第2話:暗雲、そして霹靂。そのあとに姿をみせる青い空。感情の溢れる場所には、天気予報がない。
俺は、こんなにも放課後になるのが不安だったことがない。
放課後、それは生徒や学生にとって自由になれる特別な時間。
…の、ハズなのだが。
「さぁて!荷物も纏めたことだし、善は急げってんだ!」
「お、おい、流市。もう一度聞くが、ガチなんだな?」
石川 参巻の腐れ縁にして親友である片縁 流市の、おそらく今までの人生で最大のイベントが訪れようとしていた。
「なら聞くが、お前は迷ったか?楠町さん家に初めて行った時」
「それは…」
言い返されると答えられなくなってしまう。
その方面では大幅に常軌を逸していた為だろう。
分かってはいたハズなのに、あの時は考えるより先に行動していた。
…うぅむ、確かによく考えるまでもなく、どうも俺はこの手の状況になると制御が出来ていなかったように思う。
「そういうことだよ。俺だって楠町さん家に泊まる権利はあるハズだ」
「そんな権利は誰にもねぇよ」
思わずつっこんでしまったが、全く同じ言葉が自分の脳天にも突き刺さる。
そして…、
「さぁ!着いたぞ!」
「来てしまった…」
俺からしてみればもう実家のような安心感漂う、楠町家の表札前へとやって来てしまった。
だが、正直、今の俺にはとても簡単にまたぐことのできる敷居ではない。
…果たして、ひよこさんはどんな顔をするのだろうか。
ふと、ひよこさん、つまり瀬栾のご両親のことを思い出した俺の脳裏に、恐ろしい想像が浮かび上がる。
それは、
「よぉ、今帰りか、坊主」
「…っ!は、はい!」
「ん?おい参巻、この人は?」
「あ、あぁ、えぇと、その…。瀬…、いや、楠町さんの、お、お義父様…です」
「なっ!こ、これは失礼致しました!楠町さんのお父様でしたか!」
「おう、君は初めましてだな。瀬栾の友達かい?」
「あ、はい!そうです!」
「そうかそうか。友達か。これからもよくしてやってくれ。…ところで坊主。ちょいと俺と話しでもしようじゃないか」
……。
ま、マジかよ…。
何故か流市の大荷物に関してはスルーだった。
「あの!俺…、あ、いえ、僕、ここに暫く住みたいんですが!」
うぉぉい!?
直球すぎやしないか!?
流石にそれは無…
「あぁ。そういうことか。それなら二階の空いてる好きな部屋を使うといい」
「!?…あ、ありがとう、ございます…?」
「おう」
!?
!?!?
!?!?!?
この家のシステムどうなってんの!?
流市も流石に驚いてるし…。
驚きながらも、流市はインターホンのボタンを押した。
その呼び鈴と同時に、お義父様の視線は俺を捉え、左手の親指だけを立て、向こうで話そうじゃないかと近くにある公園の方向を指し示した。
…生きて帰れますように…。
爆発するんじゃないかというくらいの勢いで、全身から冷や汗。
俺は祈りながら、誘いを受けるしかなかった。
俺とお義父様が歩き始めた直後、玄関のドアからはひよこさんの姿が。
「あら、いらっしゃい。ええと?」
一旦出迎えてから素性を訪ねるというセキュリティのカケラもないような挨拶だったが、そこがひよこさんらしいなと思う。
…。
ひよこさんが一瞬こちらにウインクしたように見えたが…、気のせいだったのかもしれない。
俺とお義父様は、やはり近くの公園へとやって来た。
そういえば、アリスさんとの出会いもここだったなぁと、思い出が小さく主張する。
「まぁ…、座ろうか」
ベンチの一つを指差され、従うようにそこへ座る。
二人して並んで座り、たった三秒間、いつもならあっという間に過ぎる時間が流れる。
そして、お義父様が発言した。
「…ありがとうな、参巻くん」
「……えっ」
あまりにも不意な、かつ想像だにしなかった言葉に、心臓が止まるんじゃないだろうかというくらいに驚く。
「瀬栾の…、あいつの理想を叶えてやってくれたんだろう?」
瀬栾の、理想。
今まで自分の理想を追い求めるばかりで、瀬栾の理想に何一つ気付けていなかったことに、後悔と情けなさを思い知る。
