彼女の家庭の事情
「ひょっとして…益子弘美…さん?」
俺が恐る恐るそう聞くと、
「はい…そうですけど…私…お客さんと前にどこかで会いましたっけ?」
そう言って首を捻る弘美を見ていると、ニムが俺の腕に抱き付いてきた。
「やりましたね、マスター。弘美さん発見ですよ!」
いや、発見ですよ…って、別にどっかに隠れていたわけでもないし、第一、こんな側で普通に働いてるだけで、一体これのどこが誘拐なんだか…あれ?
ふと、弘美を見ると、顔を赤くしてなんだかプルプル震えてる…
「あ、あの…お客さん…そちらの方は、か、彼女さんですか?」
「え?違う違う…」「えーと、妻ですよ」
「はあぁ?」
いきなり意味不明な爆弾を投下したニムは、なぜかニコニコしているし。弘美はそんな俺達を見ながら、ちょっと後ずさった。
「ち、違うだろ…ニム」
「あ、そうでした。結婚はしていません、えーと、内縁の妻?でもないし、彼女?も違うし…あ、肉奴隷?」
「に、肉奴隷!?」
目を真ん丸にした弘美が、口をあわあわさせている。
「違う違うって、じょ、助手です!助手ですよ」
俺がそう言うと、ニムは明らかに不機嫌そうな顔になった。そもそも肉奴隷ってなんだよ…恥ずかしすぎて説明出来ねえじゃねえか……ったく…そんな俺達を見ながら、弘美が呟いた。
「助手さん…ですか?パートナーみたいな?」
「そう!まさしくそれです!」
弘美の言葉に、ニムが一気に気をよくして、にへらと笑って、俺に抱き付いたままピョンピョン跳ねた。正直ちょっとウザい。
「あ、あらためまして…お、俺の名前は小暮明。探偵という仕事をしています。こっちは助手のニム…」
「パートナーのニムです」
しつこいなニム。
「探偵さん?私に御用だったんですか?」
「いや…実はね…」
俺達は、弘美の母親からの依頼について話した。弘美を探して連れ帰って欲しいという事、それに彼氏と不純な交際をしているのではないか、誘拐されてしまったのではないか…という、俺達の聞いた話をそのまま話した。
「ええー?誘拐?違いますよ。パパのお店手伝ってるだけです。そ、それに、私、彼氏なんていません!」
顔を真っ赤にした弘美が全力でそう言った。凄い気迫だ…それにしてもやっぱりだ…
これは誘拐なんかじゃない。単純にこの子は父親の仕事を手伝ってるだけ。まあ、それで学校を休んでいるのは問題あるけど、別に何か事件に巻き込まれてるわけでもなさそうだ。
となると、お願いをすればあの母親の所へ帰ってくれるかな?
そう思って、聞いてみると、
「ママの所へは帰りません。大体、パパがこんなに頑張ってお仕事してるのに、ママは文句ばかり…こんなのパパが可愛そうです。私はパパを応援してるんです」
うーん…話がこじれてるな…
話が長くなりそうだと思ったのか、弘美は一度店内に戻ると、店主の父親に出かける旨を話して、再び出てきた。そして3人で近くの自動販売機のある休憩場所のベンチに座ってから、俺はどんな事情があるのか、彼女に聞いてみた。気が付いたらニムが缶コーヒーを2本買っていて、ニコニコしながら俺と弘美に差し出していた。気が利くな…コイツ。
弘美の父親は、元々大手商社の営業をしていたそうだ。当然収入もそれなりにあり、順調に出世もしていて、所謂エリート商社マンの肩書を持っていた。依頼者である弘美の母親もそんな肩書に魅せられて結婚したのかもしれない。都心から少し離れたこの街に一軒家を購入し、弘美と一緒に3人で世間的にも裕福な家族として暮らしていた。
ところが、この時代は経済不況の最中であり、父親の勤め先も例に漏れず、経営が苦しくなった。そこで行われたのが『リストラ』と呼ばれる早期退職。そこそこの地位にいて、給料も多かった弘美の父は早期退職の勧告を受け、ついにはその職を追われてしまった。父親は仕方なく退職を選択した。
そして、ここからが問題だったようだが、父親は予てから希望だった『自営業』による独立を決め弁当屋の開業に踏み切った。だが、弘美の母親はそれに猛反発。『エリート商社マンの妻』から、『弁当屋の奥さん』に肩書が変わってしまったことにかなり憤っていたという。
「本当にパパが可哀そうだったの。パパはずっとお料理が好きで、いつか自分でお店をやりたいって言ってたの。ママだってそれを知っていた筈なのに、いざその時になったら急に怒り出して…『そんなにやりたいなら、勝手にやって』って、パパを家から追い出したのよ。パパだって本当はママに言いたいこと在る筈なのに、全部我慢して…だから私だけはパパの味方をしてあげたいの」
弘美の強い思いは良く分かったけど…これって、『家には絶対帰りません』って言ってるんだよね。という事は、依頼は達成できないじゃん。それに、この店も忙しそうだし、さて…どうしたもんか。
「なあ、弘美さん。気持ちは分かるんだけど、学校もきちんと行った方が良いと思うし、お母さんも心配してるんだから、家に帰ってあげてもいいんじゃない?」
俺がとりあえずそう言ってみると、
「パパのお店も大分お客さんが増えて、今が一番忙しい時なんです。でも、まだ人も雇えないみたいだし…だから私が手伝っていましたけど、これからは学校にもちゃんと行きます。でも、家には帰りません。パパの家で暮らします」
はあ、やっぱりダメか…まあ人間、一度決めたことってなかなか変えられないものな。俺だって田舎で暮したくないの一念で、3年近くも都会の隅にしがみついていたしな…
そういう意味で言ったら、自分のやりたいことを通した弘美の父親も、生活が変わるのを嫌がった母親も、父親を助けたいと決めつけた弘美自身も、揃いも揃ってみんな『頑固』ってことなんだよな…似た者家族だな…本当に…
俺が頭を掻きながら、缶コーヒーを口にすると、急にニムが横から口を挟んだ。
「弘美さんって、お母さんのこと嫌いなんですか?」
ん?ニムの奴、何を聞きたいんだ?
弘美は、真っすぐニムを見ると、
「き、嫌いじゃないですよ」
ちょっと剥きになった感じで、そう答える。
「じゃあ、弘美さんのお母さんは、お父さんのことを嫌いなんですかね?」
「そんな訳ありません。パパが会社を辞めるまではいつも3人でお出かけしたり、お買い物したりしてましたし…誕生日だって、いつもみんなでお祝いするんです」
ニムの言葉に侮辱されたと思ったのか、弘美は顔を真っ赤にして立ち上がってニムにそう言い返した。ニムを見ると、ニコニコとしたままだ。
なにがしたいんだ?ニムの奴は…
「なら、全部解決ですね。とびっきりの良い方法がありますよ…ね、マスター」
はい?俺?
ニムにまたもや丸投げされて、俺は絶句するしかなかった…