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第16話/最終話:ものすごく、考えた。悩みに悩んで決意した。もうこれ以上は迷わない、俺とこの先もずっと一緒に。

 アリスさんの両手に溢れる程にまで積まれた缶ジュースは、今にも雪崩を起こしそうな状態にあった。

 こんな時、普段なら露葉が率先して手伝いに行ってくれる。

 しかし、今回ばかりはそうはいかない。


「…露葉、 お、おい、大丈夫か…?」


 気さくに話しかけられるような状況でもないので、ゆっくりと心を開いてもらえるよう、露葉の目の前に跪いて視線を合わせる。

 しかしどうやらその行為は癪に障ったようで、「つゆ、もう少し身長あるもん」と怒られてしまった。


「露葉は…、いや、やっぱりちゃんと言った方がいいのかもしれないな。…なぁ露葉、お前はどうなんだ?」


 俺は、今の露葉の心境を確かめるべくそう問う。露葉は当然、答えに戸惑っていた。


「どう…って、え、何、どういう」


 その声音に、恐怖にも似た感情が込められているのが分かる。


「そのままの意味だよ。今、露葉はどんな気持ちなのかなって」


 そう、その真意は言葉とは裏腹に異なっていた。

 ただ確かめたいというだけではない。

 俺は、露葉の抱いている理想を壊そうとしている。

 何故そんな酷い事を、と思うかもしれない。理想なんて、個人がそれぞれで自由に抱いていいものだ、そう思うかもしれない。

 だが、強すぎる理想を、またそれを強く願い過ぎてしまえば…。

 それは、自身を狂わせてしまう。

 そして壊れてしまってからでは、心は修復し難い。最悪の場合だって考えられてしまう。

 それ故に俺は、俺の自分勝手な行動だと分かっていても、実行せざるを得ないという使命感に駆られていた。


「…それって、つまり…」


 先程まで声を荒らげて泣いていたせいもあってか、露葉の声には普段のそれに準ずるボリュームがなかった。

 その露葉の後方に見えるアリスさんをちらりと見やると、腕に抱えきれなくなりそうになっている缶ジュースを一つずつゆっくりと右手に持ってはベンチに並べて配置していた。

 アリスさんは俺たちの様子を伺いつつ、まだ自分に機がないことを悟ったようで、何も言わずに作業に徹していた。

 一つ持つ度に左腕で残りを抱えなければならないので、かなりあたふたしていたが、その姿がまた可愛らしいので手伝ってはいけない気がした。


「ゆっくりでいいんだ。俺に、教えて欲しい」

「参巻…。や、やっぱり参巻は参巻よね。…つ、つゆがどれだけ参巻のそばにいたと思ってるのよ…」


 露葉の表情が急に暗くなった。

 顔を俯かせたまま言葉だけを続ける。

 もう、表情を読み取ることも出来なくなってしまった。


「…参巻さ、バカよね…、全っっ然、何もかも、全く隠せてないんだから…。いいよ、つゆの理想…教えてあげるね…」


 その回答には驚き、そして胸が痛んだ。

 露葉は露葉なりに、俺のことを分かっている。

 それが今になって、こんな形で知ることになるなんて。


「待て、やっぱり」

「言わせて」


 怖くなったからだろう。

 俺は咄嗟に止めに掛かった。

 だがもう遅い。


「お願い、参巻。つゆね、もう、苦しい。…苦しいの。だから…、言わせて」


 顔を上げて俺を見る露葉。

 彼女の覚悟は、何故だか前もって用意していたかのように瞳に宿っていた。

 それを見た俺には、もう何も言う権利などないのだと悟ることしか許されていない。

 昨日のデートで見せた表情とは裏腹に、そこにあったのはこの先の希望ではなく絶望のようだった。パフェデートに込められた露葉の決意は、おそらく彼女なりの俺への気遣いに過ぎなかったのだと、漸く悟った。


「…ごめんね、参巻。つゆのわがままだよ、今から話すこと全部。でも、ちゃんと、ちゃーんと、聞いて欲しいな」

「……」


 露葉が珍しく決意を見せた。


「…じゃ、じゃあ言うよ」


 どこか戸惑いは隠しきれていない。


「お、おう…」


 そして、露葉は話し始めたが…、


「…つ、つゆの理想はねぇ、実は、…参巻と関係ないの!」


 !