しかしながら、その理想を何故か叶えたことになっていて。
開口一番の感謝ファーストインパクトで言葉を詰まらせた俺は、初弾の装填をすることすら許されず、お義父様のターンが繰り返される。
「正直なところを言うと、初めは追い出してやろうと思っていたさ」
少し微笑みを浮かべた表情で、一家の大黒柱としては当然であり、参巻にとっては恐ろしい一言が放たれる。
「だけどな…。瀬栾が、瀬栾があんなに嬉しそうな顔しているのは、やっぱり俺も嬉しくてな」
子を持つ親の、至極真っ当な感情。
簡単な理屈なのに、しっかりと重みのあるその感情は、まだ高校生の俺の心にも響くものがあった。
「…あ、あの!」
「いいさ、言わなくても」
しかしその理想を壊してしまったのもまた事実であり、理想は理想なのだと、瀬栾に叩きつけてしまったような罪悪感が、俺の胸に渦巻く。
「知ってるぞ、別れたんだってな」
お年頃の娘の父親としては珍しく、娘の恋愛事情にやけに詳しい。
瀬栾が別れたことをそんなに言いたがるとも思えない…いや、そうか。
寧ろ『何も言わなくなった』から、そう察したのか。
「……はい」
空返事が文字通り空へと消える。
どうやら天気予報は当たっているらしく、午前中の雨だけでなく夕方にも暗雲が近づいて来ていた。
「別れて、くれたんだろう?」
刹那、俺の心が跳ね上がった。
何故。
どうして。
この人は一体どうやって。
「…それは」
言葉が出てこない。
しかし今のお義父さんは勢いを敢えて制御し、俺の言葉を待っていた。
言わなければ。
ここではっきりと。
「それは、違います」
「ほぅ」
あたかも想定内の回答であったかのように相槌を打たれてしまった。
でも、言わなきゃ。
ここではっきりと宣言しておかなければならないことがある。
「俺は、気付いたんです。『憧れ』は『好き』に勝てない」
「……」
砂場のあたりから、小さな粒を纏った風が足元をくすぐる。
時計の針はそろそろ17:30を差そうとしてた。
「だから、違うんです。…これは、瀬栾のためじゃない。俺が、自分の理想の為に決めたことなんです」
言い切った。
しかしどうだろう。
言い切ってしまうと、不思議と体が軽くなったような気分に包まれた。
「そうか」
コーラスならバスパート以外は担当出来ないであろう、ずっしりとした響きのある重低音が、俺の決意を飲み込む。
「…気に入った」
「はいっ?」
え?
今、何と?
「気に入ったぞ、少年!」
言いながらバンバン背中を叩いてくるワイシャツスラックスの少女の父親。
よく見てみれば、服装からして会社帰りのサラリーマン。それにしては帰宅が早すぎるような気はしたが…、それよりも色々なインパクトが強すぎて、言葉というものの表現に限界があることを知る。
「今の時代にもいるんだなぁ。その意思の強さやよし!」
この公園へ到着した時とは全くの別人だった。
今は威圧による怖さより、高揚感溢れた、ただただ良い表情で背中を叩きつけてくることによる痛みの方が勝っている。
「す、すみません、痛い、いッ!痛いです!」
「おぉ、これはすまんな」
「い、いえ…」
青天の霹靂のようではあるが、雰囲気的にも話しやすくもなったところで。
「あら〜、丁度よかったかしら、洋一さん」
公園の入り口付近から聞き慣れた声が届いた。
視線をそちらへ向けると、やはりそこにはひよこさん…と、何故かひよこさんと手を繋いでいる露葉と。
そして、見慣れた制服の少女が母親に隠れるように一人。
「これは…?」
「あらら、もしかしてお話、まだしてないの?」
「ん?あぁ、そうだったな。これからだ」
元カノとなった少女の両親の会話を、何の変哲もない公園で聞くことになろうとは…。
世の中、本当に何が起きるか分かったもんじゃない。
「それなら、私、言ってみたいわ〜」
「そうか。いいぞ、認めてやることにしたわけだし」
認める…?
「ほらね、瀬栾。お父さん、お話すればちゃーんと分かってくれるでしょう?」
「…そ、そうね…」
!!
瀬栾が、猫モード!?
