21歳、桜空
視界に見える桜並木は、もう何年も変わり映えしない。身長の伸びもすっかり止まって、花びらが散っていく様子を見る高さもあの頃と同じだった。敷いて言えば、この四年の間についに煉瓦道の舗装がされて、あの頃よりもずっと綺麗に瞳に映った。
ずっと南の方に揺れる水面を投影したような春の空だった。今日は四月一番の気温になるでしょう、などと意気揚々と朝のニュース番組でレポートしていた気象予報士の言葉が記憶に新しい。僕は一人、煉瓦道に差し掛かると桜がアーチのように広がる道を歩き始めた。
時折通りかかる老人たちにかけられた挨拶に会釈をして、道端でボール遊びをしていた子供が飛ばしてしまった子供に対して、ボールを投げ渡す。そんなことをしながら道を進んでいると、四年前に見たあの姿と、声の記憶が蘇り始める。僕は足取りを止めて、ひらひらと秒速数センチに満たない速度で舞っていく桜の花びらの行方を追った。あの花びらみたいにゆっくりと年月を追ってきたはずなのに、いざ考えてみればあっという間に僕の人生も地についていた。そして結局僕は、あの時偶然出会った彼女の影を、忘れることはできずにいた。
桜を見に来たの?
うん、すごく綺麗だから。あなたも好きなの?
うん、ばあちゃんが綺麗って教えてくれたんだ。
珍しいね、男の子で好きって初めて会ったよ。……ねえ、なんて言う名前なの?
そんなどうでもいい会話は、僕にとって美化された記憶でしかなかったはずだった。けれど、今ではあの時に抱いた感情を理解している。何も分からずに高校時代に付き合った彼女と別れてから、ようやくその感情を理解することが出来て、だからこそ、僕は四年ぶりに帰郷してからもこの場所に来ているのだと思う。また彼女に会えるという確証が有るわけでもないのに、来ればきっと何かが起こるという予感がしてならなかった。
初めて彼女と出会った方に続く道の先を眺める。木々の間には、あの頃とは違い年寄りの木を伐採した後にできた空白の場所がぽつぽつと出来ていて、寂しさを醸し出している。僕はまた歩き出した。背中に覆いかぶさってくるリュックサックの重荷は、どこかに昇華してしまったかのように重みを感じない。並木道の切れ間に進んでいくにつれて、不安と期待が胸に押し掛けてくる。ただ、彼女に会いたかった。聞きたいことがたくさんあった。それだけで、僕の足取りは次第に速くなっていく。
道の切れ間に到達して、少しだけ荒くなった息を整えながら僕は足をとめた。あの頃、僕の体よりもずっと大きく空を覆っていたように感じた桜のアーチからは、花が大分散っていた。葉桜が所々に見えたのを一瞥したところで、高架線の方から列車が通る轟音が響きわたる。その音が響いたと同時に、煉瓦道に散った花びらが辺り一面に巻きあがる。春風が吹きわたったのだ。生温かい風に弄られた前髪を整え直そうとしたところで、僕の肩に、細い指が当たる。
「きみも、桜を見に来たの?」
視力や、嗅覚や、聴覚や、その他一切の感覚が停止した気がした。思考が回らない。けれど、驚きが全てに勝るとまでにはならなかった。予感していたことだった。桜が舞う季節に来れば、きっと会えるということを。きっと今ここに来れば、会えるような気がしたということを。
「うん、それと」
緩みそうな頬を絞めつけながら、自然体に言葉を絞り出す。ゆっくりと首を翻して、僕は全く変わることのない彼女の微笑みに、こう投げかける。
「きみに、会いに」
そこで、僕と彼女は頬から耳をすっかり紅潮させて、一瞬視線が合った後にお互いに俯いた。四度目の出会いは、嬉しさよりも恥ずかしさが勝った。胸の奥にひしひしと込み上げてくる熱い源泉が、沸騰しそうになる。少しだけ視線をそらしてから、僕はまた彼女を見る。
「すっかり身長に差がついちゃったね」
初めて出会った時には二つに分けていた髪は、五年前に出会ったときと同じように流れ落ちるような黒髪になっている。微笑む彼女の唇の脇には、えくぼが小さく見えた。
「そりゃあ、あれから十年以上経ってるから」
最初はほとんど差がなかった背丈も、気づけば二十センチくらいの差が僕らの間に生まれていた。僕の顔を見上げる彼女は、変わらず見た目以上に饒舌に口を走らせる。