 驚いた。

「露葉のことだし、甘々な世界を夢見ているだろう」とばかり思っていた俺にとって、その語り始めは驚嘆に値した。ついさっき俺のことを好きだと言ってくれた直後にこの言葉。間違いなく咄嗟のミスだと分かった。

 これ以上は露葉にとっても限界なのかもしれない。


「まずね、つ、つゆがもっと、もーっと大きくなってね、すっごい綺麗な美人になるの」

「美人にって…自分で言っちゃうのかよ」

「い、いいでしょ理想なんだし!」

「まぁいいけど…」

「それでね、…」


 この後も話の流れは始めから変わることなく、露葉は理想を語り続ける。

 しかし、やはり、と言うべきだろうか。

 暫く話しているうちに、露葉の理想物語に亀裂が入り始める。

 俺は出来る限り受け止めようと、話を止めずに傾聴する。


「…で、それでね、そのアルバイト先の優しくてカッコいい同い年の男の子がね、つゆのことを沢山助けてくれるの」

「その男子よく出てくるな。もしかしてさっき話てたのも同じ人か?」

「うん!同じ大学の学生でね、偶然同じバスに乗り合わせる運命に導かれた子なの!」

「バスが同じだけで運命感じちゃうのか、大丈夫か露葉」

「だ、大丈夫よ!大体、じゃあ参巻はどうやって大学まで行くのよ!」

「そりゃあバス……え?」

「あっ…!」

「露葉、一応、念のためだがー…」

「ち、ちち違うもん!そ、その男の子は別に参巻のことなんかじゃないし!ほ、本当よ!?」


 本人はそう言って誤魔化しているつもりなのかもしれないが、俺はこの時点でこれは完全に危険だと判断していた。

 この話も、このまま聞いていてはいけないと感じた。

 やはり、ここできちんと線を引かなければならない。

 俺も覚悟を決めなければならないと思った。

 俺はきっと、瀬栾のことが好きなんだ。

 そう、言い聞かせて。


「露葉…。俺が、いや、俺も、どれだけお前と一緒にいたことか、分かるよな?」


 もう、既に手遅れなのかもしれない。

 だけど、露葉にこれ以上の辛さは味わって欲しくない。

 俺の中で葛藤が渦巻く。


「や、やめて参巻!やっぱりつゆ嫌だよ!」


 涙を浮かべた瞳で訴えかける露葉。


「俺は、」

「やめて!」


 俺の腕を強引に引きつつ台詞を止めようとする。


「俺はもう露葉のことを」


 言うしかない。

 完全に否定することを、無理にでもここでしておかなければならない。

 しかし刹那、


「そこまで」


 不意に俺でも露葉でもない、一人の少女の声が割り込む。

 そしてその娘の瞳には、大粒の涙。

 先程まで可愛らしく缶を並べていたとは到底思えない、凛々しく涙を堪えている姿だった。


「…ほんとうにすきなひとは、えらべないの」


 その一言は、俺を諭すように発せられた。

 果たしてその効果は言うまでもなく覿面だった。

 何故だろう。

 どうしてだろう。

 俺の心の中で、そんな言葉ばかりが溢れ出る。

 俺は何故、露葉が傷つくと知っていながらこんなことを?

 俺はどうして、アリスさんを泣かせるようなこんなことを?