俺は瀬栾の声音と行動が、二人きりでもないのにツンとしていることに酷く驚いた。
そんな俺の驚きはよそに、ひよこさんはただ一言、一言だけ、俺に向かってこう言った。
「楠町シェアハウスへ、ようこそ〜♪」
ほへ?
しぇあはうす?
「一体どうなってしまったのだろうかこの世界は」
「おーい参巻、それは地の文じゃないのかな、普通」
「うぉ!?」
どうやら混乱が激しいせいで普段は自分の中に閉じ込めていた言葉共が一斉に音声を獲得してしまっていた。
しかもそれをよりによって露葉に指摘されるとは…。
「ね、参巻、もう一回、一緒に瀬栾ちゃん家で生活しようよ!」
この娘、自分が何を言っているのか本当に分かっているのだろうか。
ただのお泊まりとは訳が違うと思うのだが…、それとも女の子ってそういうのは当たり前なのだろうか…?
いや待て、だとしても、だ。
仮に、百歩譲ったとして、女子…露葉にとっては受け入れやすいことなのかもしれないが、俺はどうなのだ!?
確かに俺は一昨日まで当然のように住んでいた。
だけれどもよく考えればそれは
「さ、サンサロール様は、やっぱり…」
!?
今度はしっかり者モード!?
…あ、あぁ。
そうか。
瀬栾は、不安なのか。
だから、不安定なのかもしれない。
「……」
「少年。このタイミングで一つ、俺からも言っておかなきゃならんことがあってな」
時の満ち潮を待っていたお義父様が、ここぞとばかりにドヤ顔で発言する。
「な、何でしょう、か…?」
「すまないな」
「えっ」
謝られた。
しかもとてもいい顔だ。
「もう、話はつけてあるんだな、コレが」
「……?」
何かを先回りして話をつけられていたらしい。
…ここで、俺は咄嗟にひよこさんに焦点を合わせる。
「あら〜」
ふわりとした微笑みで放たれる前の言葉を弾き返されてしまった。
まさか。
「おかえり、石川 参巻少年!」
初めから選択肢などなかったのだった。
…というより、振り返ってみれば、『シェアハウスへようこそ』の時点で実家への帰路などなくなっていた。
「にゃおぉん!?お兄様が、またあのあれにあーなりますって!?」
ショックのあまり語彙力を失った我が妹、穂美は携帯の向こう側で叫んでいた。
「お兄様!お兄様はそれでよろしいのですか!?」
「いや、良いかどうかはちょっとまだ分からんが…。何故か露葉も当然のごとくいるし、何より半分強制…あぁいや、許可して頂いた(?)わけだし…」
「そんなッ…!」
通話越しでも聞こえるガタンという膝から崩れ落ちる音がした。
「お、おい穂美、大丈夫か」
「…よかろう…」
「!?」
!?
え、何、誰!?
「…ふふふ…ふはははは!そうじゃの…、とくと愉しむがよい…」
「あ、あのー…?」
「はッ!ち、違いますのお兄様!これはその違」
ここで通話は途切れてしまった。
……。
穂美にあまり心配はかけない方がいいような気がした。
…というより、殺気を感じた。
あいつあんな怖いやつだったっけ!?
