14歳、錯綜
「祐樹? おい、祐樹」
綿貫のその声で、自転車を押す手がもたれこみそうになることに僕は気づかされる。蛇行する蛇みたいに自転車を数回くねらせたところで、なんとかバランスを取り直すと、呆れた笑いを見せた綿貫が僕の肩を強く叩いた。
「大丈夫かよおい、どんだけ今日の練習で疲れたんだ」
「ごめん」
それだけ端的に返すと、綿貫は再び部活の顧問の愚痴や、先輩の愚痴をまた僕の耳に洪水のように浴びせた。息継ぎなしにこれだけ愚痴が出てくるのは、もはや感嘆か称賛に近いものを感じてしまう。適当な返事や相槌で場を保ちつつ、僕は再びあのころよりも高いところから見える、桜並木の花々の方に視線を集めた。
八歳の頃に出会ったあの女の子とは、あれ以来会うこともなく今に至っている。体つきや性格に大分変化が生まれて、気づけば僕はもう中学二年生になっていた。けれど、見える視界に映える桜並木の情景は、あの頃と何も変わらない。夕暮れに少しずつ町が傾きつつあるからだろうか、薄桃色の風景が次第に輝きを増しているような気がしてきて、夜桜も悪くないなと心の中で呟いていた。
「じゃあな祐樹、明日朝練遅刻すんなよ」
一センチに満たない髪の長さに丸めた綿貫が、一通りの愚痴を吐き切ったところで、分岐する小道の方にそんな言葉を残しながら自転車を走らせて行った。ほぼ毎朝遅刻してるのはお前のほうだろ、と猫背の背中に吹っ掛けるように苦笑すると、僕はペダルを少しだけ強く踏んで、花の匂いが全体に絡まった並木道を走っていく。まだ新品の気が残る自転車のチューブには、踏んだ後の桜の花びらがところどころにくっついていた。
あの日から毎年、この時期になると僕は彼女のことを思い出していた。
大人びているくせして、実際は少しだけ意地の悪いあの子とは一時間も話していないというのに、これだけ執着しているのは正直自分でも気持ち悪い気はする。けれど、いつしか意識をせずとも桜を見るだけで彼女のことを思い出してしまって、この桜並木で彼女の姿を探すようになっていた。あれから五年以上たっているのだから、背丈も伸びて顔つきももっと大人っぽくなっているはずなのに。成長した彼女を見ても、すぐには気がつかないはずだということも分かっているのに。
ブレーキを握って、煉瓦が敷き詰められた並木道の端に差し掛かったところで、自転車の車体を少しだけ傾けて僕は足を着く。あの頃よりも少し色あせたかのように感じる桜並木の終わりは、僕が彼女と言葉を交わした場所だった。少しだけ目線を遠くに向ければ、高架線の向こうに伸びる駅と隣接する駅ビルが見えて、薄桃色の並木道と陽光にギラギラと反射したビル肌にギャップを生む。これも、あの頃にはまだなかった光景だった。
あの子と出会えたことは、白昼夢か何かじゃないかと思う事もあった。あまりに幻想的で、不思議な雰囲気すら今は感じる。こうしてあれから会えないからかもしれないけれど、現実味のない記憶にすら感じることもあった。手をいっぱいに伸ばせば届きそうな距離に咲き誇る桜を見上げて、僕は自分に言い聞かせるかのように嘆息する。そして、ペダルを踏み直して自宅の方にハンドルを傾けた時だったと思う。
時間が突然スローモーションになるっていうのはこういうことだ、と後になって思った。
並木道の脇の車道に、銀色の車体を煌めかせる車が入った。そこまでは別に気に留めた事じゃない。その、後部座席の影。
漆が塗られたかのようなしっとりとした黒い長髪。あの頃見た制服に、少しだけ手を加えたかのように見えるセーラー服。そして、なにより見た瞬間にフラッシュバックしてきた不思議な瞳。
僕の上半身は、無意識のうちに車窓の奥にある影の方に向いていた。確かな証拠があるわけでもなく、ただの直感のはずだった。声が漏れそうになる。開いていない窓の方に声をかけたところで、何も聞こえるはずもない。そのまま、脇道に入った車は自転車の上で佇んでいた僕の横を過ぎ去っていく。
多分、その一瞬で、僕らの視線がシンクロしたかのように重なった。
車が僕を抜き去った時、彼女は左後部座席の窓を開け、顔を突き出して僕の方に瞳を向けた。前髪の奥に揺れている瞳が、泣きそうになっていただけ、覚えている。言葉を交わす一瞬すら、僕らには与えられなかった。
なんであの時車を追いかけなかったのだろうと今でも思う。ただ僕は、散り始めの桜に交じっていく彼女の姿を、自転車の上でただじっと見つめていることしかできなかった。彼女のことをいつからか追いかけていたはずなのに、言葉を絞り出すことが出来なかった。
僕はその現実にしばらくの間、呆れていた。自分の度胸のなさや、見栄ばかりが先決するところに。車の影が遠くに消えて、見えなくなってしまったあたりで、現実に殴りつけられたような感覚になった。
だからこそ、それから僕は、その季節になるとその桜並木を通らないようになっていった。