17歳、再会
桜が結構咲き始めてるみたいだよ、と千英が僕の方を見上げながら言う。
生返事をして、僕は両手をブレザーのポケットの中に突っ込んだまま歩き続けた。軽い文句を漏らした千英を尻目に、まだ四月だというのに妙に肌寒い登校ルートを、二人並んで歩く。携帯の時計は今朝の八時を回ったところだった。
「興味ないの? 桜」
首をかしげてそう問いかける千英の言葉に、か細く「うん」と返す。祐樹くん、風邪ひいた? とだけ返されて、僕は胸元に巻いたマフラーで口元を覆った。
「ほら、東中の近くに桜並木があるじゃん。高架線沿いのやつ。知ってるでしょ? お花見行こうよ。せっかく一年で何度もチャンスないんだし」
「まあ……気が向けば」
「絶対行かない奴じゃないそれ」
嘆息した千英の方に目を向けることもなく、コートに覆われた体を機微に震わせている同じ学校の生徒に交じって、僕らは通学路を進んでいった。東京の開花宣言が例年よりも二週間くらい遅れたせいか、素肌を伝って芯に伝わる寒さがまだ強い気がした。北陸だか東北の方だと、桜に混じって雪が降ったらしい。曇り空が続く日が多いせいか、あまり今年の桜は良い声を聞くこともなかった。
「結構あそこ、桜を切ったって聞いたけど」
不機嫌そうな雰囲気を醸し出していた千英を悟って、僕は声を絞り出す。
「……結構歳とった木が多くなった、って言ってたみたいだし。あたし的にはちょっと寂しいなあ」
だけど桜は見たいから放課後行こうね、と彼女に無理やり主張を突き返される。墓穴掘った、と聞こえないように呟いた。不機嫌気味な千英に反論すると、また何を返されるか分かったものじゃない。
短い人生の中で、初めて彼女と言える存在となったのが彼女になる。友達からもなんでお前に彼女が出来たんだとか、草食系の代表みたいなお前に何があったとか、散々な事を言われ続けたけれど、正直な話僕自身もなぜだろうかと思う時があった。
告白は彼女からだった。
話してて落ち着くから、らしい。
そんな理由で彼氏にしていいのかと何度か聞いたことがあったけれど、恋なんてそんなもんだよとの一点張りを食らうばかりだった。大した恋愛経験も、恋愛感情も抱くことがなかった僕にとっては今でも疑問に思うし、正直まだふわふわした何かをうまく掴めないような感覚に陥っている。
好きじゃないなら彼氏にならないけれど、僕もよくわからない。僕にとって彼女はそういう関係でならないような気がしていた。
「また難しいこと考えてたの?」
眉を潜めていた僕の表情を、高い位置にまとめた髪を寒風に揺らしながら、彼女の瞳がのぞきこんでくる。整った前髪の奥で揺れる無邪気そうな瞳を直視するだけで胸の奥の鼓動が高まる。
「祐樹くんがそういう目の時はいつも何か考え込む時だよね」
彼女は人差し指を僕の鼻に差し込み、白い歯を持ち上げて悪戯な笑い声をあげた。
「もっと気楽に生きてみようよ。 ねっ?」
彼女は僕の鼻から指を離すと、踵を返してステップを踏みながら登校ルートを少しだけ早足で駆けていく。無意識に髪を掻いて、僕は深く嘆息した。千英には敵わない。そんなことを脳裏に浮かべながら、遠くに駆けて行った千英に手招きされていたことに気づくと、僕は眠気と機微な感情で重くなっていた足取りを速めて、彼女の方へ駆けて行った。
「寒い時に見る桜もいいもんだよね」
結局彼女の力押しに負けて、僕と千英は放課後にあの桜並木に来ていた。僕の横で声を散らかしている彼女の言葉はあまり耳には入ってはいなかった。この桜並木に来たのも、もう三年ぶりになる。
所々が剥がれて舗装がほとんどされていないことが相変わらずの煉瓦道。あの頃よりもより一層岩肌みたいにごつごつしてきた桜の幹。そして、道の奥まで続くであろう薄桃色に包まれたこの時期特有の桜空。
そして、思い出したくないあの頃出会った女の子の記憶。
千英の言葉よりも、そんな事ばかりが頭によぎる。だから来たくなかった。後悔の記憶の方が大きいから。また来てしまうと、記憶の槍が僕の胸を貫いて、思い出したくないものが脳裏を支配してしまうから。