「ダーリン…、もう、わかるよね」


 アリスさんは、既に壊されてしまった露葉のガラスを掻き集めていた。

 悲しさを表現するその表情には、その本来の感情だけでなく、俺を肯定する意味も込められているような気がした。

 …そうだよな。

 俺は間違っていたわけじゃないんだ。

 ただ、まだ自分自身の決着が着いていないんだ。

 そう思い、いつの間にか流れそうになっていた涙を食い止めようと空を仰いだ。


「…露葉」

「ごめんね…、参巻…。つゆの、わがまま…、ごめんね…」

「……」


 胸を押さえて必死に涙を堪える露葉のその姿を見、酷く後悔する。

 …じゃあ、どうすれば?

 その答えは…。



 屋上にいる間に、校長先生のお話等も終わってしまっていた。

 露葉から一人にして欲しいと言われ、状況をみてそれに従った俺は、ふらふらと校内をうろつくのもいかがと思い、とりあえず帰路につくことにした。

 校門付近で待ってくれていた瀬栾と合流し、あまり気の進まない帰り道を歩く。


「サンサロール様?さっきからどこかうわの空だけど、どうかしたの?」

「…あぁ、いや、とくになんでも」


 ない、と言い切りたいところだったが、流石の俺も全部無かったことに出来るわけがないことくらい自覚している。


「また露葉さんのこと?」


 瀬栾は鋭い。

 多分、露葉より俺のことを知ってくれていると思う。

 いや、この場合『俺のことを分かってくれている』と言った方が正しいのかもしれない。


「あー…、いやぁ、別に本当になんでもないって」


 瀬栾の隣にいる手前、煮え切らない態度だと今度は色々と失礼に値すると思った。


「本当のことを、あたしには話して欲しいんだけれどなぁ」


 今日の瀬栾は不自然なくらい彼女していた。

 まるで雑誌とかに載りそうなテンプレートな彼女像がそのまま具現化したような態度だ。


「……」

「……」


 しかし、話せるような事ではない。…少なくとも今は。

 俺はそう思い、敢えて口に出さないでいた。


「そうね…、サンサロール様はそうよね」


 急にそんな事を言い始めた瀬栾。また誰かが近くにいるのか…?

 確かに瀬栾の口調から察するに、近くに知り合いがいるのは間違い無いのだが…。


「ど、どうしたんだよ突然」

「ううん。何でもないの」

「……?」


 気になる。

 このままだと今日は眠れなくなりそうだ。

 俺は辺りをキョロキョロと見回す。


「はぁ。サンサロール様、いいですか?隠し事をするなとは言いません…。けれど、悩み事くらい、あたしを頼ってくれてもいいんじゃないですか?」


 隣を歩いていたハズの瀬栾はいつの間にか俺の正面に対峙していた。

「何でもないの」とはぐらかしたのは「なんでもない」と言った俺への小さな仕返しをしたつもりだったのかもしれない。


「…悩み事…か」


 俺は呟く。

 そして、気付く。

 俺は悩んでいるのだと。

 可愛い娘に囲まれてちょっと調子に乗っていたが、本質的に俺は瀬栾のことを一番に好いていて、それ以外の事に関してはある程度流すような性格のハズだった。

 …瀬栾のことでしか悩めないのだと、そう思っていた。

 その俺が。

 この俺が。


 俺は何か、答えのようなものを掴んだ。

 そうか。

 俺は…!