どことなくうちの母親のキレ方と似ていて少し鳥肌が立つ。
「さ、サンサロール様…?」
消え入るような声の先には、やはりひよこさんに隠れている瀬栾がいた。
恥ずかしい、というよりは恐怖に近いものを俺に覚えているような隠れ方。
「瀬栾…」
不思議なものだ。
恋仲でなくなった途端、『元』の称号と共に距離まで生まれてしまう。
元々は赤の他人のハズなのに、好きになってしまえばしまうほど、別れた時にそうでない人よりも距離が空いてしまう。
当然のように見下ろしていたこの摂理が、今の俺たちには深く沁みる。
「なぁ、瀬栾」
「は、はいっ!」
「そんなに気を張らなくてもいい…いや、まぁそれもそうか」
「……」
「……」
「あたし、どうしたんだろう…」
「?」
「目の前にサンサロール様がいるのに」
「……」
やはりどうも空気が重い。
ひよこさんは俺たちの空気を悟ってか、お義父さんと露葉を連れて先に帰路についてくれた。どう見ても両親と娘にしか見えないが…、今はそれにどうこう言う余裕はなかった。
残るは俺と瀬栾の二人しかいない。
「そういえば、さ」
「は、はい!」
「……この公園、結構近くなったよな」
「……」
俺が言うと、瀬栾は俯く。
あぁ、まただ。
またやってしまった。
「それに最近は、陽が落ちるのも、そんなに嫌じゃなくなった」
「…それは、あ、あたしも…」
夜になっても、寂しいと感じることが少なくなっていた。
「俺たち、やっぱり似てるんだな」
俺は、目の前にいる少女にある種の敬意を払いつつ、この場で出来る最大限の配慮をもって、努力した笑顔を見せる。
「っ!…そ、そうね」
元カノは、俺の笑顔が偽物だと分かっているハズなのに、それに応えようと全力の回答と作り笑みを浮かべた。
その笑顔は、今までの俺の人生の中では見たことがないジャンルの哀しさを思わせる一方で、深層では折れきっていない心の核を垣間見せていた。
「あら、おかえりなさい」
楠町家に帰るや否や、颯爽と出迎えてくれたひよこさん。
俺と瀬栾の間に空いている物理的な距離を見、少しだけ哀しい目をした。
「瀬栾、おかえり」
「……」
少女は答えない。
だから、だからこそ。
この空気に沈むのは、それこそ敗北だと思うからこそ。
「た…」
俺は少女の分まで大きな声で。
細く堅い糸を断ち切るように。
「ただいま!!」
刹那。
少女は泣いていた。
涙が制御できなくなっていた。
自らの弱さを悔やむ少女は、思いっきり声を上げていた。
それはもう大きな声だった。
「…鳴かない小鳥は上手く飛べない」
突然の聞き覚えのある声に反応する。
そこには軽く制服を着崩した流市の姿があった。
「鳴かない小鳥、か」
整った顔立ちが台無しになるほどに泣き続ける小鳥。
そんな姿を見て、飛べないことを受け入れた『ひよこ』は彼女に近づく。
「あなたは、大丈夫」
母の言葉より説得力のあるものはない。
瀬栾は少しずつ呼吸を深くしていく。
そして…
何かに縋っていた小鳥は、大空を舞う決意をした。
「…さ、サンサロール様!」
「おぉう!?」
「お、おかえりなさい!!」
「…あぁ、ただいま!」
二度目であり、初めての「ただいま」。
過去と今からとを隔てる覚悟を込めて。
かくして、俺はまた、この家に厄介になることになった。
若干人間が増えた気もするが、シェアハウスだから問題ないのだろう。
…よく考えれば問題しかないが、それはつまり考えた時点で負けなのだろう。
言葉を選ばずに直球で表現すれば『吹っ切れた』瀬栾は、ひよこさんと一緒に夕食の準備を進めていた。
露葉も手伝ってはいるが、一挙手一投足すべての行動に皿を落とすだの飲み物をこぼしかけるだのアクシデントを伴っている。
驚くべきは、そのアクシデントをまるで予知しているかのようにリカバリーするひよこさんだ。
「つゆちゃん、ちょっと、お天気観ててくれるかしら?」
「はーい!明日の天気予報〜♪」
あ、戦力外通告。
しかし本人にその本意は全く通じていないようだ。
優しい世界もあるもんだなぁ。
「なぁ、我が親友よ」
「ん、どうした俺の眷属よ」
「…もう、大丈夫なんだな」
「あぁ。ま、おかげさまでな」
流市はやはりいいやつだと思う。
この適度な距離感が、俺と流市が友である所以を示唆している。
「さて、それじゃあ行くか」
流市はリビングルームの中央に位置するソファから立ち上がる。
「どこに行くんだ?」
「あ?んなの決まってんだろ、風呂場だよ」
テレビ鑑賞に適度な位置の壁際から、俺は勢いよく立ち上がる。
「それじゃ」
「『それじゃ』じゃねぇよ!行かせねーぞ」
そう。
先ほどから姿の見えないみんなのアイドルが、現在絶賛あわあわお風呂タイム中なのだ。
ついさっきまで気障でイイやつだったのになぁ!