「……ねえ、ねえ! 祐樹くん!」
俯きかけていた視線を上げると、いつの間にか僕よりもずっと向こうの桜の下にいた千英が、両手をいっぱいに使って僕の名を呼んでいた。お互いブレザーに身を包んでいるだけあって、通りすがる老夫婦や、背広姿のサラリーマンや、子連れの主婦なんかの視線が痛い。僕はいろんな意味でも頭を抱えながら、彼女の爛漫とした声に釘を刺しながら桜並木を抜けていく。
「はやく! こっちこっち!」
はしゃぐ娘に振り回される父親のように、僕よりもずっと速く駆けていく彼女の影が、どんどん遠のいていく。運動神経がいいとは言えない僕の足に鉛でも絡まったかのように、足がどんどん重くなっていった。足取りを止めて、少しだけ息を整える。喉の奥が震え、首や手足から汗が噴き出てきた。感じるはずの寒さがほとんど感じられなくなって、感覚が麻痺していく。
もう一度だけ深く息をついて、もうどこに行ったかもわからない千英の消えていった方に目を上げた時だったと思う。
「あの」
か細い声が、僕の背中にかけられる。最初は僕にかけられた声という事がわからなくて、そのまままた走り出そうとしていた。けれど、ほとんど変わらない声の大きさとトーンでかけられた声は、同時に手を僕の背中に当てていた。
「え、僕――」
視線を翻して、思考が再び止まる。汗に濡れた視界から見えた、清流のように澄んだ長い黒髪。飴玉みたいな瞳。そして、あの時見た制服とあまり変わらないように映える、深い記憶の姿。千英よりももっと背丈が低いその姿を前にしたときに、僕の口と思考が完全にフリーズを覚えた。
「財布」
「え?」
「財布、落としましたよ。これ、あなたのですよね? さっき走った時に落ちたのが見えて」
少しだけ震えた声が、折りたたまれた黒塗りの財布を僕に差し出す。僕は慌てて尻ポケットの方に両手を当てた。普段ならその位置にすっぽりと埋まっていたはずの長財布が入っていない。咄嗟に「すみません」と焦燥しきった口ぶりで彼女に頭を下げて、財布を受け取る。
「桜」
そのまま手に収めようとした財布が、彼女の握られた手から離れなかった。彼女のその発言と行動がしばらく理解できなくて、財布の方と彼女の方を視界が行き来し合った後に、桜色の唇が震える。
「……まだ、好きだったんだね。祐樹くん」
背筋が震え立つ。何か、言葉をつなげようとする。なんで覚えているの。なんでここにいるの。なんでまた、僕の前に表れたの。答えが見えない数式のピースが頭の中を遊泳する時のような感覚に襲われながら、彼女の微笑みが僕の視界を震わせていく。
けれどやがて、彼女が財布から手をゆっくり話していく。彼女の妙に大人びた素振りに複雑なデジャヴを覚えながら、声を絞り出せずにいると、彼女は苦笑しながら僕にこう言った。
「あの子が呼んでるよ。行ってあげなくていいの?」
その言葉に思考や、ほとんど機能が止まっていた聴覚が戻って、僕は視界を右往左往させたあとに、踵を返す。その先には、すっかり見える位置まで戻ってきた千英が、少しだけ怒った表情を浮かべて僕の名前を呆れ顔で呼んでいた。僕はそのまま、短い言葉で礼だけ返して、千英の方にまた向かおうとする。けれど、それと同時に僕はもう一度だけ彼女の瞳を向いて、驚くほど自然に出た言葉を投げかける。
「……きみの名前は?」
瞳を一瞬だけ丸くした彼女はそのままあの時をフラッシュバックさせるような微笑みをまた向けて、分かりきっていた答えを返した。
「女の子は、秘密が多い方が綺麗に見えるんだよ?」
僕は呆れ顔で苦笑して、彼女を視界から遠ざけていく。千英のいる場所にようやく足を着けた時、千英はしばらく僕の方を睨みつけて、散々な雑言を僕に浴びせた。遅いとかあの人と何してたのとか。適当な言葉を繕って千英の横で並木道を通り過ぎようとしたあたりで、僕は一瞬だけ彼女がいた方を向いた。もうあの影はそこになかった。まるで、あの一瞬のやり取りが、僕の願望で出来た妄想みたいなものじゃないかと思う事すらあった。そのあとも僕は、千英の言葉を両耳いっぱいに浴びながら、桜色のその記憶を瞳の裏に焼きつけていた。