⑬
先代の部屋に入ると、その独特の臭いに鼻がスンと鳴った。
遺影と位牌が置いてある。火が消え、それでも尚燃え切らなかった線香が立っていた。
手入れをしているのは恵なのだろう。
この部屋にユニは殆ど入ったことがないし、恵の両親に至っては年に数度しか入る機会がなかった筈だと記憶している。そうなると必然的に消去法はこうなる。
優しそうに、満ち足りた風に微笑む顔を一瞥するとずきりと心臓が痛んだ。
「御免なさい」
何に対してなのか、誰に対してなのかは本人も解らずに言うと、掛け軸に手を掛けた。
捲ってみると、そこには何もない。ただ、木目が広がっているだけである。だが、よくよくみると小さな亀裂が走っていることが判る。
手で押してみれば、小さな窓が開けた。
鍵穴が付いている。
そこに金庫から取り出した鍵を入れてみれば、正解のようだ。サイズがピタリとあった鍵がカチリと回った。
小さく軋む音を立てて、入口が開かれる。
そこにあるのは空洞だ。入ったこと自体はないが、これは何処かに繋がっているのだろう。
昔から、家にはその家の当主しか知らない逃走用経路が秘密裏に存在していたそうだ。それは日本に限らず外国でも同じこと。わざと入り組んだ道にすることによって追手を巻き、自分達は目的地に避難したとも言われている。
古い家なのだ。それがこの家にあったところで何ら不思議でもない。だから先代の部屋にこれがあるのだろう。一家の長が一番に逃げる必要があり、一番逃げ延びなくてはならないのだから。
迷うものの、鴉戯から与えられたヒントはこれで最後だ。どうあっても、ここを進むしかない。
深呼吸をすると、真っ暗な穴の中に身体を通した。
扉が閉まったのか、光源は全て断たれた。辺りは一面の闇だ。
パジャマだけを纏った肌は寒く、裸足の裏はひやりと冷たい。
黴臭く湿った臭いがした。
ぺたり、ぺたりと歩く度に音が響く。
どれくらい歩いたのだろうか。暗さの所為で距離と時間は曖昧だが、視界が利かない所為で他の器官はこれでもかとばかりに冴えわたっている。
特に、耳。
聴力が格段に上がっている。
音を捉えたような気がした。
地を這う、否、空気を割るような唸り声がする。
哀しさと悔しさを混ぜた悲痛な声だ。
急き立てられるようにして声の方へ足を進めると、少し闇に慣れた目で確認できるくらい広い空間に出る。
押し込められたまま放置し、換気が一切されていない空間特有の獣の臭いがする。
薄らとではあるが、非常口を伝える電灯のように微かな明かりがあった。
何処に出たのかは判断できないが、ここには電気が通っているようだ。注意深く壁際に目を凝らしていると、見つけた。
電気のスイッチだ。
それを押すと、パッと電気が点る。
眩しさに目が眩むが、少し経つとそれも慣れ、やがては完全に視界が利くようになった。
そして、見つけた。
獣だ。
夢と同じ獣がそこには居た。
獣が唸り声を上げているのだ。
ごくりと喉が鳴り、これは何の冗談なのだとユニは否定の言葉を必死に頭の中で探す。何故ここに夢の中に居た、見たことのない生き物が実在しているのかと疑問でいっぱいになる。
ユニの視線に気がついたのだろう。獣はじっとこちらを見ている。
だが、その瞳に悪意も敵意もない。ただ、こちらをじっと、何かを訴えかけるかのように見ているだけだ。
急に、その生き物が憐れに感じられた。
四方を檻に囲まれ、周囲には沢山の機材が点在しているそこはまさに科学室。動物園で見かけるような檻ではなく、入れたモルモットを逃がさんと言わんばかり鉄が太さを誇張している。
鴉戯が言っていたように、これでは実験場だ。誰がどう見ても、実験をやっているとしか思えない。