だがコレが彼である。
「いいか参巻!こんな機会はそうそう訪れない!」
「毎日訪れるぞ」
「…!だ、だがしかし、今が絶好のチャンスなんだ!」
「そんなチャンスは今日もこの先もねーよ」
「……!?なんと!何故分かってくれない!?」
いや俺も分からないわけじゃないのよ流市くん。
だけどね、こればっかりはどうにも出来ないんですわ。
理性をもっと保って、保てないなら鍛えるしかないんですよ。
「残念だが流市、ここにいるからといって、そういうのは期待しない方がいいぞ」
「!?」
酷く驚いた様子の流市。
俺が言えたもんでもないが、守るべき少女であることに変わりはない。
俺の場合は不可抗力だし、し、仕方なかったんだよ!
…ほ、本当だって!
「俺は…、シャワーを浴びることが…出来ない、だと…!?」
「そうだ。お前はシャワーを…ん?」
何か噛み合わない。
「ハッ!ま、まさか参巻、お前も今まで!?」
「え、ちょ、ちょっと待て」
「き、着替えなら持って来ている!…!!た、タオルが…ない!?…参巻、も、もしかしてお前、俺に恥をかかせまいとして…?今日ほど体力を使ったことはないからな…、きっと今日のシャワーはいつも以上に疲れが取れ、最高だろうなと思ったんだが…!」
ここで理解した。
流市はアリスさんのことをすっかり忘れているらしい。
そういえば今日はここで一度も顔を合わせていない。
きっと部屋で過ごしてそのままお風呂に入っているのだろう。
「り、流市、一旦落ち着け、な?落ち着こう」
「だが参巻お前ってやつは本当に気が利くやつだなぁ!俺の舞い上がりを抑え、かつ近未来の俺を救うとは…!」
「あ、いや、俺はただ」
「あぁ分かっているさ!それでこそ我が親友だ!友の恋路に手を差し伸べるとは…、流石だぜ」
ガチャリ。
リビングルームの扉が開く音がした。
今この部屋にいないのはお義父さんとアリスさんのみ。
つまりどちらかが入って来たことになる。
「……?」
最近のAR技術は本当に凄い。視界一面に可憐な花が咲き誇っているではないか!
…とでも表現したくなるようなふわふわ可愛いパジャマ美少女が現れた。
ほんのりと朱に染まる頬、またシャンプーの匂いが、お風呂上がりであることを浮き彫りにする。
「あ、アリスさん…。た、ただいま?」
「はーい、おかえりなさい」
俺だけならいつも通りな感じだが、今日は違う。
「……!?………!?」
言葉を失っている男子生徒が約1名。
「一応、お前のことだし、覚えてはいたと思ってたんだが」
そう俺が言うと、すかさずアリスさんが流市へダイレクトアタックをかます。
「…おかえり?」
小首を傾げて攻撃を放つアリスさん。
角度をつけると同時に金の美しい髪が揺れ、その隙間を縫って乾き切らない空気がどこからともなく俺らを襲う。
そしてさらに、学校ではまず確実に見られないであろうアリスさんの姿。
普通の男子高校生には流石に耐えられなかったらしい。
ん!?
ちょっと待てそれだと俺は普通ではないことに
流市はその尊さのあまり気絶した。
…なんか遮られたような感覚があるが…、まぁいい。
え?
普通の男子高校生は同級生の女子の家に住まない?
……。
ですよねー…。
「あーっ!アリスまたつゆのシャンプー使ったでしょ」
「つゆちゃん、いいにおい」
「ダメよ、これは参巻のために結構高いの選んでるんだから」
「ん、ダーリン、どう?」
ここで巻き込まれるのか。
まったく、コメントをミスればゴートゥヘルなタイミングだぜ…。
俺は床に横たわる少年を転がして壁際へ運びながら答える。
「そ、そうだな、悪くないんじゃないか?」
パリィンッ!
キッチンの方からガラス系の衝撃音。
発音の信源へと目をやると、珍しく瀬栾がコップを落としていた。
「お、おい大丈夫か瀬栾!?」
「あ、ああぁあたしったらなんてことを!」
瀬栾はそう言って慌ててはいるが両手は髪を左右から押さえたまま離そうとしない。
「怪我はないか?」
「さ、さささサンサロール様は来ちゃダメです!」
「ダメったって…」
「はーい、慌てなーい。そのコップもう古いの〜。大丈夫よー」
流石の包容力。
母親という存在はやはり人類最強だ。
「ち、違っ!あたし、そうじゃなくてっ!」
「あら〜、瀬栾、そういえばちょっと汗かいちゃったんじゃないかしらー?」
「…っ!?」
ガチャン!
