんだよ』TKは含みのある表現で続けた。『1週間前のことだ、その違法献金に江川が直接関与している決定的証拠があると、一部マスコミで噂され始めた』
「それを眞佐子が持っているとでも?」
『その可能性は高い』
「……」
確か、マコは父の命がかかっている、と言っていた。政治家の不祥事の責任を取って秘書が自殺する、なんてことはよくある話だ。父親を救うためには無実の証拠を公表すればいい。ただし、江川の立場ならあらゆる手段を講じて全力で公表阻止に動くだろう。おそらく何らかの『脅し』がマコを失踪に追い込んだのだろう。
「他に何か情報はないか? 眞佐子が真実を公表できない理由があるはずだ」
『眞佐子の兄だ。円城寺弘明、大学3年生。こいつも失踪中だ』
マコの兄?
「失踪中だと?」
『決定的証拠とやらをマスコミにリークしたのはどうやらその兄らしい』
「何のために……」
『兄の弘明は江川と同じ与党内の半主流勢力、それから野党にも接触しているようだ』
「まさか……」
『俺も無謀だと思うんだが……』
「証拠を売ろうとしている?」
今の俺の表情を客観的に見ることができるとすると、かなり険しい顔つきになっているはずだ。
『マスコミか野党どちらか、公開を条件に、高い値を付けた方に売ろうとしている』
「どうしようもないな……」
『ああ、本当に世間知らずの兄妹だよ。素直にマスコミにリークするかネットに晒すかすればこんな面倒なことにはならなかったのに』
アキラがわざわざ俺に電話をかけ、マコが爆弾だといった意味がこれで判った。
同時にアキラの思惑も……
「政治がらみだとやっかいだな」
金もそうだが、政治とか権力は時として人を狂わす。人の命なんか路上の吸い殻のように簡単に踏みにじられる。
『今、与野党問わず必死になって眞佐子と弘明を捜している最中だ。もちろん、警察も動いているが、危険なのは捜索陣の中には人の命など何とも思わない連中まで含まれているってことだ』
TKの声にも焦りが感じられた。
「郷田はそのとばっちりを受けたということか」
『そうかもしれない。もしかすると、郷田さんも争奪戦に参加していたのかもしれない』
「で、その、決定的証拠とやらは何なんだ?」
『動画データらしい』
「動画データ? でもそれなら……」
以前、裁判の証拠として提出された画像データがCG、ディープフェイクによって改竄されたものだったことが問題になり、以来、デジタルデータは証拠として採用されにくくなっている。
『公的な記録に使われる改竄不能の特殊なフォーマットのROMデバイスか、……全く非現実的だが、アナログのムービーフィルムか』
どちらも結構かさばる代物だ、マコがムービーフィルムのリールなんて持っていたらすぐに所在がばれるだろう。それともどこか別の場所に保管しているのだろうか。
「そうか、いろいろご苦労だったな。今日はこれからどうするんだ」
『ちょっと八王子まで足を伸ばしたい。その後時間があれば川崎にも……』
「八王子?」
『いや、永田町とは別件だ。ちょっと調べたいことがあってね』
「……解った。ご苦労だったな」
『ああ、ただでさえ東ヨーロッパのクーデター騒ぎのおかげで欧州市場がえらいことになってるって言うのに……』
「おまえ、金融もやってるのか?」
『いや、金融関係じゃなくて、工業関係だ』
「工業?」
『実は、クーデターを起こした反政府勢力の中に、日本製の武器を持った連中がいたのさ』
「日本製の?」
『小銃やバズーカにメイドインジャパンの刻印が入った物が見つかったんだ。初めはフェイクだと思われたんだが、非常に完成度が高くて、本当に日本製と言われても納得できる仕上がりらしいんだ』
「自衛隊から流れたのか?」
『いや、自衛隊の装備とは全く違う物だ。しかもアメリカの特殊部隊が使っている最新の物をコピーしているんだ。おそらく、アジアのどこかで作ってるんだと思うが……』
「それで、おまえは何をするんだ?」
『3Dスキャンのデータを送ってもらって、工作機械を割り出す。できれば製造場所も』
「できるのか?」
『切削加工なら削り方の癖とか、射出形成なら材料から圧力を逆算するとか……』
「大変だな…… 、まあ、がんばってくれ」
俺は電話を切った。
事務所に戻ってみるとテーブルとキッチンはすっかり片付けられていた。
「お仕事の電話ですか?」
マコが訊いた。
「ああ」
俺はマコを見た。彼女はどれだけ自分の置かれた状況を理解しているのだろうか。
「そう言えば、さっき携帯が鳴ってたみたいですけど、メールかな」
「そうか、ありがとう」
俺はデスクの上の携帯端末を取り上げた。
メールが何通か来ていた。
「岡本さん、午後出られますか?」
俺は携帯端末を置くとと、台所で食器を洗っていた岡本夫人に言った。
「はい、かまいませんが」
婦人が答えた。
「息子さんらしき人が見つかったという報告があったものですから」
「本当ですか」
婦人の顔が明るくなった。
「おばさん、よかったですね」
マコも嬉しそうに言った。
「昨日の今日ですから、あまり期待しない方がいいですよ」
あらかじめ釘を刺しておく。
期待が大きいほど人違いだった時の失望が大きくなる。
この街の人探しはそう簡単ではないことを、俺は経験上理解していた。