⑦
明治時代の裕福な家を連想させる、豪奢であり、レトロでさえある建物が建っている。
周囲を囲むのは高層ビルだ。
街のただ中にあって、まるでここに存在していることが当然であり、それでいて世界そのものが違うかのように鎮座している。
一言で言うのなら、その建物は奇妙なまでに浮いていた。
だが、その奇妙なまでにまたそこに馴染んでいるのだ。
通りかかる人はその建物を気にも留めない。素通りしてしまうかのように、視線がちらりとも向くことはない。
そんな建物の扉をユニは開いた。
古めかしい造りだというのに良く手入れされているのか、両開きの扉はすんなりと開く。
扉を潜ると、途端に目に入るのは本がぎっしりと詰まった本棚。壁一面に並べられているそれが少し重たい印象を与えるものの、高い位置に造られたステンドグラス張りの窓から西日が差しこみ幻想的な雰囲気を醸し出している。
塵、否、埃一つそこにはない、完璧に手入れされた光景が存在している。
「お久しぶりですね」
声の方を見ると、カウンターの椅子から青年が立ちあがった。
通常の図書館の案内カウンターのように貸出返却用ではなく、文字道理喫茶店のカウンターのようである。
コーヒーメイカーは勿論のこと、キッチンまで完備されている徹底っぷり。入口のすぐ前には座って本が読めるように机が数個椅子とセットで用意されていて、このカウンターでは喫茶店でも今すぐ開けるような軽い料理だったら注文することができる。ユニも依然サンドイッチなど軽く摘まめるものを頼んだのだが、大層美味だった。
そんなここの管理人兼喫茶店のマスターのような青年に「こんにちは」と柔らかな物腰で挨拶をされ、それに反射的にユニも「こんにちは」と答えた。
青年はふふふと良い笑顔で笑んだ。
背が異様に高い、着流し姿の青年である。
聞いたところによると身長は百九十八㎝もあるそうだ。自然と顔を見上げるような形になり、平均そのものの身長しかないユニにするとこの青年と顔を見て会話をするのは首が疲れる。だが、それでも顔を見ずには話ができないような、そんな人を惹き付ける独特な雰囲気を持っている。
整った顔立ちといえばそうなのだが、それよりもこの青年の魅力は穏やかな雰囲気だろう。絶対にと断言できるほど、他の人間には出すこともできない柔らかな雰囲気を全身から発しているのだ。
「今日は学校のお帰りで?」
珍しいですねと言われれば、成程学校帰りに寄ったのは初めてここを見つけた時以来だということに気がつく。何となく目に付いたここの前で『開店』の文字を見つけ、それ以外には何も宣伝されていないことが逆に気になって入ってみては、ここは図書館だった。それも存外居心地が良いものだから休日なんかはここにやって来るようになった、ただそれだけだ。
「久々に本が読みたいなぁと思いまして」
「あぁ、それは良いことですね。本は人生の潤いですもの」
途端、生き生きというのか青年の目の輝きが変わる。舞台上の芝居でも見ているみたいに、うっとりとした目つきになった。
「本当に本が好きなんですね」
「えぇ、わたくしも主人の道楽で始めたこの図書館の管理人という業務をとても気に入っております。日がな一日のんびりとした気持ちで過ごせるのはこの上ない幸福というものでしょう。その上、このようにお料理まで出すことができるのは全くもって、主人のお心遣い以外の何ものでもございません」
「お料理、好きなんですか?」
「えぇ、えぇ、とても。主人の身の回りの世話に、掃除炊事はわたくしの一番のお仕事です。わたくしの趣味は家事全般で、特技は料理なものですから」
先程とは違った意味でうっとりとした目で語る青年は、既に他の世界に飛び立っていると言っても過言ではないだろう。
「御主人のことを尊敬されているのですね」
「勿論です。あの方がいらっしゃらなければ、わたくしはもう疾うに命尽きていたでしょう。あの方はわたくしの命の恩人であるのと同時に、わたくしに居場所を作って下さった方なのです。もう、わたくしの存在理由と言いますか、寧ろ存在意義でしょうね。あの方の為にわたくしは生きているのです」
大げさなとは思いつつ、水を差すのも気が引けた。
命云々なんて規模の大きな話だとは思うが、この誠実なまでの人がそこまで絶賛する主人がどんなものか気になった。大好きな本であろうとも、ここまで絶賛する姿は見たことがない。
「御主人って、どういう方なのですか?」
すると一転して、青年からはぴたりと言葉が消え、表情が消えた。そしてすぐさまにっこりと0円営業スマイルで言う。
「企業秘密です」
と。
「主人にお会いできる方は、ある条件を満たしておられる方のみとなっておりますので。それ以外の方に個人情報をお教えしてしまうのは、漏洩機密になってしまいますから。ですから、主人に関することは一切お答えしかねます」
これ以上踏み込むことは許さないのではなく、絶対に赦さないと言わんばかりの笑みだ。
穏やかな筈の雰囲気が、今はぴりぴりとしたものに変わっている。
肌を刺すような、とてつもない空気だ。
ユニからしてみると、営業スマイルという鉄壁かつ金剛金でコーティングされた絶対的な笑みを向けられて尚、それ以上踏み込む気はしないのが心情である。その上でこの雰囲気だ。もう、絶対にその話題を出すことはできないだろう。
ただの興味本位だったのだ。
こんな一等地に無償で個人図書館を開く人間を見てみたいという興味と、青年のあの絶賛具合にあてられただけだ。だから、そんなに深く知りたいという意味で口にしたわけではない。もしも遇うことがあったらお礼を言いたいくらいの軽い気持ちだったから、まぁ良いかと思うと青年と向き合う。
「今日もお邪魔しますね、鬼緒さん」
何事もなかったかのようにユニはそう口にした。
それを聞いた、ユニが「鬼緒」と呼んだ青年は、今度はとても穏やかな笑みで言った。
「はい、ごゆっくりどうぞ」