瀬栾は光のような速さでキッチンから飛び出し、リビングルームを一瞥することもなくドアを通過した。
「あら?まぁ!みんな、ちょーっと待っててね〜」
と、今度はひよこさんがキッチンを後にした。
「…つゆ、悪いことしちゃった?」
「い、いや…、今回は特に悪くないんじゃないか?」
「『今回は』って何よ!つゆはいつもいい子じゃない!」
「えぇ…」
「失礼しちゃうわ、ねぇアリス?」
「ありす、わるいこ?」
「とんでもない!アリスさんはいつもいい子だよ」
「ちょっ!アリスに優しすぎない!?」
「つゆちゃんも、いいこよ?」
「なッ!アリスのバカぁーッ!!」
バタン!
今度は露葉がドアの向こうへ行ってしまった。
…が、しかし数秒後にひよこさんに連れられて帰って来た。
「ダメよ〜、つゆちゃんいじめちゃ」
「お、俺じゃないですって」
「ふふ、冗談よ〜」
「〜♪」
いつの間に移動したのか、アリスさんはひよこさんに撫でられている。
そのひよこさんの左手の人差し指には、絆創膏が貼られていた。
「ひよこさん、手伝います」
「……あら、いいの?」
ひよこさんは少し何かを考えたようだったが、すぐに手伝いを受け入れてくれた。
「あの子、やっぱりわたしに似たのねぇ」
呟かれた小さな声が俺に聞こえることはなかった。
「ところでひよこさん、今日は何を作ってらしたんです?」
「まぁ!忘れてたわ〜。シチューの火、止めないとねぇ」
「シチューですか」
「そうなの〜、甘ぁくて美味しいシチューよ〜」
この家の食文化は甘すぎないだろうかと思っていた時期が俺にもありました(慣れた)。
しかしながら栄養は考えられていて、かつ甘みも糖分は普通のものより低めらしい…。
体に優しい甘さだそうだ。
あぁ、そういえば昨日の実家の唐揚げはちょい塩辛かったな(甘党的意見)…。
「さぁて、火を止めて、出来たわー」
「おぉ!」
思わず声が上がってしまった。
これは確かに美味しくないわけがない!と、匂いがそう訴えている。
うーん、このなんとも言えないフローラルな…フローラル!?
鼻腔をくすぐる匂いが急にベクトルを変えた。
「……ふ、ふぅ〜、い、いいお湯だったわー…」
お風呂上がりの瀬栾が背後に立っていた。
早すぎるだろ!?と言いたいが、それ以上に気になるのは、
「あれ、この匂い、どこかで…」
「あーっ!!瀬栾ちゃんも!?」
やはりそうか。
どうやら瀬栾も露葉のお高いシャンプーとやらを使ったらしい。
うーむ、女性にとって高いものを身に付けるのは本能的なステータスだったりするんだろうか。
「さ、サンサロール様…、あああ、あたし、ほら!け、けがっ!してない!してないですよっ!ほらっ!」
「お、おおぅ!?そ、そうみたいだな、よ、よかった」
「は、はいっ!よかったです!」
?
何故瀬栾は指を見せる度に髪を掻き分けるのだろうか。
「まぁその、あれだ、怪我がなくてよかった」
「……。は、はい…」
あれ、今度はテンションが急に下がってしまった。
とあるゲームジャンルの世界だったら、これは選択肢を間違えたとでも言うべきか。
「参巻、ちょっとそれはかわいそう…」
「な、何がだよ!?」
「ダーリン、ほめてあげて?」
「アリスさんまで!?」
気絶したまま動かない流市からさえも、何か言いたげな雰囲気を感じた。
この状況で何と声をかけるべきか、これまでの記憶を頼りに考え、そして迷った果てに。
「…瀬栾も、甘そうだな」
なぁにを言ってるんだ俺はぁぁぁああああ!?
よりにもよって、ここで!!
お義母様が見ていらっしゃる前で!!
ほら!見てみろ瀬栾の顔をよぉ!!
