酩酊の夜
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ふうう、夜になるとちょっとは暑さが引きますかね。
自粛中でも適度な運動、っていったって、日中は全然動く気になれませんって。聞きました? ここら辺でも熱中症で倒れて、お年寄りが搬送されたらしいですよ。律義に外出中もマスクを着けっぱだったとか。
コロナ、コロナと騒がれて久しいですけど、その被害は数で見るとインフルエンザのそれより少ないんですよねえ。当のインフルエンザ流行のとき、先輩はマスクとかつけましたか? 僕はつけなくても全然平気〜って感じだったんで、このたびのコロナとか、どれだけ気をつければいいか、正直謎なんです。
ああ、これオフレコにしといてください。表だっていうと「お前は人の命をなんだと思ってるんだ」みたいな、ツッコミを食らうんで。コロナで死ぬと、死に目に会えないとか聞きますしね。
でも純粋な生死の観点で見れば、コロナだろうが、風邪だろうが、ケガだろうが死ぬときは死にます。それをコロナだけ特別扱いし過ぎるのもなんだかなあ……と、ぼんやり考えてしまうんですよ。
どう生きて、どう死んでいくか。最終的には国や親じゃなく、自分で決めなきゃいけません。そしてそれは、人でなくても同じこと。
少し前に僕が体験した妙なできごとなんですが、聞いてみませんか?
それは金曜日の夜のことでして、僕は少しうんざりした気持ちになっていました。
僕の住んでいる家は、国道のすぐ近くにありましてね。週末になると、バイクのエンジン音を響かせながら、何人も突っ走っていくんです。いわゆる暴走族って奴ですか?
翌日に土曜日を控え、たいてい早めに布団に入る僕にとっては、耳障りなことこの上ないです。
そして日付がもう変わろうかという時間帯。再び遠くから近づいてくるバイクの音に、僕は頭から布団をかぶって、早く通り過ぎてくれるよう願ったんです。
音は止みました。でも、遠ざかったわけじゃありません。
順調に走っていたと思しきバイクがですね、少しブレーキを踏んだかと思うと「ドン!」と音がひとつ。それから「ばしゃーん」と水があがる音が続きます。おそらくは、歩道とお店たちの間を流れている、用水路だかに落ちちゃったんでしょう。
事故の気配に、周りの家たちがざわつき始めるのが分かります。僕個人は「やっちゃった」と思いながらも、内心ではいい気味だとほくそ笑んでいましたよ。
安眠の妨害は、かくも重い罪なんだと、身をもって知ることができたじゃないか、という具合にですね。
事故ったライダーさんは、どうにか一命はとりとめたそうです。ですが聞いたところによると、負った傷の中に妙なものがあったとか。
ライダーさんが事故ったのは、被ったヘルメットの間を縫って頬へぶつかってきた、小さい物体のせいだと話しているそうです。かなりの勢いで突っ込んできたそれは、ライダーさんの右頬を貫いて口の中へ飛び込み、そのためにハンドル操作を誤ってしまったとか。
このうわさは、僕たちの通っている学校でも広まりましてね。色々な憶測が飛び交いましたが、有力なのが石です。対向車のトラックが跳ね飛ばした石が、すさまじい勢いでバイクを運転するライダーにぶつかってきたんだと。
大半の人はそれで納得したんですが、僕の友達のひとりは違うと言い張りました。
「ぶつかってきたのは生き物だ。物理法則に従う他ない石が、そんな都合よいところに当たったりするものか。意識的に動ける生物。虫とかだよ」
友達の力説は、たちまち袋叩きにあいます。その多くが、「虫ごときが、人様の皮と肉を突き破るほど、勢いが出せるかよ」という点で。
貫通力という点では、小さい身体は有利に働くだろう。でもピストルじゃあるまいし、自前の羽で飛ぶ連中が、その速さで突っ込めるとは思えない、といった感じですね。
