萌香と万希葉と静香
自らの経験と自覚し始めていた感情、そして勢いで札幌から遠路遥々茅ヶ崎に降り立った勇だが、二つの街のあまりにも異なる環境に、やはり水菜はこのままこの地で暮らしたほうが幸せなのではと思い始め、錯乱状態に陥っていた。
二進も三進も行かず、頭を悩ます勇に、卓で向かい合う美空は何か気の利いた言葉をかけられないものかとやはり錯乱。彼女もまた、21年の人生で自らに決断を迫られたときに行き詰まった経験くらいはある。
そのとき、店の引き戸がカラカラと開き、水菜が暖簾をくぐって現れた。その表情は少々気まずそう。
「いらっしゃいませ」と出迎える杏に、水菜は咄嗟に笑顔をつくり「久しぶりー! 元気だったー?」とぷにぷにした彼女の頬を両手で挟み込んでわしゃわしゃした。
杏と十数秒戯れたところで彼女を解放し、厨房へ引っ込んだところを見届けると、足取り重く勇と美空が待つテーブルへ。躊躇いつつ美空の隣に着席した。
「どうして勇せんぱいが茅ヶ崎にいるんですか?」
なんて言いながら、水菜は勇がここにいる理由を察していた。
けれど勇は数秒考え込んだ表情を見せて、
「どうしてだろうな」
蚊帳の外にいる美空は気まずくなって、若干顔をすぼめている。高校生の二人から見れば21歳の美空はお姉さんで、複雑な事情に巻き込まれ散々な目に遭った過去もある(『名もなき創作家たちの恋』参照)が、とはいえこういった場を得意にできるほど成熟はしていない。
「あぁ、そういえばコミケで東京まで来たっていう話は聞きましたけど、もしかして都内のホテルが満室だから、宿泊予約の取りやすい茅ヶ崎を拠点に置いてるとか?」
意地悪な問いだと勇は思った。自分のことを思って来た可能性を鑑みてはいるのかもしれないが。そう思ったところで、心の淀みは沈んだ。
自分が逆の立場になっても、きっと水菜と同じような対応や問いかけをするだろう。人に心を大切に想われた経験が皆無か少ない人間は、まさか誰かから自分が心の底から心配されるだなんて、本気で思いもしないのだ。
それほどまでに俺たちの生育環境は歪んでいる。それで合点がいった。だが、勇はコミケなるイベントには参加していない。
「いや、結局はただの観光かもしれない。海では萌香と万希葉と静香が遊んでる」
「そうなんですか。茅ヶ崎へようこそ。海側は私のテリトリーじゃありませんけど」
萌香と万希葉と静香、ね。へぇ。
水菜は勇が名を口にした順番から、何かを感じ取った。オンナの勘いうものだ。
ちなみに海側は私のテリトリーじゃないという水菜だが、茅ヶ崎という街は東海道本線の線路を境に南北で街の雰囲気や住人の気質が大きく変わる。
美空の住むこの南側エリアはハワイやヨーロッパ雰囲気を持った店舗や住宅が軒を連ね、サザン通りや(加山)雄三通り、ラチエン通りなどの商店街が賑わう、お洒落でどこか懐かしい雰囲気が漂っている。
対して北側は家電量販店や大型スーパーが密集し、市街地を外れると高度成長期の象徴として栄えたニュータウン、更に北上するとのどかな里山がある。他県にもあるようなごく一般的な雰囲気ではあるが、機能的な店舗が揃い、里山があり、南側のお洒落で懐かしい雰囲気もある、その三位一体感が茅ヶ崎の強みだったりする。