「あ、あのさ!」

「…サンサロール様」


 少し勢い付いた状態で瀬栾に話しかけたが、理想の彼女はそれを途中で遮った。

 それは、それ以上の俺の話を聞きたくなかったからではなく。

 …それ以上のことは言わなくても伝わった、そういう表情をしていた。


「さて、やっとあたしに本当の気持ちを伝えてくれましたね」

「瀬栾…」

「いいんです。あたし、知ってました…というより、気付いてましたから」

「お、俺、でもまだ」

「だーめ。それ以上は言っちゃダメです。戻れなくなっちゃいますよ?…せっかくのチャンスなんです、これは」


 チャンス。

 彼女が与えてくれたものなのか、それとも神が与えた運命なのか。

 しかし今はどちらでもよかった。


「ごめん!俺、急用が出来た」

「はいっ。それじゃあ、行ってらっしゃい!」


 瀬栾、ごめんな。

 彼女の隣を去る間際、俺は一人でそう呟いた。


「…行ってらっしゃい。…あたしの、自慢の元カレくん」


 瀬栾の近くには、他に誰もいなかった。



 露葉を探すこと数分。

 途中で缶ジュースを両手いっぱいに抱えたまま帰路につく何ともまぁ可愛らしい少女に出会った。

 屋上で見たオレンジジュースの缶が一つなくなっているのは、おそらく露葉にあげたからだろう。アリスさんなりの励ましなのかもしれない。


「はぁ、はぁ、つ、露葉、見てない?」

「だ、ダーリン!お、おっ、ひゃうっ!」


 突然呼び止められたからか、アリスさんはバランスを崩しそうになってしまった。

 そのまま何もせずに突っ立ってたら、おそらくそこら中に転がった缶ジュースを拾う作業が待ち構えていたであろう。咄嗟ではあったが、よくぞ受け止めた俺。我ながらファインプレー。


「大丈夫、か?」

「ありすは、だいじょーぶ」

「そうか、それならよかった」


 って、そうじゃない。


「つゆちゃんなら、いるかも」

「いるって、どこかな?」

「……おへや?」

「えぇっと、教室だね?ありがとう」


 学校内に部屋は沢山あるよ!というツッコミはこの際可愛らしさで相殺じゃボケェ。

 しかし、どうもアリスさんは可愛くていかん。このまま一人で帰すとどこかで転ばないとも限らないし…何より誘拐とかされてしまうかもしれ…

 ない、と思った矢先にどこか遠くから視線を感じた。

 …なるほど。

 安全体制はバッチリみたいですね。

 アリス様FCの皆様が温かい瞳で数メートル後方と前方から護衛のように就いていた。

 ん?

 ということは屋上での露葉とのやり取りも全てこの集団には見られてて…?

