ゆうと春
約束をした。また春にこの公園の水飲み場でと。
白地に赤いラインが入ったスニーカー。ひもが緩んでいたので結い直す。三ヶ月前に買ってもらったもので、汚れてきている。シンプルなデザインが気持ちを少し大人にしてくれるようで、私は気に入っている。
上着のボタンが止まっていることを確認し、白いマフラーを巻く。三月末だというのにまだ寒い。
「いつもの公園行ってくる」
玄関から台所にいる母に叫ぶ。台所の入り口にかかっている暖簾が揺れた。
「いってらっしゃい。夕飯までには帰ってきなさいよ、気を付けてね」
「はーい、いってきます」
返事もそこそこに、外へ飛び出す。
家を出て、横にのびる道を左へ。団地をぬけて、道なりに進む。マンションに添うように作られた道でもう少し暖かくなれば桜でいっぱいになる。桜並木。急いでいるわけではないのにわくわくした嬉しい楽しい気持ちが足をはやらせる。
また、会える。二年前、毎日一緒に遊んだ、ゆうに会える。
桜並木とマンションが途切れ、大通りにつきあたる。そこを左に曲がりまっすぐ行くと左手に小さな公園。
入口に第二桜木公園とプレートがグレーの石に埋め込まれている。木の遊具と滑り台が合体したものが中央に、左手にブランコがふたつ。右奥に桜の細い樹。その樹の入口に近い所に水飲み場がある。二年前と同じ配置。
二年前、私はよくこの公園で遊んでいた。ほとんど子供は来ない、小さな公園。マンションの子たちはマンション内の森や広場で遊び、団地には年の近い子がおらず、私の遊び相手はゆうだけだった。
夕方、母が夕食を作り始める頃公園に行くとゆうがいた。ゆうは、おかっぱ頭で一見すると男の子にも女の子にも見えた。いつも長めのズボンをはいて、裾をまくっていた。
滑り台の一番うえで桜を見ているか、水飲み場に背を預けあらぬ方向を見ているのが常で、私が公園に駆け込むと感知したように私をみて笑ってくれた。
いつからだろう。一緒に遊び始めたのは。
「ゆう」
入口に入って、右手の水飲み場に向かって歩いていく。二年前と変わらず彼は、下に向いた蛇口と反対側で立っていた。公園入口からは背を向けて。声が発せられたか、られないか辺りで彼は、入口の方を振り返った。私を認め笑う。
「お久し振り、ことは」
相変わらず落ち着いた声で、姿で、仕草で。変わらないなと私は思った。私はこの二年間、別の土地で過ごして何か変わっただろうか。彼のように少しは大人っぽくなれただろうか。
「うん。久しぶりだね」
公園で毎日のように遊び、思っていたことを彼と対面して思い出す。マイペースで、どじってばかりだった私。よく転んでは泣いて、彼に出来て私ができないことがあるとむきになる。
そんな私に彼の取る対応は大人っぽく見えた。
「どうしたの、随分静かじゃない。成長ってやつですかことは」
からかうようにゆうが言った。私はちょっと笑った。
「成長するよ私だって。まだこっち帰って来てから転んでないもん」
言ってから、全く自慢できることじゃないなぁと気持ちが少し沈んだ。
「いつ帰って来たんだっけ」
「んー二週間前かな。部屋片付けるまで随分かかっちゃった」
「変わらないね、ことは。整理苦手なのは」
安心だとゆうは笑って、
「覚えてくれててありがとう」
と、柔らかく言った。
沈んだ気持ちをふわりと持ち上げられるように感じて温かくなり、不意にその浮上する感覚にもうひとつの約束を思い出す。
『忘れないでいてくれたら、また会おうか』
二年前の別れ際、さみしさの混じった笑みで言われたこと。
彼をみるとまだ笑っていた。この二年で彼はきっと、決心していた。私は忘れてしまっていたけれど。都合の悪いことは忘れてしまう私の記憶。
「やだなぁ」
忘れていた記憶と出会えてしまったさみしさで私は言った。
二年前、私はひとりで遊ぶ相手もいなくてさみしかったのだ。紛らわすための幻想、空想。彼はそれを私と初めから約束していた。さみしくなくなるまでの間、私と共にいてくれること。
不意に風が吹いた。強い、春一番のようなどこかしなやかな強い風。
つい目を閉じて、開けると彼は消え桜が咲いていた。満開の。細い桜の木が、精一杯に。
「春です」
どこかで、彼の笑みを含んだ声が聞こえた。
* * * * * * * * * * * * * * * *
「……ことは」
呟いた言葉が、闇に溶けた。
思わず手を伸ばし――あるのは空だけだと手を下ろす。
言葉は手では掴めない。……そう、あたりまえだけれど掴むことは出来ない。頭や心は別として、物理的に掴むことなど不可能だ。なのに、何故、今僕の手は動いたんだろう。
「ことは」
大事な名前。
頭ではわかっていても、大事にしている感覚がなくて僕は。しっかり手で掴んでいたい。
闇の空間。
いや、正確には、僕が今いる空間は闇であると言ったほうが正しいだろう。ここは様々に色を変えるから。
今はとことん暗闇だった。どういう基準で色が変わるのか僕はよく知らない。ただ、彼女によって色が変わることは知っている。ここのところはずっと闇。でもその原因は僕だから、仕方ない。
「覚えていてくれるかな」
呟いて、ちょっと笑う。そんなこと、僕は望めない。
本当は、忘れていてほしい。僕のことなどすっかり忘れて、今を楽しんでほしい。でないと彼女はあのときのまま。
「ねぇ、ことは。そこでは、友達できたの? 俺に会った時みたいに寂しくて、うつむいていない?」
届かない言の葉。届いてはいけない言葉。今は、まだ。
「あと、半年かあ」
俺のこと、忘れないでいてくれたら、また会おうか。
その言葉のままに。
彼女自身である僕は、きっと僕なんて概念が消えることが正しいのだろう。彼女が知らなくても心のどこかで僕が巣食っている限り、彼女はそのままだから。
あのときのまま。一人、寂しいまま。
とぷん、と闇が深くなった気がして、僕は身震いした。
「ことは」
沈む前に、呟く。僕はあと半年、眠りにつく。次に目覚められるか、られないか。
「ごめんね」
離れていてもこうして、空間を通して知ってしまう。だから、つい願ってしまうのだ。また、あいまみえるときを。
学校に提出したのは前半部分の「私」のパートまでです。
付け加えたのは「ゆう」のパート。蛇足と言われても否めない。
というか完全に蛇足。