8歳、出会い
人が恋をしはじめた時は、
生きはじめたばかりのときである。
――スキュデリ
桜の花の時期になると、僕は毎朝学校への道を少しだけ迂回して、高架線沿いの桜並木の道を登校のルートに選んでいた。それをやり始めたのは小学校三年のころのことで、よく朝を一緒にしていた友達が遠くの町に転校して一人で登校するようになったために、登校ルートを好き勝手決められるようになったからだと思う。子供心ながらに朝から桜を眺めて登校することに風流じみた何かを感じて、その時期には家を出る時間をいつもよりずっと早くしていた。
学校の方に近道で行ける人通りの少ない交差点を反対側に曲がり、下りたシャッターが目立つ商店街を突っ切ると、桜並木独特の淡い桜色が背丈のまだ低かった僕よりもずっと空に近い位置に現れる。まだ八時前だというのに、おじいさんおばあさんが朝の散歩がてらにもう花見に来ていた。僕は駆け足で少しだけ荒れた息を整えて、真新しく補整がされた並木道に靴底を付けると、学校の方に伸びる道を歩き始めた。僕が生まれた時よりもずっと前からあるという、桜の木々の幹の半分にも満たない僕の目線から見える桃色が、朝の陽ざしに反射してきらきら輝いて見える木がする。行きかうおばあさんにあいさつの声を投げかけられてはその倍くらいの声であいさつを返し、僕の方に近づこうとするリールに繋がれて散歩をしていた柴犬が吼えかけてくると、僕は逃げるような駆け足で並木道を走り抜けた。
僕の短い歩幅で歩いても、二十分くらい歩けば並木道の出口が見えてきてしまう。ふと通ってきた桜の屋根を振り向きざまに一瞥して、登校ルートに繋がる道を進もうとしたとき、その日初めて僕と同じようにランドセルを背負った人影を目にした。背丈は、僕と同じか、少し小さいくらいだ。長い髪を二つに縛っているその背中には、僕の通う学校とは違う革製の茶色いランドセルが見える。上下紺色の制服とスカートを見て、その子が私立の学校に通っていることは容易に想像がついた。
「ねえ」
僕はためらいもなく、その女の子の方に声をかけながら近づく。背中をびくりと震わせたその子は、僕の方を振り向くとどこか安堵したかのような表情を見せて震え気味の肩を下ろし、首をかしげる。
「きみも、桜を見に来たの?」
彼女は両手を腰の後ろに組んで、前かがみに僕の方を覗き込むようにして視線を返す。飴玉を埋め込んだみたいに大きな瞳が、苦笑を含んでいるように見えた。
「うん、ちょっと遠回りになるんだけど。毎年、すごい綺麗に咲くから見てみたくなったの」
そこで僕も少しだけ苦笑を返して、「僕と同じだ」と返す。
彼女の立ち振る舞いは、僕よりもずうっと大人びて僕の目に映えた。多分、同じクラスの女の子にもこんな雰囲気を醸し出す子はいないと思う。何というか、「大人っぽい」という言葉が、一番しっくりくる子だ。革靴のつま先から、櫛ですいたばかりの髪のてっぺんまで、住んでいる世界が別にすら感じる。背景に見える薄桃色の町が、彼女の気品差みたいなものを際立たせているような気がして、次に繋ぐ言葉がなかなか浮かびあがらなかった。
「あなたも、桜が好きなの?」
少しだけ俯きかけていた僕の視線を、彼女の瞳が追いかけてくる。喉に言葉をひっかけそうになりながら、僕は言葉を返す。
「う、うん。ほんとは向こうの方の学校に通ってるんだけど、ここが春になると綺麗に咲くって、小さい頃ばあちゃんが教えてくれたから」
自分で何を言っているのか分からなくなりながらそう返した僕に対して、彼女は微笑みながら透き通るように見える乳白色の指先で、僕の肩に触れる。一瞬の緊張が全身に迸るのを感じた後に、僕の視界のすぐ近くで、彼女が僕の肩についていた桜の花びらを摘んでいたことに気がついた。
「なんか、珍しいね」
彼女は指で摘んだ桜の花びらに息を吹きかけて、遠くの方に飛ばす。
「私の行ってる学校だと、同じクラスの男の子に桜が好きな子っていないの」
そうなの? と返す僕の言葉に、彼女は少しだけ寂しそうな表情を浮かべる。すぐそのあとで、もしかして上級生? と訊かれた後に、自分の学年と年齢だけ言ったところで私と同じだ、と余計に驚かれる結果になった。余計な遠慮を知らなくなったのか、親近感を抱くようになったのかは分からないけれど、少しだけ嬉々とした声で彼女は質問を連発した。どこに住んでるの、とか。名前は、とか。なんで桜が好きなの、とかさっき答えたはずの質問まで。
「じゃあ、きみの名前はなんて言うの?」
少しだけ不機嫌そうな声音を繕って、僕は投げつけるように彼女に言う。いたずらな表情を浮かべた彼女は、人差し指を薄紅色の自分の唇にあててこう返した。
「まだ、秘密かな」
「なにそれ、ずるいじゃん僕だけ」
「女の子は秘密が多い方が綺麗に見えるんだよ?」
微笑を見せる彼女を前に、僕は口をすぼめて反論する気にさえなれなかった。遠目から見れば大人っぽいけれど、意外と意地悪な面が多い。不機嫌に見せていた言葉が喉を通って体中に浸み渡りつつあった。
「じゃあ、一つだけ教えてあげる」
彼女は僕の方に背を向けて、桜並木の出口の方へ少しだけ駆けていく。僕らの身長の二倍くらいの距離を取ったあたりで、彼女が踵を返した。
「お母さんが桜をすごい好きで、だからお母さんは私の名前にその花の名前を入れたんだよ」
そのまま彼女は、桜並木でただ少しだけ言葉の意味に追いつくことが出来ずに立ち尽くしていた僕の元から遠ざかって行った。彼女が朝焼けの町の方へ、二つに分けた尻尾みたいな黒髪が風に揺れていたこと、そして彼女がいなくなった後の桜並木に、一瞬だけ強い風が吹いて、桜の花びらが僕の視界を覆ったことを今でも覚えている。
思えば、それが最初の出会いだった。
桜並木で花が咲くときにだけ現れる彼女と再会したのは、それから五年もあとのことになる。