1章の1
金属の擦れ合う、不快な、それでもどこか心地よい音が聞こえる。
嫌々ながらも目を開くと、見慣れない天井の模様が見えた。
どこかで見たことは……と、頭の中にある記憶を必死に漁る。
そこで、僕はあることに気づき、思わず声を漏らす。
「自分に関する記憶が、ほとんどない……」
とてつもなく深刻な事に対する、絶望的な声色による呟きに対して、返ってきたのは、
「あ、起きたかい?」
という、なんとも能天気な言葉。
聞いた事のある声なのだが、何故か思い出せない。
「ほら、起きたんだったら早くベッドから出て顔を洗っておいで」
周りを見渡すに、どうやらここは僕の部屋らしい。見慣れたものがそこら中に所狭しと並べられている。
声の主はドアを開けた先に居るようで、ここから姿は見えない。
「おーい、早くしなよー」
急かされるまま、顔を洗うためにベットから這いずり出て、ドアを開ける。
ドアを開けると、そこには、テレビドラマなどでよく見られるような、典型的なリビングが存在していた。
64インチぐらいのテレビと、その正面にでかでかと居座っているソファー。
その横には、四つの椅子と、それらに囲まれる机。
さらに視線を横にやると、そこは台所のようで、パンが焼けるいい匂いがした。
どうやら今は朝のようで、机の上には、真っ白なお皿が二つ、ベーコンエッグと少しの生野菜が盛り付けられた状態で置かれていた。
「何を突っ立ってるのさ?君が顔を洗わない限り朝ごはんはお預けだよ」
周りを眺めていると、台所の方からそんな声が聞こえてきた。声の主は、確かにすぐそこにいるはずなのに、何故か姿が見えない。
台所の方に行って、姿を目に収めてから顔を洗いに行こうと思ったが、また何か言われそうだったし、空腹を感じていたため、朝食を少しでも早く摂ることを優先することにした。
恐らく、今まで生活したことも無いであろう家の洗面所がどこにあるかなんて、分かるはずも無かったが、なにやら身体が覚えているといったようなという感じで、無事にたどり着くことが出来た。
顔を洗ってサッパリすると、頭の中の霧が晴れたような心持ちがした。
取り敢えず、今自分が置かれている状況を整理することを試みる。
今、僕は記憶がほとんど無い状態で、知らない家にいる。
しかも、先程までそこで寝ていた。
リビングには、よく分からない人がいる。
こんな不思議な状況なのに、別段僕の心中には焦りはなかった。
それどころか、むしろ日常のような気すらした。
本当に、意味が分からない。
……まぁ、取り敢えずご飯を食べよう。
──理性は、本能に勝てない。
リビングに戻ると、机を挟んだ向こうの椅子に、小学生三年生ぐらいに見える可愛らしい男の子が座っていた。
「遅かったじゃないか、ボクはもうお腹ペコペコだよ!ほら、早く座って。いただきますの挨拶をしよう」
その声からするに、この少年が今までの声の主のようだ。
席に座ると、「いただきます!」という元気いっぱいな声が聞こえてきたため、申し訳程度に「いただきます」と呟き、目の前に置かれていた朝食に手をつける。
美味しい。
丁度いい焼き加減のパンの甘みと、それに薄く塗られたマーガリンの少しの塩気がこれ以上ないくらいマッチしている。
おかずのベーコンエッグも味付けの塩コショウが効いていてとても美味しい。
付け合せの生野菜の甘みは、それが新鮮な証拠だ。
そうやって呑気に朝食に舌づつみを打っていると、「さて……」という呟きが聞こえると共に、一気に食卓の雰囲気が打って変わって重苦しくなった。
パンを口に運ぶ手を止め、少年の方に向き直る。
すると、先程までどこにでもいそうな姿だったその少年の身体が眩い光に包まれた。
思わず、目を瞑る。
そして、十秒ぐらいしてから恐る恐る目を開けると、そこに少年の姿はなかった。
目を瞑っている間に一体何が起こったのか分からずキョトンとしていると、頭上から「こっちだよ〜」と、少年の声が聞こえた。
首を九十度後ろに傾けると、そこには予想通り少年の姿があった。
しかし、明らかに先程までの姿と違うところがある。
そう、少年の背中には、神話などに登場する天使と同じような羽根が生えているのだ。
僕の視線の先に気づいたのか、少年はその羽根をパタパタと動かしてさっきまで自分が座っていた椅子に座り直した。
「空を飛び続けるのは結構疲れるんだよ!」
そう言いながら。
座ってすぐ、まるで照れ隠しかのように、少年は言葉を連ね始めた。
「もう気づいているだろうけど、ボクは人間じゃない。でも、いわゆる天使とか、悪魔とか、そういうのとは違った部類のものなんだけど……まぁ、そういう方面の存在だということだけ伝えておくよ」
どうやら、少年は人外らしい。
羽根が生えていて、なおかつそれで空を飛ぶようなやつが人間なのだとしたら、人外なのは僕の方だ。
「君も今、いくつか知りたい事あるよね?」
「はい、あります」
「あっ、そんなに畏まらなくてもいいよ。ボクは全然タメ口でいいからさ!」
神的な存在なのに、僕は敬語を使わなくてもいいらしい。意外とフレンドリーな奴だ。
「分かった。いくつか知りたいことがあるんだが、聞いてもいいかな?」
「もちろん。なんでも聞いてよ!答えられることならなんでも答えるからさ」
「じゃあ……取り敢えず、僕の名前を教えて貰っていい?できれば、君の呼び方も」
そう、僕は今、自分の名前すら知らない。なぜか、自分とその周りに関することについての記憶が一切合切ないのだ。
「あー……そっか、めんどくさかったから取り敢えず君の中の記憶をほとんど取っちゃったんだっけ……」
なにやら、恐ろしい呟きが聞こえる。
「よし、じゃあめんどくさいけど記憶をインプットしてあげるよ!」
そう言うと、少年は先程と同様に空中に浮かび上がって──僕の頭の上に乗った。だが、重量を全く感じない。
「それじゃあ、行くよー!おー!」
そんな掛け声が聞こえた直後、僕の意識はどこかに飛んでいった。