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何処からともなく雷の音が響いた。
それは存外近くのようだ。
あぁ、行ったのかと鴉戯は声を漏らした。
「雷を呼んでいるのだろう。あれは、電気なしでは生きられない」
今まで生きていたこと自体が、奇跡のようなものだと傍らに存在する鬼緒に言う。
鴉戯は席を立った。
ユニが居る間はずっと座ったままだった腰を上げたのだ。
「さて、後始末でもするとしよう。何せ、ここは人智を超える領分の悩みを解決する為に存在するのだから、私だって重い腰を上げるものさ」
ぱちんと弾ける音がした。
鴉戯が指を鳴らしたのだ。
渇いた空間に響いた音は、空気と混じって霧散する。
「これで良い」
何かをやり遂げたかのような、満足げな様子だった。一つ仕事をこなした者独特の充実さがそこにはある。
「鴉戯さん」
心配そうな瞳に、鴉戯はふっと笑んだ。柔らかく、何処か見る者を安心させるような優しい微笑みだ。
「何、平気さ。ただ、消しただけさ。彼女に関する全ての痕跡を、それこそ記憶の単位から」
きっちりと対価は頂かないと、と鴉戯は言う。
「こちらだって慈善事業ではないんだ。これくらいは当然だろう? 神立ユニが神立ユニである全ての証を頂いただけさ」
「何時ものことですけれど、少し……」
「虚しいかい?」
先を読まれた言葉に、鬼緒は頷く。
「これまで神立さんは神立さんとして生きてきました。築いてきた時間はそれなりに長いというのに、それが全て消えてしまうのがこんなにもあっという間で、一瞬のことで、上手く言うことができないのですが、とても儚く感じられます」
「世界は生き物に対してけして優しくはないが、時間は生き物に対して時には優しい」
詩でも諳んじる口調に、鬼緒は顔を上げる。相変わらずの飄々とした雰囲気の人物が目の前に居る。
出会った当初から、鴉戯は全く変わらない。常に堂々としていて、前だけを見据えている。その時から既に己という確固たる存在を作り上げていたのだ。それが鬼緒にはとてつもなく眩しく見える。眩しくて憧れるのと同時に、それだからこそ危なっかしい存在に感じられるのだ。
「ねぇ、鬼緒」
耳通りの良い声に名を呼ばれ、鬼緒は目を眇める。
「彼女一人の存在がなくなったところで何一つ変わりはしないのだよ。来ない明日なんてないのさ。故に、人間に限らずに生き物は皆足掻くのさ。己が生きてきた存在理由を残したくて、自身を証明する証を確立したくて」
儚いとは君も言っていたが、それは私もそう思う。けど、だからこそ人間のそんな所が私は好きなのだよ。己の欲望に忠実で、けれど悪役に徹することなどできず、己の身が一番可愛いと心のどこかで思っている人間が気に入っているのだよ。どうしてだか解るかい?
その問いに、鬼緒は首を振った。
「君も何時かは解るだろうさ。どんなものであろうとも、何にも掛け替えのないものであるということに。失ってからそう思うのでは、あまりにも残酷で悲惨で哀しすぎるだろうからね」
そして、鬼緒は遠くを見るような眼で呟く。
あぁ、そうだ。彼女からも確りと私達の存在した記憶を取っておかないと、と。