プロローグ:目の前で消えた町
世界が一変する瞬間というのは、大抵の場合突然来るものだ。
この日もそうだった。
雲の欠片もない澄み渡った夜空に、突如として光が広がった。視界いっぱいに七色の光の粒が幾重にも輪を描いて飛び散り、数秒して巨大な太鼓を叩いたような大きな音が少年の耳を震わせる。
少年――馬上真悟は溜息のような歓声を上げた。
リビングの窓から夜空に描かれる火と音の芸術を見ている隣で、母と姉達がテレビを見ながら雑談している声が聞こえた。H県神谷市内の山間に作られた住宅地、その上部にある馬上家の一軒家は、市で毎年夏に開催される花火大会を見るには最高の位置にある。
山の斜面に家々が立ち並び、山を下った先には大きな川が南北に流れる。川の向かいにある広い川縁と、その先の土手の上には、屋台の照明に照らされた人混みの流れがうすぼんやりと見えた。花火大会の観客が並び、一夜の思い出を作っているのだろう。
なんだか悔しくなって、真悟は溜息をついた。溜息に反応したように足がむずがゆくなって下に目をやると、右の膝先からつま先まで巻きついた真っ白なギプスが、文句を言うなと存在感を主張していた。
毎年夏の花火大会には、真悟は友達や家族と一緒に土手まで見に行っていた。普段出歩かない夜に屋台を練り歩くのも楽しかったし、祭りの広場という人を興奮させる独特な雰囲気が好きだった。しかし今年は一週間前に交通事故で足首を骨折したため、自宅で見る事になったのだ。
今頃真悟の同級生達は、仲のいい者同士で連れ立って、土手まで花火を見に行っている事だろう。
真悟としては這ってでも一緒に行きたいところだった。同級生の里村葵も花火大会を見に、あそこに来ているからだ。学級委員で誰からも頼られ慕われている葵に、真悟はいつの間にか惹かれていた。
ずっと前から仲良くなろうと思っていたのだが、他人に知られるのが恥ずかしくて思い切ったアプローチができなかった。だが数週間前、葵が小学校を卒業後、私立の中学校に行く為に勉強していると聞いた。
残念ながら真悟はそんな所に行ける程の頭はない。小学校を卒業したら最後、会う機会はほとんどなくなる事だろう。六年生の今、花火大会は真悟にとって、自然に、かつ強くアプローチをかける大きなチャンスだったのだ。
しかし現実は骨折で動けず、さらには無理を頼める父親も仕事でおらず、仕方なく真悟は家族と家のベランダから花火を見ているのだった。
「真悟、あんたスイカ食べないの?」
「あ、食べる、食べるよ!」
隣から姉の舞子が声をかけた。真悟は皿に残っていたスイカを慌てて手に取り口に運びながら、カールした茶髪を揺らしてクスクスと笑う舞子を背にして、また窓の外に目を向けた。
花火は現在インターバルの最中らしく、光は上がっていなかった。待っている間、真悟は目をさらに先に向けた。土手の向こうに広がるビル街や工業地域から、冷たい光がちらほらと見えていた。どれかは分からないが、あの光の中の一つで、父が今も働いているはずだ。
父の孝太郎は最近帰りが遅かった。仕事で色々と問題が起きているらしいが、真悟は詳しい事は知らない。きっと大きな仕事を抱えているのだろう。顔を合わせるといつも疲れきった顔をしていた。果たして父の仕事場からは花火が見えるのだろうか。
(こんなに綺麗な花火なのに、見れないなんて勿体ない)
そんな事を考えていた時に、一際大きな花火が挙がった。光の芸術が視覚と聴覚を刺激し、口に含んだスイカの甘味と相まって、夏が与える幸福感を満たしていく。鮮やかな光と体を震わせる音が悩みも忘れさせてくれる気がした。
過ぎた事は忘れて、これはこれで楽しもうと、真悟が思い始めた時だった。
「ねえ、何あれ?」
次女の亜里沙が、何かに気付いたように声を上げ、真っ直ぐ窓の外を指差した。真悟と舞子も、指差した先に目を向け、亜里沙が見つけたものに気付いて眉を寄せた。
ちょうど花火が上がった方向、昼間ならビル街がわずかに見える光の粒の中に、何かが一際大きな光を放っていた。建物の窓から放たれるような小さな光ではない。まるで道路のど真ん中に小さな太陽が出現したように、まばゆい光が広がり、それは次第に大きくなってビルの群れを包んでいく。先程までの夜空を彩っていた花火すら、この光を前にしては色褪せてしまう。
異変に一番最初に対応したのは舞子だった。
「亜里沙、電話!父さんに電話して!」
「え……!あ、分かった!」
亜里沙が言いながら立ち上がり、部屋の隅で充電していたスマートフォンを取りに行くのを見て、真悟も気付いた。光は川向こう、真悟達の父が働いている場所の近くで輝き、放たれている。光はどんどん強くなり、ついには真悟達の所から見える土手向こうの町全体が包まれていた。土手や川縁にいた客達も光に気付き、慌てふためいて動いていたが、いかんせん人が多すぎて、まともに動く事もできない。ホースで水をかけられた蟻の群れのように、避ける事もできず右往左往するだけだ。
真悟は窓を開けて、軒下に置いてあったサンダルを引っ掛けて外に駆け出した。ギプスのせいで上手く足を動かせずにもどかしい。手についたスイカの汁がべとべとしていたが、それを気にする余裕もなかった。
庭の柵に手をかけて、よく見えるように顔を近づける。光は土手まで浸食し、ついには川縁まで飲み込もうとしていた。一体あの光は何なのか。光に飲み込まれた人たちは大丈夫なのだろうか。友達はどこにいるのだろう。葵は無事だろうか、父さんは。
「駄目!父さんに繋がらない。全然繋がらないよッ!」
亜里沙の泣きそうな叫び声が聞こえて、真悟の全身が立っていられない程に震えた。
ひゅるるる、と、今の状況には不似合いな音が聞こえた。事前にセットされていたのだろう打ち上げ花火が上り、空に大輪の華を咲かせた。
それと同時に、町を包む光が一際激しく輝き、そして次の瞬間、余韻すら残さず消えた。
どれだけの時間が経った事だろう。真悟は自分の見たものが信じられなかった。舞子も亜里沙も、誰もうめき声すら漏らさなかった。
花火大会の会場は混乱状態となっていた。我先にと逃げ出した人々の弾みで、傷ついた人が大勢いる事だろう。だが、それ以上の大事件が目の前で起きていた。
それに最初に気付いたのは、やはり舞子だった。
「ねえ、あれ、変じゃない……?」
舞子の震えた声を耳にして、真悟もやっと気付いた。目の前で起きている事なのに、あまりの衝撃に脳が認識を拒否していたようだった。
先程発生した巨大な光に包まれていた土手の一部が、まるで巨大なスプーンで削り取られたように、抉れて消え去っていた。そしてそれは土手に空いた穴から覗く街中も同様だった。
そこにあったはずの建築物の群れは欠片も残さずにくり貫かれ、跡にはただ暗黒の穴だけが広がっていた。
次回:13時予定