見ると、獣は彼方此方に傷を負っている。自身でぶつけたのか、額が特に酷く血に濡れていた。それだけではなく、四肢についているのは捕獲時か実験の段階で傷を負ったのか、とにかく酷いありさまだった。
こぽこぽと泡が立ち昇る水槽の中には、臓器だと明らかに解るものが浮いている。
えぐい、という言葉を通り越して信じられない。確かに優しいとは言い難いかもしれないが、それでも真面目な良い人であった恵の両親がそんなことをやっているかもしれないという事実を。
ぐるぐると獣は唸る。
『どうしてここに来た』
そう言っているような気がした。漠然とではあるが、確かにユニにはその言葉が伝わってきた。
檻の前に腰を下ろし、じっとその瞳を見つめる。
不思議な色を孕んだ瞳だ。光と角度によってまるで色が違う。
「まぁ、色々とあって」
何故こんなことを言っているのだろうとユニは内心では思うが、犬猫に話しかけるのと同じようなものだと気がついた。
「貴方はどうしてこんなところに居るの?」
獣は唸る。力なく伏せている姿は、大型の肉食動物が疲れきっているのを連想させた。
『愚問だな』
「まぁ、それもそうだよね。捕まったんだから」
『あぁ、それよりも主は良いのか、こんな所に居て』
「ばれたらきっと怒られるだろうね。寧ろ、捨てられるかな? けど、一応は高校生だしどうとでもなるようになると思う。学校は辞めなきゃだけど、選り好みしなければ働こうと思えばそれなりにできる歳だし」
『主までそんなところに通っているとは、滑稽だ』
「そう言わないでよ。世知辛い世の中なんだから、高校くらい出ておかないと仕事に就けないもの」
『そんなものに就いてどうなる。やりたいことでもあるのか?』
「うーん、どうなんだろうね。大抵の人はやりたいこととか目的なんかなく生きているし、わたしだってその口だわ。流されているっていうのが一番なのかもしれない。けど、遅れたくないから周囲に合わせるのは人間としての真理じゃないかしら」
『人間ねぇ、人間』
ふんと獣は鼻で笑った。
「貴方は人間が嫌いなの?」
『……あぁ、大嫌いだ』
「それもそうか。こんな目に合されて好きでいられるわけないか」
『主はどうなんだ?』
「私?」
『そう、主も同じように人間に酷い目に合されているのだとしたらどう思う?』
「どう、なんだろ? 経験がないから特には。けど、多分、赦せないんじゃないかなぁ」
『そうであろう』
不思議と、目の前の存在を怖いとは思えなかった。寧ろ、あの図書館の賢者の方がそういう意味では怖い。あれには絶対的な恐怖を感じた。見た目は人間でありながら、全く違う何かであった。そう、ただただ怖いのだ。純粋なまでの力の差を感じて。
「待っていて。開けられないか探してみるから」
ユニは立ち上がった。この獣はここに居てはいけない、そんな感じがしたのだ。
『無駄だ。ここは全てそこのコンピュータで制御されている』
「あぁ、あれね」
少し離れた所に、大きなコンピュータが複数台ある。そこにはこの部屋全てのランケーブルが繋がれていているようだ。
机の上に雑然と並べられているそれを覗いてみるが、授業以外で普段あまり触れたことがないだけに理解不能だ。どこを弄れば良いのか判断がつかない。
「わたしにはちょっと難しそう」
『だから言っただろ』
それよりだったら、と獣は催促する。
『背後にある角を取れ。そうすればここの機能は停止する』
ケーブルを辿っていけば、大本のコンピュータから繋がっているものがある。
角が電気を纏ってそこに入っていた。
ガラスの中、角が音を立てて光り輝いている。
