⑧
今日はユニ以外誰も利用者が居ないようだった。
心行くまで本棚の間を巡っては、どれにしようかとあちこちに手を出していく。
膨大な蔵書の中からやっと一冊の本を見繕って入口の席に座って本を読んでいると、ことりと机に何かが置かれた。
コーヒーが入ったカップである。
淹れたてなのか湯気が立ち昇り、良い匂いが漂っている。その上器用なことに、黒色の液体の上にはウサギが白いもので描かれていた。
「えっと……」
困惑して顔を上げると、鬼緒がしっと人差し指を唇にあててほほ笑んだ。
「サービスです」
「悪いですよ、そんなの。お金払います」
カフェで注文するものなら、それ相応の金額になるであろうと思われるコーヒーを前に思わずそう言ってしまうと、鬼緒は静かに首を振った。
「いえ、これは御詫びですので、何も言わずに受け取ってはいただけませんか?」
「御詫び?」
キョトンとして繰り返すと、鬼緒はしょぼんと顔を伏せた。その姿は綺麗な毛並みの大型犬が項垂れているのを連想させる。
「先程は大人気ないことを致しました。ですから、これはその御詫びの気持ちです」
「別に御詫びされるようなことはされていませんよ」
いえ、どうぞ召し上がって下さい。これで少しはわたくしの気が紛れますからと鬼緒は言う。
「わたくし、事、主人のことに関しては少々度が過ぎる処が御座いまして。とても大切な方なのです。ですから、興味本位とでも言いますか、主人の身の回りのものを目当てであの方に近づかれるのをわたくしが疎っていまして、あのような出すぎた真似をしてしまうのです」
紅潮する顔をお盆で隠す様を見て、その言葉が素直にすとんと下りてきて口をつく。
「余程、大切な方なのですね」
すると鬼緒は今までで一番良い笑顔をした。
「はい、とても」
羨ましいという言葉が頭に浮かぶ。
ずきんと額が何かを求めるかのようにして疼き、耳鳴りがした。
「どうかなさいましたか?」
心配そうな貌で顔を覗き込まれ、「いえ、何でもありません」と言うと、「御気分でも優れないのでは?」と聞かれ「いえ」と答えた。
そうですかと納得できなさそうな表情で鬼緒は引き下がった。
そして、「それでは」と鬼緒は紡ぐ。
「時に神立さんは、何かお困り事でも?」
いきなりの言葉に、瞬きを繰り返す。
「何故?」
「いえ、ただ、ここにいらっしゃられる方は大体がそういうものを持っておいでですので。これはまた、出すぎた真似をしてしまいましたね」
先程も何もできませんでしたし、わたくしは本当に役立たずですね……と続けられれば、ユニの方がおろおろとしまうものである。
こんな良い人を暗い気持ちにさせてしまったという、妙な罪悪感が生まれる。それに、年上のこの人がこんな子供っぽい様を見せるのだから尚更だった。
「本当に何でもないんです。ただ、頭が痛いのと耳鳴りがいっぺんにきちゃっただけで」
慌てて口にすると、鬼緒はばっと勢いよく顔を上げた。
「それは、何かの御病気では?」
その狼狽ぷりにユニは「まさか」と苦笑する。
「何でもないんです」
ほら、とユニは前髪で隠れた額を晒す。丸い円形の引き攣った痕が露わになる。
「ここに傷がありますよね。これがたまに痛むんです。それに耳鳴りの方はここの所しょっちゅうですから」
一瞬驚いた眼をした後、鬼緒は恐る恐る「本当に大丈夫ですか?」と言い、ユニは「大丈夫です」と頷いた。
それによってやっと緩んだ空気に、ユニはほっと息を吐く。そして、たった今口にした「しょっちゅう」という言葉であぁと思い出した。
「そういえば、ここの所毎日ずっと同じ夢を見るんですよね」
「夢を?」
「そう、夢なんですけどね」
「それ、どんな夢なのですか?」
そう問うた時、ユニは気がつかなかったが鬼緒の瞳の中には怪しげな光を帯びた。どんな生き物とも違うのに鋭い、肉食獣のような光だった。
それ気がつかないユニは「えっとですね」と言葉を探す。
毎日見ているとはいえ、流石に誰かに話すのは初めてで、妙に気恥かしいような緊張した気持ちになっていたからだ。だから、鬼緒の顔までちゃんと見てはいなかった。
笑わないでくださいねと念押しすると、鬼緒は笑いませんよと頷く。何せ、夢の話なのですから、と。
「その夢はわたしが獣になった夢です」
「獣、ですか?」
「はい、獣です。何故獣なのかというと、確実に人間ではないのに、どんな生き物とも似ても似つかない姿をしているからです」
「それはどんな形をしているのですか?」
「そうですね、四本足を持った大きな生き物です。わたしだけ額に一本大きな角が生えているのですが、他の獣にはそんな角がありません。夢の中のわたしは雷と共に駆け、高く高く跳躍することができるのです」
「素敵な夢ですね」
「えぇ、とても。素敵過ぎて、現実味がないのと同時にどうしてもこっちの方が現実のように思えてしまうのです」
「と、言いますと?」
「あまりにもその獣とわたしが近すぎるのです。その獣がわたしであり、わたし自身が獣であるのがこの世界の真理であり、それが真実だとついつい錯覚してしまう程、その獣とわたし自身の境界線が曖昧になっていて……」
「それで、神立さんはどう思われるのですか?」
その問いに、わたしは……と言い淀む。
「夢は願望の表れとか、その日に起こった記憶の整理とか言いますよね。なのに、そんな獣を見たことなんてないんです。けれど、その獣が凄く懐かしいのも事実です。知らない筈なのに、とても良く知っている気持ちになるんです。それから……」
「それから?」
「……何か大切なことを忘れているような気がするんです。本当に大切だった筈なんです。だけど、それが何なのかわたしは知らない。だって、その獣の仲間となっている夢の中で、彼らは責めるような眼でわたしのことを見るんですよ。悲しそうな目でじっとこっちを見ているんです」
「貴女はそのことをどう思うのですか?」
「特に、何も」
「それはどういう意味でしょうか?」
「そのままの意味です。だって、わたしは何も解らないんですよ。その獣が何なのかとか、何でわたし自身が雷を昔から好んでいるのかとか、どうして何かある度に耳鳴りがするのか、とか何も解らないのです」
自身のよく解らない吐露に驚くのと同時に、誰かに話を聞いてほしかったのだという一つの結論がユニの中で生まれる。
誰にでもないこの目の前の人に話したことが当然であるかのように思える事実に、緩く開いていた手に無意識のうちに力が籠った。穏やかであり、揺るぎのないものである青年の雰囲気が誰にでも軽く口を割らせてしまうのだ。
神立さん、と青年が纏うもの同様穏やかな声で名を呼ぶ。
「知りたくはありませんか?」
何を、と返せば「勿論」と鬼緒は言う。
「貴女のその夢が何なのか、ですよ。貴女が何を忘れているのか、を」
にっと笑んだ貌、それは今までのものとはまるで性質の違うものだった。
異質だった。
異質であり、絶対的強者が浮かべる余裕のあるものだった。
その表情を見た時、ユニの心臓はドクンと脈打った。恐怖ではなく、これは緊張だ。直感が告げている。この返事次第では、今までの生活には戻れないだろう、と。
数瞬迷った後、ユニは小さく顎を引いた。