約束
幼い二人のその約束は、田舎の診療所。
それを見ていたのは、二人の父親と満ちていた月だった。
その約束は、幼い巴の一言からだった。
夢を叶えるという希望を、幼かった私は抱きたかったのかもしれない。憧れていたのかもしれない。
……あの時の約束が、大切な人を繋ぐ巴の宝物……。
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診療所の一人娘である巴は、毎日一人の男の子の元へお見舞いに通っていた。
その子の名前は、朗という。
父親の親戚にあたるその子は、内科の名医と謳われている父親を頼って、入院させてきた。
生まれた時から身体が弱く、今回の入院時もなかなか咳が止まらず、苦しんでいる。母親は、丈夫に跡取りとなる長男を生めなかったことを思いつめてしまい、精神的に弱くなってしまい治療している。そんな母親の元に朗を置いておいたら、余計に生活が駄目になってしまうのではないかと考えて悩んだ末に、この診療所に連れて来たのだった。
自分の身近に年の近い人は居なかったので、都会からやって来た朗に不思議な親近感を感じた。一人ぼっちで寂しかった自分の元に毎日遊びにやって来るその女の子。二人が仲良くなるのに、時間はそんなに必要なかった。
朗の体調が良くなった、桜が咲き乱れる四月のある日の夜。
彼女は、とんでもないことを言い出した。しかし。朗は、嬉しそうな顔をする。
『ねぇ、大きくなったらお嫁さんにしてね』
『僕の?』
『うんっ、朗お兄ちゃんのお嫁さん!!』
『……どおしようかなぁ……』
膨れ顔の女の子の頬に、少し年上の男の子は小さな口付けを落とす。
『分かったよ。じゃあ、約束しよ』
『約束、だからね?』
微笑み合いながら、小さな薬指を二人は絡ませて約束をする。
男の子はベットの所で、女の子はそのベットの傍らに居て。
白い世界に包まれた、二人っきりしか居ない病室の中で…………。
『でも、良いの? こんな身体の僕でも……』
意味が分からず、巴は首を傾げた。
『朗お兄ちゃんは元気になったから、お家に戻るのでしょう?』
『……うん、そうなんだけど』
言葉を濁すしか出来なかった。
『朗お兄ちゃんが好きだから、じゃ理由にならない?』
『……ん……と。じゃあ、どうして巴ちゃんは僕を好きになったの?』
『自然に、かなぁ』
と、答える巴。彼女にとって、自然に好きになったのだから、それが理由。
(好きになるのに、理由なんて必要なのかな???)
必死になって考えてみても、いつの間にか朗を好きになっていたのだから。巴にとって、それしか理由にならない。
それに。何故、朗が身体のことを気にしているのかなんて、その当時の幼い巴に分かるわけがないのだ。
反対に。
朗には、どうして巴が好きになったのかが分からない。
約束を受けてしまった、自分の行動に対しても、びっくりしていて分かっていないのだ。
『……巴のこと、嫌いなのに約束してくれたの? かわいそうだから、とか?』
『そうじゃないよっ! 巴ちゃんのことは大好きだよ!』
『ホント?』
『本当に、本当!』
だんだんと泣き顔になってきた巴の問いに、朗は慌てて首を横に振りながら答えた。
『でもね……』
『それ以上言ったら、泣いちゃうから!』
巴の頑固な部分を、その時に初めて朗は知った。
その約束は、果たされることになる。
その場に居た巴の父親と、迎えに来ていた朗の父親の手によって。
巴の幸せは、朗の傍に居ること。
朗の幸せも、同じ。
でも、彼は時々考えてしまうのだ。
……自分と結婚していなければ、違う幸せがあったのではないかと……。
二人の幸せは同じ、考えは別々。
それは、年月が流れても変わらぬまま。
太陽は、もう南に高く昇っていた。
「おはよう、朗さん。気分はどうです?」
巴の声で、彼は目を覚ました。
昨夜は戦地へと赴くことになった友人達と飲み明かした所為か、頭が重く感じており、胸がむかついていた。
「……最悪だよ」
「それはそうでしょ。お酒なんて強くないのに、飲んでしまったんですもの」
「そうだけど、少しは心配してくれてもいいんじゃないのかい?」
クスクスッと楽しそうに笑いながら、巴は小さな土鍋と茶碗、梅干をのせた小鉢を朗の前に差し出した。
「ちゃんと考えて、今朝は胃に優しい食べ物にしました」
土鍋の蓋を開けてみると、ほんのり良い炊き立ての米の匂いがする。その匂いを深呼吸して胸いっぱいに吸い込み、朗は嬉しい溜め息を漏らした。
その様子を見た巴は、満足そうな笑みだ。
(良かった、食欲があるみたいで)
召集令状を受け取った時、彼ともう……と覚悟を決めていたが。
昔からの病弱の身体では戦地では不向きという理由で不適格ということになり、朗は巴の元に帰って来たのである。朗本人とその周囲の人間はそれを恥と思っていたが、巴は違った。
どんな形であれ、朗は自分の傍に居てくれるのだ。それが彼女の幸せの形であり、望みでもあったから。
もちろん、そんなことを朗に言ったら怒られてしまうだろうけど。
戦地へと赴くことになった友人達を、朗は羨ましがり、最大限のもてなしをして、別れをした。戦地へ赴けば、生きて帰れる保証は無い。そんなことは誰でも知っている事実。
二度と会えないかもしれない友と飲み明かし、空が白々と晴れてきた頃に朗は見送り、そして眠りについたのだった。
現在は、日も高く昇り、昼時だ。
「お粥にしてくれたんだね、ありがとう」
「梅肉と青しそを入れれば、さっぱりするでしょう」
れんげを用いて、茶碗にお粥をよそい始めた巴を見ながら、朗は言った。
「巴。僕に付き合うことなんてないよ、君には違う幸せを……」
その言葉を聞いた巴の表情は、当然だといえる。
息を吹きかけて人肌にまで冷めたお粥を一口、巴は朗の口の中に強引に放り込んだ。黙らせるにはこれが一番手っ取り早い。朗はそれを黙って噛み、そして飲み込む。少し怒った彼女の表情を見つめながら。
「朗さん、私の幸せはここなんです。それ以上言ったら、今度は熱いお粥を食べさせますからね!」
朗は苦笑して、負けを認めるしかなかった。彼女の頑固な部分は、昔と全然変わっていない。
「それは勘弁してほしいな」
「ごめんなさい、は?」
「ごめん、巴。もう言わないよ、君には負けた」
その一言に、彼女は満面の笑みを浮かべるのだった。
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幼い二人のその約束は、叶えられた。
その約束は、朗が生きていく為に必要なものだったのかもしれない。
少しでも長い時間を共にいる為に、必要だったもの。
……あの時の約束が、朗にとっては心の支えだったのかもしれない……。
『ねぇ、大きくなったらお嫁さんにしてね』
『僕の?』
『うんっ、朗お兄ちゃんのお嫁さん!!』
『分かったよ。じゃあ、約束しよ』
『約束、だからね?』
約束は、未来を叶える為の夢になる。
生きていく為の支えになる。
約束は、人それぞれの形に変化していくもの。