「いるような気がしたの」照れくさそうに、彼女は髪を耳の上にかき分けた。「なんでっていう理由は無いんだけどね。四年ぶり? になるのかな。桜が咲いて、ここを通るたびに思い出してたんだ。彼は何をしてるんだろうって。変だよね。きっとおんなじ町に住んでるから、誰かに聞けばわかるはずなのに。けど、不思議と今日はきっといるはずだって思って来たらドンピシャだよ。凄くない? 私」
嬉々とした声を上げて、照れくさそうな表情を三度上げる彼女を見ると、過去にあったものがどうでもよくなるような、そんな感覚に包まれる。
「僕もだよ」
彼女がきょとんとした表情で、僕の顔を見上げる。
「今日なら会える気がした。なんでか知らないんだけどさ。行けばいるだろ、くらいの軽い気持ちだったかもしれない。凄いよね。今関西の方の大学に行ってるから、久しぶりに帰郷して実家より先にこっちに来たらいるんだからさ。びっくりだよ」
そっかそっか、と彼女は小さく口元で呟いて、眉を下げる。驚くほど、僕の口から言葉が漏れた。
「聞きたいことがたくさんあるんだ」
「聞きたいこと?」
「そうだよ。秘密が多い方が綺麗に見える、なんて言って何も教えてくれなかったじゃんか」
そうだっけ? ととぼけた口調を見せた彼女は、一転して悪戯っ子みたいな表情を浮かべた。誤魔化す女の子なんて綺麗でもなんでもないよ、なんて言葉をかけてみると、なんでさいじわる、なんて返答が来る。お前が言うかよ、と嘆息交じりに思うと、僕らの間に桜の花びらが散ってきた。
「……こうやってまともに再会してなんなんだどさ」
人形みたいな彼女の顔が、かくん、と傾げた。
「高校時代に僕が一緒にいた子いただろ? あれ、あの頃の彼女だったんだよ。流されるように付き合って、流されるように一緒にいて。なんだか、好きっていう感覚がよくわからないままに結局別れたんだよね。けど、桜を見て、きみを思い出すたびになんとなくそういう感覚がわかってきたような気がしてさ」
次第に、彼女の顔に真摯さが戻る。一息僕が息を着いたところで、彼女はまた柔和な笑みを見せてくれた。自然とどうしたらいいかわからない表情が綻びて、誰かが裏で計算したかのような自然な表情が出る。
「僕は、きみが好きだった。八歳のあの頃、ほんの数秒できみに恋に落ちた。今でも、落ちてる。桜を見るたびに真っ先にきみが浮かんで、中学生のあの頃にきみを追いかけられなかったことを今でも後悔してるし、高校生のあの頃にきみと再会できて本当に嬉しかった。だから、今は正直になりたいんだよ。きみが好きです。すぐとは言わないよ。せめて、恋人未満から始めてみませんか」
春風がもう一度だけ、沸き上がる。桜のアーチから花びらを掻っ攫って、空の海に投げつけていく。足が動かないのも、手が硬直するのも、心臓の拍動が止まりそうになるのにも、何にも違和感を感じなかった。素直な言葉が、神様の描いたシナリオ通りのようにするすると流れる。彼女はまたえくぼを凹ませて、薄桃色に染まった並木道に反射した瞳を、少しだけ潤わせる。
「……私の気持ちを知ってて言ってるよね、それ」
三割くらいの苦笑を交えた笑顔で、彼女はおどけて言う。
「当たり前じゃん」
笑みを彼女に見せる。彼女の瞳が少しずつ濡れていく気がした。
「じゃあ、せめて恋人未満の相手になった祐樹くんに、教えてあげないといけないよね」
彼女は僕の方にもう一歩だけ詰め寄って、人差し指を口元に当てる。
「私の名前はね」
桜空。
さら、って読むんだよ。
桜が満開の空から、あなたがお母さんのところに来てくれたから、って。
だから、あなたも満開の桜の下で、大切な人を見つけなさいって。
やっと見つけられたから、私は今日、もっとこの名前を好きになったね。
桜空の下に、再び列車が通る轟音が響く。四度目の出会いを経て、彼女の指が、初めて僕の指に絡まる。道を覆い尽くす桜の花びらは、初めて出会った時のように道一面に広がっていた。あと何度、この道をきみと歩くことになるだろう。あと何度、桜のアーチを、この瞳からきみと見上げることになるだろう。季節は巡って、やがて花はこの町から消えていく。けれど、その時も、桜空と一緒にいられたら、また新しいきみとの出会いを探せるはずだと。
そんなことを脳裏に焼きつけながら、僕らは春風と花びらが空に舞う道を、再び歩き始めていた。
本当は4月、桜の時期までに完成させたかった……。
割と思いつきのままに書いた作品になりました。
短い話でしたが、お付き合い頂きありがとうございました。