手の甲で叩いてみれば、コンコンと音が響く。厚みもそうだが、材質自体も通常のものよりもうんと堅い。これはショーウィンドウなんかに使われるちゃちなものではなく、紛れもなく拳銃だって防ぐことのできる類のものだ。そんなケースの中に根元から切り取られた角が入っている。
そして気がついた。
そう、これは夢の中で生えていたユニの角だ。
「これは……」
『雷獣の角だ』
「雷獣?」
『我々の総称だ。そして、その角は我々の中の異端にして亜種の持っていたものだ』
「亜種?」
首を傾げると、背後で頷く気配がある。
『通常我々には角など生えていない。だが、そいつは生まれつき一本の角を生やしていた。その角は常に電気を纏い、そいつは誰よりも大きな雷を呼ぶことができた』
「えっと、避雷針ってこと?」
『まぁ、そのようなものだ。そして今から数十年前、そいつはある人間に現を抜かし囚われた、それだけだ。だからその角は切り取られ、人間如きに利用されているというわけだ』
ずきりと頭が痛む。割れるように痛い。
獣が吠えた。
『さぁ、その角を取れ』
その剣幕に驚くものの、ユニは首を振る。
「無理だよ」
どう考えても、ユニの力でこれを取るのは無理だ。こんなに厳重にされては、手が届きそうで届かない。
『獣の本能を忘れたと言うのか』
「獣と言ったって……」
そんなものあるわけないでしょうと言いたいのをぐっと堪えた。獣のこの言い分では、ユニのことを仲間だと言っているようにさえ聞こえる。
『さぁ』
と獣は更に促した。
「あぁ、もうっ」
なるようになれとはこのことだ。
ケースに繋がれたケーブルを勢いよく引き抜くと、そのままそれを投げつけた。
大きな音を立てて床とぶつかるものの、ケースには微かに傷が付いただけだった。その素材の強さには脱帽ものである。
「ほら、無理なんだよ」
『無理ではない』
そう言うと、獣は宙に向かって吠えた。
途端、全身が音を立てて光りだす。
あの角と同じだ。雷を纏っているのだ。
驚きに目を見張ると、全身から放たれた雷がこちらに向かってくる。
綺麗、素直にそう思った。
雷が振って来る瞬間の暗雲が切り裂かれる瞬間が脳裏を過る。その、天を裂く瞬間がユニはとても好きなのだ。
そして、そのまま雷はケースの上に落ちた。
割れる音が聞こえた。
陶器やガラスのものを落として割った時に聞こえる、あの独特な音だった。
『この類ものは、中からの衝撃には強いが外からの衝撃には弱い。そもそも、中に入っているものは既に持ち主の手を離れて力を十分に持っていないのだ。それを上回ることなど容易いこと。人間とは無知だな。そういうことすら想定できないなど』
満身創痍の風体で獣は膝を付いた。
身体が崩れ落ち、全身で床とぶつかる。
「大丈夫?」
駆け寄ろうとするが、一啼きでそれを制された。
『我に構うな、角を取れ』
その角は、あれだけの電気を受けて尚そこに点在している。否、寧ろ先程よりも輝きを増しているように思えた。
取れと言われても、バチバチと信じられない音を立てて光るそれは、素手で掴めばどうなるかなど火を見るよりも明らかだ。実際に見たことはないが、この世界には熊さえも倒せるスタンガンが存在するという。それと同レベルかそれ以上か、目の前の角は電圧が半端でない。
昔から雷は好きだったが、それでもこれは手を出すのを躊躇してしまう。だが、無理もないだろう。見るのと実際にやるのはまるで違うのだ。
触れるか触れないかの微妙な空間で手を出し兼ねていると、雷を恐れるなと言った鴉戯の言葉を思い出した。
自分自身に折り合いを付けるように頷くと、その角を掴んだ。
何かが弾けた。
頭の中を映像が過る。今見てきたかのように鮮明で、懐かしい感じがした。
全ての記憶が蘇った。
否、全ての記憶を取り戻したのだ。