 色々と恥ずかしくはあった。

 しかし、そうだとしても、もう終わってしまったことか。

 これからの行動が大切なんだ。

 って、やっべその中の数人から黒いオーラを感じる。

 ここは一旦身を引こう。

 アリスさんには後で事情を説明…しなくてもいいか別に。

 そういうことでその場を後にした。


 アリスさんの話は実を言うと全くあてにならないという訳でもない。

 簡単に言ってしまえば、アリスさんが知っている教室、と考えれば一意に定まるのである。


「露葉!!」


 だいぶ大きな声で叫ぶ。

 俺らのクラスの教室には、一人の少女を除けば誰もいなかった。


「参巻…」

「露葉」


 泣いた後を頬に残したまま、無理やりな笑顔を作ろうとする露葉。


「ば、バカね、つゆのことは、もう」


 露葉も考えたのだろう。

 落ち着きを取り戻しつつあった。

 だが、俺はそんなことはおかまいなく、


「俺はやっぱりお前が好きだ!」


 言い放った。

 時間が止まる。

 実際には止まっていないのに、何故かその瞬間は永遠にも感じられた。


「な…、えっ…!?」


 露葉は、用意していたのであろう対俺用のセリフを完全に失っていた。

 否、この呼びかけに対しては過去問不足が過ぎたのかもしれない。


「ちょ、ちょっと待って!ど、どういう、え!?なんで!?瀬栾は、ど、どうするのよ!」

「とりあえず、落ち着いてくれ」

「落ち着けったって、え、参巻、無理だよ!」


 この場においては確実に露葉のこの状態が正解で普通、そして平然としている俺の方が異常なのだろう。

 しかしながら、俺は自分がおかしいとは少しも思わない。

 これが覚悟ってもんなのか。


「俺、嘘ついてた」


 場を無理矢理にでも方向転換させようと俺から切り出す。


「嘘…?」

「あぁ。正直、俺が露葉のことを好きだったことに関しては、以前から同様、変わってない」

「そ、それは…」


 露葉はおそらく、文化祭デートを思い出したのであろう。

 顔を若干朱に染めて目を敢えて外しているあたりから察するに間違いない。

 言葉も態度も、中学生時代の、恋人だった頃のものを重ねていたのはどうやら俺だけではなかったようだ。


「瀬栾に教えてもらったんだ。俺の、本当の自分を」

「待ってよ!それは、でも、瀬栾がそれじゃあ…」


 やはり露葉はいい娘だ。

 俺は改めてそう感じた。

 こんな状況になってまで、他人を案じられるのはそうそう出来ることではない。

 口元の緩みが抑えきれない興奮と欲望を物語っているようではあるが、それを押し殺しているのもまた事実だ。


「露葉は、お前自身はどうだ?」


 俺はもう一度露葉に選択を委ねてみた。

 やり直し、まさにそうだ。

 もしここで露葉に振られても、俺に後悔する権利などない。

 さあ露葉、聴かせてくれ。

 お前の想いを。


「つ、つゆは…、でも…」

「……」

「わ、分かったわ…。…つゆ、言う!さ、さまきのこと…本当はつゆも好」

「ダメ!!」


 ッ!?

 教室の後方から突然の叫び声。

 どうしていつもこういうタイミングで水を差されるのだろうか。

 作者の恨みか何かだろうか。

 振り向いたそこには、ありったけの体力を消耗しながら走ってきたのであろうアリスさんがいた。

 流石に今はもう缶の山は持っていない。

 捨てて来たのだろ…あ、そういうことか。FCの皆さんが手分けして持っているのが遠くに見えた。何でもっと早く持ってあげなかったんだ。


「だ、ダメ、つゆちゃん。ハァ、ハァ。それ、は、んッ、ダメ、だよ、ハァ、ね?」

「アリス…」

「アリスさん…。どういうこと?」

「ダーリンと、ぬけがけ、ダメ、ぜったい」

「待ってよアリス、今のこの状況じゃ、抜け駆けとは言えないわ!」

「ダメ、なの!ありす、それは、ゆるせ、ないの!」


 何故だかアリスさんは怒ったような表情すら見せていた。

 あのいつもふわふわな笑顔を浮かべているアリスさんがこんな表情を見せるなんて、よほどのことがなければないことだろう。


「アリスさん…?」


 きっと個人的な理由を含めて、何かアリスさんの中で使命感のようなものが行動をけしかけている。


「ありす、みたの…」

「見たって、何を?」

「……せら、ないてた」

「ッ!!」


 言葉が出て来なくなった。


 俺が探していた答えはこんなものではない。

 そうだろう?


