⑩
「これで宜しかったのしょうか」
ユニが退出し、二人きりになった部屋の中でこれまで沈黙を貫いてきた鬼緒がぽつりと零した。
「不満かい?」
先程とは一転し、子供じみた仕草で鴉戯は唇を尖らす。それを見た鬼緒はゆるりと首を振った。
「いえ、まさか。わたくしが勝手にしでかしたことですのに、取り合って下さって、本当に感謝しております」
「なら、何故そんな顔をする? もしや、私のことが疎くなったのではあるまいな?」
悪戯っぽく口元で笑まれ、鬼緒は「まさか」と笑む。
「わたくしはわたくしの為だけに貴方に尽くすと決めたのです。それが変わることは永遠にあり得ません。わたくしが唯一断言することのできる普遍であり、絶対、それがこのことなのです」
ですから、貴方に何ら不満を抱くことなどは絶対にあり得ませんと真顔で続けられれば、これはもう完璧な殺し文句である。女性であれば、確実にこの言葉で堕ちていること請け合いだ。
事実、この青年は主人の為には言葉を惜しまない。平気でくさい台詞を口にする。そんな青年がどうして目の前の絶対的存在を前に陰った表情をしようものだろうか。
「ただ、わたくしは心配なだけなのです。貴方はとても優しい。ですから、それを他の方に誤解されるのはとても気分が悪いのです。しかし、そういう貴方の面を知っているのはわたくしだけで良いと思ってもしまって、本当にもう、わたくしは心が狭いですね」
ほうと吐き出される息は妙に艶やかだ。困っているというよりも、自身に対する呆れが先立っている。
それが解っているのだろう。ふむと呟くと、鴉戯は顎に扇子の先を当てる。
「何を言っているのだか」
その声はあくまでも優しい。信頼感というよりも、年長者の経験則から出ているもののようだ。それだけの長い月日を二人は、否、二人で過ごしているのだ。それはもう、人間などが想像することなどできないほどの悠久にまで近い時間帯を。
「心が狭くて当然、だろう? 寧ろ君は心が広い。それも、お人よしなまでに。故に、君は君の種族を追放されたのだろう? もっと君は我儘なくらいで丁度良い」
但し、私を甘やかすのは止めないでくれと鴉戯までも続けるものだから、傍から見ている者が居たとしたら「もう勝手にしてくれ」と怒鳴りたくもなるだろう。
ふふふと鴉戯は笑んだ。
真珠を連想させる、滑らかで完璧なまでの歯並びが露わになる。
「私にしてみれば珍しいがね。こんなに心の広い鬼というものも。物語やお伽噺のようにフィクションの世界でもあるまいし」
「わたくしは別に心など広くはありません。鬼、の心が広いわけありませんよ」
そうか、と意外にもあっさりと頷く。
「何事にも例外、というものはつきものだ。なら、君の心の広さは鬼にとっては例外というものなのだろう」
「そういうものなのでしょうか?」
「あぁ、そういうものさ」
自信満々に断言され、鬼緒は柔らかく笑んだ。もう、貴方には敵いませんねと言いながら。
「さて、それで、もう一つの例外はどっちに転がるのやら」
鴉戯は宙を見据える。
その瞳は何処か遠くを見つめている。
ここではないどこかを既に見ている。
「鬼緒、茶を淹れておくれ。茶菓子も忘れずにな」
はいと返事をし、鬼緒は注文されたものを取りに部屋を出ていく。
一人、自身の空間に残されてぽつりと呟く。
真実を知った時、果たしてあの娘はそのままの存在で居られるのだろうか、と。
やがてお茶と茶菓子が乗った盆を持った鬼緒が現れた。
紙だけの臭いの中、新たな匂いが広がる。
「良い香りだな」
「新茶ですから。きっと、お気に召しますよ」
あぁ……と、目の前の初めて見せてくれて以来変わらない穏やかな笑顔に頷く。
「では、一緒に待とうではないか。これから先の行く末を。どちらに行きつくのも、また一興」