28.夢から覚めて
「忘れないでくれ――」
声が聞こえた。いつかどこかで聞いたような、ひどく懐かしく感じる声だった。
ここがどこなのか、今がいつなのかも分からない。体を動かそうにも、手も足も、胴体も反応しない。自分の体がどうなっているのか、見る事もできない。ひどく粘ついた液体の海の中を、アメーバになって流されているような気分だった。
「忘れないでくれ――」
また声が聞こえた。自分の目の前に、声の主はいた。視界は陽炎のようにぼやけて波打っている。だがそこに、彼はいた。目鼻すらもろくに見えないのに、その顔を見ていると、酷く懐かしさを覚えた。
(あなたは……?)
尋ねたくても声は出ない。伝えたくても伝えられない事が、酷くもどかしかった。
そんな気持ちを知る由もなく、声の主は言葉を続けていく。
「忘れないでくれ。私が言ったことを。遥か宇宙の果てから、我々を狙う者がいるのだと。どうか地球に伝えてくれ。このカーマ・ガタラと亜神の事を、どうか皆に――」
(一体……誰なんだ……?)
―――・―――
弾かれるように目が覚め、起き上がろうとして真悟は息苦しさに咳き込んだ。倒れて荒い息を繰り返しながら、真悟は見覚えのない周囲の部屋を見回した。二段ベッドの天井に、隣にも同じ二段ベッド。視線の先には鉄の格子が見えた。
「真くん、気がついた?」
左に顔を向けると、葵がベッドから飛び降りて、真悟に駆け寄った。声をかけようとする前に、葵の長い指がぺたぺたと真悟の頬や額に、無遠慮に触れてくる。
「あ、葵ちゃん。ちょっと何を……」
「熱はまだあるみたいだけど、峠は越したみたいね。良かった。さっきまでは触ったら焼けるんじゃないかってくらい熱かったんだから」
「もう大丈夫だよ。まだちょっと体が痛むけど、さっきよりは大分楽になった」
正直に言えばまだ頭はぼんやりとしていた。頭痛も酷かったし、体の節々は負けじと悲鳴を上げている。だがそれを葵に素直に言うのはためらわれた。葵に心配されてばかりではいられない。
(要するにいい格好がしたいんだな、俺)
軽く自嘲しながらベッドの上で上体を起こそうとすると、突然の目眩に視界が波打った。目元に手を当てて抑まるのを待つと、上半身の重さを支えきれなくて体が震えだした。
背中に葵の手が回った。体重を支えながら、真悟をゆっくりとベッドに押し戻し、葵はきつい口調で言った。
「真くん、無茶はしないで。熱なんて出しても薬なんてそうそうないんだから。休める時に休んでないとだめ」
真悟の上のベッドから、啓一も顔を出した。
「とりあえず寝とけよ、真悟。ボガロが俺達を飢え死にさせる気がなきゃ、そのうち飯が来るだろうしな」
「ね?」
「わ……分かったよ、そうする」
葵の真剣な表情に気圧されて、真悟は頷いた。実際に彼女は、現代日本なら他愛もない風邪を悪化させて、亡くなった人を何人も見てきたのだろう。ここは現代日本のように、恵まれている環境ではない。
ベッドに横になると体中が歓喜の声を上げた。真悟は先ほど見た夢の事を思い出していた。記憶に残っている映像も音声もひどくぼんやりとしたもので、すぐに忘れてしまいそうなあやふやなものだ。しかし、夢の中で自分に語りかけていた者の言葉の内容は、酷く具体的だった。
あれをただの夢と片付けてしまっていいものか、真悟の心がどこかで抵抗をしていた。忘れてはいけないもの、思い出さなければいけないものなのに、それが何なのか分からず、それがもどかしかった。
真悟の心中など知らず、啓一が軽い口調で真悟に質問を浴びせた。
「それでよ、真悟。倒れる前のアレ、一体何だったんだ?いきなりガーディやボガロについて、聞いた事もない単語をベラベラ話しだしてよ」
「正直言うと、俺もよく分からないんだよ。たぶん、亜神とのリンクが強くなったんだと思う」
「リンク?」
「ああ、啓一とリテルは知らなかったんだっけ」
真悟は昨日、市場でガーディと話した内容を説明した。
ガーデウスとガーディを目覚めさせた際に、ガーデウスとの間にリンクが生まれ、ガーディの持つ情報や知識が真悟の頭に流れ込んでいるのではないかという仮説を聞くにつれて、啓一は興奮と不安が入り混じったような、複雑な表情を作っていく。
「その、要するに、ガーディとガーデウスみたいに、お前にもガーデウスとのつながりができてきてるって事だよな?いや不安なのは不安だけど、なんかすごい面白そうっていうか」