ちょっと引いて…
パァァアアアっ!
いいのかよ!?
それでいいのか瀬栾!?
…ぽっ
ひよこさん!?
何故あなたも頬を染めるのです!?
パタン。
ドアの向こうに…お、お義父様ァァァァアアア!?
いえ違うんですこれはそのちょっとした言葉のミスというかなんというか
「参巻、それはないわ」
ぐはぁっ!
露葉にトドメを刺されるとは…思いませんでした。
「ありす、おいしいよ?」
…食べないですッ!!
「サンサロールくんー、わたしの娘、きっと甘いわよ〜」
「あ、あたし!甘くなんか!ない、よ…?けど、その…、いいよ?」
何がいいのか分からな…いや待って本当待ってこのいいよは理解してはいけないんです俺は全力で断らねばならないのですあぁそんなに悲しい顔しないで瀬栾そして露葉は笑顔で割れたコップを持つのやめようね危ないよ露葉も俺もあとアリスさん腕噛むのやめあぁ甘噛みかぁもう可愛いなぁってこれもうどうすりゃいいんだよ!?
「ん…、どうやらしばらく寝てたみたいだな…。……あぁ、なんだ、まだ夢見てんのかおやすみ」
この場で唯一の救世主かと思われた流市少年は気絶から眠りへとついた。
このあと、「つゆも甘くなるっ!」とシチューを頬張ったり、「ありすの、おいしい?」と俺にどうしても食べさせようと頑張ったり、「今日のシチュー、いつもより甘いっ!甘い〜っ!」と感極まっていたり、「お前今までこんな絶品料理を食ってたのかよおかわりっ!」とひよこさんを喜ばせたりして、夕食の時間はそれはもう賑やかに過ぎていった。
お義父様も、困り顔だった食事前とは打って変わり、一口頬張った瞬間から「あぁ、ひよこさんはこの笑顔に惹かれたんだろうなぁ」と感じる表情を見せていた。
世界一という概念が何を基準にしたものなのか、それは分からないが、少なくとも俺にとっては、この時が世界で一番好きだと言える。
「ダーリン、はい、あーん」
「アリスさん、それに応じてしまうと俺の身に危険がね」
「おいしいよ?」
「あ、うん、そうだね、美味しいね。そうじゃなくて」
「まったくアリスはお子様ね、参巻にあーんなんて百光年早いわ」
露葉よ光年は距離だがそれでいいのか。
「サンサロール…!?」
「ん?…あ」
あまりにも楽しくて玄関のドアが開く音を聞き逃していたらしい。
部活帰りの鶸ちゃんがリビングルームに入って来ていた。
中学生の部活に休日はないらしい。たしか穂美も都涼祭の日以外に休みはないとか言ってた気がする。
貴重な休みを兄に充てるとはなんという…うぉっと危ねぇ!
穂美にだけはそういう感情は抱かない方がいい!曲解の挙句俺の人生がどうなるか分かったもんじゃない。
「あら、鶸おかえり〜」
「おかえりなさい、鶸」
「え、あ、うん。ただいま。…じゃなくてッ!」
そうだよなぁ。
多分それが一番正解の反応なんだよなぁ。
「あんた、どういうつもりで…!?」
「えぇっと…」
「お姉ちゃんを泣かしたくせに!」
「落ち着いて鶸!違うの!あれはあたしが勝手に泣いてただけで」
「……お風呂入ってくる」
そう言い残して鶸ちゃんは部屋を出て行ってしまった。
流市のことは見えていなかったのか、ノータッチだった。
「ご、ごめんね、サンサロール様」
「いいや、こうなることは、当然分かっていたさ」
タイミングと場所が少々想定外ではあったが、ここへ来たときからこの雰囲気になることくらい、俺には簡単に予想できていた。
寧ろ、何もなくこのままハッピーなのが怖かったくらいだ。
「参巻、つゆにいい考えがあるの」
突然、露葉がそんなことを言い出した。
「考えって?」
「いいからいいから、つゆにお任せあれ〜っ!」
「つゆちゃん、ごはんは、すわって?」
「わ、分かってるわよ!アリスは真面目なんだから」
露葉の考えとやらの真髄は見えないが、今はそれ以外に打てる手もない。
後頭部を掻きながら、苦い顔をするしかなかった。