4.懇願の指輪
煌々と明かりの灯された敷地内を滑るように馬車が進む。
あちこちに、領地から呼び寄せた男達が歩哨として動き回っているのが見て取れた。もちろん、厳戒態勢である。
先触れを出していた館に帰り着いた時、そこは異様な興奮に包まれていた。
先に降り立ち、しっかりと支え馬車内から外に出す。ずらりと並んだ者達に、互いの指輪を披露した。周囲から上がったどよめきに緊張を隠せずにいた彼女が身を寄せてくる。それをいいことに抱きかかえた。
執事が先導して、館の奥深くに足を進めていく。早く、安全なところへ隠してしまわなければと、気が急いた。
一生はめることは叶わないと諦めていた『貞節の指輪』を身につけることができたのに、頭の中にあるのは下卑た思いだった。実行すれば、指輪は即座に砕け散ってしまうほどの。
そうなった時に生涯自分の側に縛り付ける方法について、尽きることなく考えが湧き出る。
混じり気なしの『貞節の指輪』を差し出されたのだから、誠意を持って応えなければと思うのに。
指輪一つ守るのがこんなにも難しい。
準備した部屋へ執事とともに入室し、ゆったりとした寝椅子にそっと下ろした。
ここから、正念場である。
「謝らないといけないことがあるのです。実はこの館には女手が全くありません」
「全く?」
「はい。ここは女性に不人気な職場らしくて寄り付いてもくれないのです。身支度は一人でできないですよね。実家より急いで侍女を呼び寄せましょう」
「待って、待ってください。……一人で頑張ってみます。だから呼ばないで」
焦った声で止められた。続きをそっと促せば、
「最近になって、侍女達が窓の鍵を閉め忘れるのです。母に伝えても困ったわねで、終りです」
「……それはお困りでしたでしょう」
「はい。とても困っていたのです」
空気がゆるんだ。泣き笑いを浮かべながら、左手が指輪をぎゅっと握りしめている。その姿にますます気持が入れ込んでいく。
そのまま何時間でも見つめていたかったが、そうもいかないので執事の手を借りる。
簡単に部屋の案内をしていた中で、既に衣装箪笥にしまわれている部屋着の説明には二人で窮した。
「こんなに、たくさん」
呆然としている。執事が気を逸らすように、夜会用の衣装を着続けるのはしんどいでしょうと声をかけだしたので、急いで部屋着を選んで差し出した。
「浴室の準備は整ってます。声をかけていただければ手助けしますので、ごゆっくりつかってらっしゃい」
「はい」
きっと、何とか一人でしてしまうんだろう。返す返すも残念だ。
浴室へと入っていく姿を見送って聞き耳を立てながら、執事と警護の更なる強化を小声で話し合う。
途切れがちの会話がとうとう止まったあとしばらくして、執事が言い出したのは自分の卑しい考えと大差はなかった。
主従そろって本当にどうしようもない。
思ったほど、時間をかからせずに浴室から出てきた姿に思わず見惚れる。濡れた髪を厚手の布で拭き取って乾かす手伝いに没頭する振りをした。
眠たそうな目元に、話さなければならないことがあるのに切り出すのがどうしてもできずにいた。
眠たさをこらえてまで尋ねられたのは、指輪の余りの違いだった。
「恋人同士や婚約者同士は貴方が欲しいと懇願して作り上げた指輪を相手に託します。その指輪に貞節の誓いを重ねるんです」
「私の指輪が頼りないのはそのせいですか。懇願が足りないから」
右手に伸ばされた細い指が、私の薬指に触れてきた。両手で細い鎖を撫でてくる。指がじんっと熱くなる。
私を欲しいと願ってくれたのだろうか?
ここから進んでもいいのかと、期待が膨れ上がっていく。
そうして、彼女は指輪を撫で続けながら、ぽつりと私からの逃げ道を切り捨てた。
「もし母達の迎えがきたら、追い返してください」
「帰らないのですか」
「ここにいたいのです」
きっかけを作ってくれた。申しわけないけれど、乗らせてもらう。
奪い取られるぐらいならと、もう奥底では決めていた。
「帰らずにすむ確実な方法がありますよ」
「本当ですか」
「はい」
唇を寄せて、軽く下唇を食む。瞬間、頬に朱が走った。
きょとんとされたらそこから説明しなければと覚悟していたのだが、大丈夫そうだった。
「これが確実な方法?」
「はい」
息を大きく吸ってこちらに寄せてきた身体を強く抱きしめ、寝台へと向かった。
目を覚ました瞬間、この指輪が霧散してしまうかもしれない。
気を失ったから、まだこの指に留まってくれているだけで本当はもう無くなって当然のことをした。
今頃、猛省しても遅いと執事から小言をくらった。お前がそれを言う?とも思ったのだが、口にはしなかった。
痛がって、泣き出したのに止めなかったし、しつこく続けてしまったし。
指輪が霧散してしまった場合の、行動予定を考えて暗澹とした。
目が覚めるのを一睡もせずに待った。
このまま眠り姫になって欲しいとの願いもむなしく、待ちに待った目覚めがきた。
茫洋とした視線が私の存在を確認した途端、右手を目前に掲げた。
「良かった。外れてない」
華奢な指に不釣り合いな指輪を胸に押し当て、安堵の声をあげた。
「無くなると思ったのですか」
「期待はずれで嫌になってしまわれたらどうしようと。良かった。私、側にいてもいいんですよね」
「もちろんです」
細い鎖が陽に反射して輝く。