「露葉」

「さまき、嫌だよ」


 露葉はこの状況下で唐突に名を呼ばれたことに恐怖していた。

 しかし無理もない。優柔不断な行動を取り続けた俺のせいだ。

 女の子の悲しむ姿を見たくないと、好きになってしまった全ての人にそれなりの態度を取って来た俺へ、今、ツケが回って来ている。

 だけど。


「……」

「いや…、さまき、やめて?ね?も、もう、あんな思いは」

「ごめんな、露葉」

「え…、んっ…!?」


 時間が止まる。

 それは比喩表現でしかないのだと、ずっとそう思ってきた。

 しかし、今なら分かる。

 理屈なんてどうでもいい、ただ、時間は止まっている。

 露葉の柔らかな朱色から、そっと、静かに離れていく。

 永遠の眠りを融かすように。

 過去の闇を屠るように。


「ダーリン…」


 息切れの治ったアリスさんに、かける言葉を探した。知っている全ての語彙から捻り出した。


「アリスさん、いいんだ。俺、俺が、こうしたいんだ!…そう瀬栾とも、約束したんだ」


 そして俺は、露葉を強く抱きしめた。


「露葉。もう、何も遠慮しなくていい」

「…ダーリン、それが、こたえ?」

「あぁ。これが、答えだ」


 露葉は顔を真っ赤に染めたまま、唇に残る温度を指で確かめている。驚きのあまり、瞳を大きく瞠っている。


「そっか…、うん。分かった。それなら、もう、だいじょうぶ」


 突然、アリスさんの表情が明るくなった。


「お、おう」

「まぁまぁさまくんったら、私の妹をここまで虜にしちゃうなんて、流石ね♪」


 ここに来て聞き慣れた声と見慣れた容姿を、遠く、FCの中に確認した。


「シア!?そんなところに!?」

「さっきからずーっと、見守ってたのよ?」


 何ですと!?

 全く気付かなかった…。


「さまくん、瀬栾ちゃんのことは私に任せなさいな」

「え、瀬栾のことって…?」

「おねえちゃん!それ、だめ」

「あら、ごめんなさいアリス。これは秘密だったわね」

「え?どういう、え、何?」

「さ、ささ参巻、まま、まさかこれ、きききキス、しちゃったぁぁぁ!?」


 おい露葉お前今更かよ!

 確かにキスしたけど反応速度遅すぎるだろ!


「遅くなったな、露葉」

「えっ、そそそんな!遅いなんて、そんなことない!」


 慌て始める露葉は、いつものような無邪気さを取り戻していて。

 正直、この表情を見ているだけで俺は幸せになれる気がした。


「参巻…」

「うん?」

「…大好き!」


 この言葉の真意には汲み取りきれない程の想いが込められているのを感じた。

 感じたからこそ、俺も今日こそはきちんと返さなければならない。


「おう!俺も、大好きだ」



 石川 参巻。

 あたしの初めての恋人にして、初めて大きな嘘をついていた男の子。

 今通っている学園の入学試験当日、筆記用具を忘れたあたしに筆箱を貸してくれたのが初めての出会いだったっけ。

 本人は全く覚えてないようだけれど。

 入学から半年くらい経った頃、彼の在学を確認してからは、「どんなことして遊んでるのかなー」とか「好きな食べ物は何かなー」とか色々考えるのがあたしの趣味になりつつあった。

 二年生、今年に入ってから彼に告白された時は、どうすればいいのか内心で混乱してた。

 なんだかんだで一緒に住む、なんてことになって、毎日思わずはにかんじゃう表情を表に出さないように意識したなぁ。

 ……。

 それからはあっという間に時間が過ぎていった。

 でもね、あたし、知ってたんだよ?サンサロール様。

 露葉さんが初めて学園であなたを呼び止めた時、あたしの見たことのないような嬉しそうな顔してたもの。

 そんなの見せられたら、もう敵いっこないって自覚しちゃうよ。

 でもサンサロール様は優しいから、人がいいから。なによりあたしのことも好きでいてくれてたから、あたしどうすればいいのか全く分からなくなっちゃって。

 結局、照れ隠しみたいなツンとした態度しか取れなかったなぁ。ごめんね。

 猫派なのもあって、今考えると色々面白いこと言ってちゃってたかもしれないね。

 ……。

 あぁ。

 だめだ。

 また止まらなくなりそう。

 せっかくシェリアさんが美味しい紅茶をご馳走してくれているのに。

 既にちょっとしょっぱい気がするなぁ。

 ……。

 これからはどう接していこうかな。

 …友達から…、ううん、良い友達になれるかな?

 やっぱりすぐは難しそうなので、少しだけ時間を下さい。

 あ、でも安心して。

 あたしこういうので鬱になったりよからぬことを考えたりするほど弱い女子高生じゃないから。

 しっかりと心の整理をして、新しい恋の芽でも探しながら、今度はあなたと良い友達として遊びに行けたらいいなと思ってます。


「楠町さん、おかわりいかが?」

「あ…、はい。じゃあ、頂きます」


 おかわりの紅茶を飲みつつ、少女は苦笑した。

 それが紅茶の渋みからなのかそうでないのかは、彼女にしか分からない。

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