さんざんに負かされて、その場はしぶしぶ引っ込んだ友達でしたが、帰る時になってまたブツブツ文句を言い出します。
「いまの時期は、惑わされる虫が増えてんだよ……、スペック以上の被害が出かねないっつーの」
あまりにぶつくさいうから突っ込んであげるとですね。この年の夏はちょっと熱すぎて、虫たちがおかしくなっている恐れがある、というんですよ。
先輩は「かげろう」を見たことあります? あの昼間の路上とかで立ち昇る、景色をぼやかしにかかる透明なもやですよ。大半は密度が異なる空気同士が隣り合うことで起こる、光の屈折具合が原因だとか。
でも友達の話だと、本当にもやだか煙だかが漂っているケースがあるらしいんですよ。植物をはじめ、地面に植わったり転がったりしているもの。それらが暑さを受けて吐き出す、もろもろの息とカケラが混じり合って、虫にとっての麻薬に近い成分を作ってしまう。今年は特に、その条件が整いやすい日が続いているとも。
「スペックからして無理がある? ああ、そりゃそうだ。『しらふ』な奴がイカレたこと、イカレた力を出せるもんか。
普通じゃないから、起こっちゃうんだよ。当たり前じゃん」
そう友達が漏らしてから、何年も経ちました。
あのライダーの一件以来、僕の周りで妙な事故が起こることはなく、いよいよ酒を飲める歳になってしまったんですね。
僕、ビールが苦手だったもんで、カクテル類を飲んだんですが予備知識とか何にもなくって。調子乗ってスクリュードライバーをかっぱかっぱ空けたら、ものの見事に千鳥足ってもんですよ。
どうにか駅の改札をくぐるも、タクシーの姿は見えず。家もさほど遠くないこともあって、ふらりふらりとロータリーを横切り出したんです。もうね、何をしているわけでもないのに、オレンジジュースの匂いが口や鼻から漏れ出ている。そう錯覚するほどの、かぐわしさを感じています。
駅前の交番。その脇には電柱が立っていて、傘のついた電球が中ほどに据え付けられています。そこの明かりが大小さまざまな羽蛾を集めていましてね。光源の電球めがけて彼らは飛びまわり、ときおり「パチン、パチン」と音を立てていました。
――自分から命を捨てやがって、馬鹿だなあ。
彼らの末路を横目であざけりながら、どうにか足を運んでいく。その最中のことでした。
顔にまとわりつく匂いが変わりました。オレンジから桃の薄い香りが、僕の一帯を支配します。
――そういえば、ピーチフィズもいくらかあおったっけ。
のんきな考えごとをする僕の目が、先ほどの明かりへもう一度向いた時です。
明かりの周りに飛んでいた一匹が、フォークボールもかくやというほどに、がくんと高度を落としたんです。たくさんの光を受け止めている僕の目は、その動きを闇の中までは追いきれません。あたかも消えてしまったかのように思えました。
ややあって。さあっと、身体中の毛が勝手に逆立ったんです。
自転車を全速力で漕いで、全身に風を強く受けているかのよう。前から猛然と、風をまとった何かが近づいてきていたんです。
反射的に腕を掲げられたのは、奇跡だったと思います。顔の半ばあたりまで持ち上げたそれの、手の甲からひじにかけてが「ぞりぞりぞり」と音を立てたんです。
小さいものがめり込み、同時に腕へ感じる強い震え。僕の見ている前で、腕の皮がへこみ、肉が裂けて、血のにじむひと筋の線ができあがっていったんです。刃物を走らせたかのように、あっという間にですよ。
酔いはすっかり覚めちゃいました。腕を真っ赤に染める血をティッシュで拭うと、BB弾ほどの幅と大きさに、腕の肉がえぐられている姿がはっきり見えちゃうほどの傷だったんです。
あの時の僕のように、明かりに集まっていた虫たちも、いきなり漂ってきた桃の匂いに酔っ払って、突っ込んできたのかもしれませんね。