三人の冷たい視線が啓一に集中する。リテルが引き気味に、皆が思った感想を口にした。
「ケイ……ちょっとそれはないよ。引く」
「いや、言い方が悪かった。そうじゃなくて俺が言いたいのは、お前もガーディみたいにガーデウスを呼べないのか?」
「ガーデウスを……?」
考えてもみない事だった。だが言われてみれば確かに、自分がガーディと同じになってきているのなら、ガーディと同様にガーデウスを呼び出す事が可能かもしれない。
「やってみようか」
真悟は右肩だけを起こし、右手を鉄格子に向けて伸ばした。目を閉じて、イメージを集中する。昨日ガーディがタスカーの群れに向けてガーデウスの腕を出したように、鉄格子をガーデウスの拳で破壊する事ができれば一気に逆転だ。
集中する真悟の姿に皆が注目し、声も上げなかった。
数秒間そうしていただろうか。真悟は全身に力を込め、ゆっくりと息を吐き出した。
「駄目だ。どうすればいいのか全然分からん」
皆から溜息が漏れた。
「何だよ、ったくよぉ。期待させといてそれかよ」
「しょうがないだろ、呼び出した事なんてないんだから。どっちにしても、今の頭じゃ何も考えられそうにないんだ。もう少し待ってくれよ」
起死回生の脱出とならなかった事に皆が残念がっていると、奥の扉が開く音が聞こえた。車輪がガラガラと鳴る音と固い靴音が、静かな通路に鳴り響く。やがて台車を押す兵士とマガトが、真悟達の牢の前に現れた。
「おう、朝飯だ。安心しろ。毒は入ってない」
「マガト……」
葵が雰囲気を一変させて身構える。鉄格子がなければ飛び掛りそうだが、牢屋の中ではさすがに相手に恐怖を与えるには至らなかったらしい。マガトの笑みは変わらなかった。
「まったく、朝から元気だな。いいから飯を食っておけよ。昼から忙しくなるぜ」
兵士は二人のやり取りを気にしないように努めているのか、黙々と差し入れ口から食事の載ったトレーを室内に差し入れる。リテルはトレーを取り、各人に渡していった。薄く焼かれた小麦のパンのようなもの、肉らしきもののソテーに、緑色のペーストは豆をすり潰したものだろうか。少なくとも食べられそうなものが出てきて、真悟はほっとした。
「昼に何があるっていうの?」
リテルからトレーを受け取り、葵はベッドに腰掛けた。ここで変に暴れても無意味なのはよく分かっているのだろう。できるだけ落ち着いた行動に努めている。
「ああ。お前達は昼に行う儀式に出すと、ボガロがお触れを出した。そこで生き残れば処遇を決定するってよ。ひょっとしたらこいつが最後の晩餐になるかもな」
「僕らに手を出したら承知しないって、ガーディが言ってたじゃないか!約束を守らないのかよ!」
リテルの叫びをマガトは微苦笑で受け流した。
「ボガロの考えなんて、俺には分からんね。ただ、あの方は常に自分が成り上がる事だけを考えている。そつなく従っていれば、俺達はそのおこぼれに預かれる。それだけで俺は十分なのさ」
マガトは葵に視線を戻した。
「なあ、アーウィ。お前も意地を張らずに、俺達の側につけばよかったんだ。あの戦闘力と機械知識なら、ここでも幹部につけた。あんな小さい町の弱い生き残り共の為に戦って、一体何が手に入ったんだ?」
「地獄に落ちろ、クソ野郎」
「今度会う時までに、せめて言葉遣いを直しておいてくれよ。生き残ったら俺がお前をもらうつもりなんだ。そんなにキレてばっかりじゃ他人に自慢しづらいからな」
笑いながらマガトと兵士が去っていった後、葵は無言でトレーを掴み、黙々と食べ始めた。目が据わっている。真悟も話しかけるのをためらう程だ。
ここでの馴染みの深さから、リテルがおずおずと話しかけた。
「あの……アーウィ、奴らの出したものなんて食べて、大丈夫?」
「昼の儀式で生き残ったら、ってアイツが言ってたでしょ。ボガロはここで私達を見世物にする気なのよ。だったらここで毒を入れる理由なんてないわ。私達が満足に動けなくて儀式に出れないようだったら、それこそボガロへの裏切り行為だもの」
葵の声は静かで、だが強い口調だった。今にも噴火しそうな火山を見ている気分だった。
真悟の背筋を熱によるもの以外の汗が伝った。
「絶対ここから生き延びて、あいつらを皆殺しにしてやる。私の町を侮辱したあいつに、報いを食らわせてやるんだから」
血を見なければ収まらないような葵の怒りを目の当たりにして、真悟は葵を怒らせるのはやめようと、密かに心に決めるのだった。
次回:30日予定




