誇りと傲慢 後篇
突然、自分の信じてきたものが音を立てて崩れようとしている。
そうとしか思えない状況の中、ジェームズは言葉を失い、ただただフォンビレートを見つめていた。
僅か、とも、長大な、とも思える時間の後、フォンビレートは「閣下」と静かに呼びかけた。
静かで、いささかの尊敬の念も含まぬ物言いには「聞け!!」と命じているような迫力さえある。
「御存じでしょうが、私は、貧民街の生まれです。そのため、イッサーラ先生には大変お世話になったものです」
フォンビレートは、彼の言うとおり貧民街、正確にいえば王都の片隅のピョードルフ地区の生まれであった。あった、というよりはそう推測されるだけ、という方が正しい。
彼が物心ついたときには、毎日ゴミを漁って糧を得るような生活であったし、自分が何者なのかを教えてくれる人も傍にはいなかった。
従って、フォンビレートには7才より以前の良い思い出など存在しない。
戸籍に記されている生まれ年も、姓も、全てシシリアによって与えられたものである。彼の養親に記されているのは、カルデア王国そのものであり、彼が愛情を受けていた形跡など一つも存在しない。
残念なことに、貧民街ではフォンビレートのような出自は取り立てて珍しいものとは言えなかった。
住民は孤児か、職にあぶれてしまい明日の糧にさえ事欠く者たちだけであり、この地区の処遇はカルデア王国の長年の課題となっている。早くに整備すべきだ、というシシリアの再三の意見―― これは、王位に就く前からの彼女の主張である ――は、全て貴族たちによって、握り潰されている。
だが、今回に限っては、そのままにされていた貧民街が、自体の収拾に大いに役立った。
フォンビレートは、今回の立ち回りに当たり何十人もの男を迅速に雇うことに成功したのである。
適度な信頼と圧倒的優位でつきつける契約が最も効果的であることを、彼は身をもって知っていた。
「……ごみ溜めが……!」
自分と並ぶべくもない下等な者たちが、フォンビレートのアドバンテージとなって今回の策略を阻んだことに気付いたジェームズは精一杯の侮蔑を投げつける。それも、自分の敬愛するイッサーラさえ反対の立場であったことに気付いたのだから、心中は揺れに揺れていた。
「閣下。ルシアは私であり、私はフォンビレートであり、フォンビレートはルシアなのです」
その言葉にジェームズは身を震わせ、それから大きく息を吐きだした。
観念したように眼を閉じ、椅子にクタリと座り込む。
「イッサーラ先生は…………私を裏切ったのか……」
自らも舞台の演者の1人に過ぎなかった。
それは、ジェームズを完膚なきまでに打ちのめした。
周りの部下たちも急転直下の進展についてゆけず、ある者は呆然と虚空を見上げ、わずかながらに理解の追いついた者たちはこれからを思って自分を保てなくなっている。
その沈殿した空気をフォンビレートはあっさりと断ちきった。
「閣下がこれまでにお話になった策謀の数々は、ルシアが余すところなく聞いております。引いては私が把握しているということであり、閣下は国家に対して言い開きを求められています」
「…………」
「これより、王宮殿に連行いたします。言い開きは王の前でされるとよいでしょう」
ひとまず宣言したフォンビレートは、一度ジェームズから目を切り、取り囲んでいる男たちをグルリと首を回して見やった。
「それから……ここにいらっしゃる全ての皆様も証人、あるいは被告として王宮殿への出廷を求められるでしょう。今日、この場においては任意ですので、ご自由に選択されるとよいでしょう」
王国法にのっとって、フォンビレートは宣言をおこなった。
彼の言葉を意訳するとすれば『自分で死ぬも良し。主を売って自分の保身に走るも良し』ということになり、国家反逆罪の容疑者に対して実に寛大な処置をとっていることになる。
もっとも、彼がやさしさで行っているわけでないことは明白だが、それでも目の前にぶら下げられれば、すがる価値は充分にある提案だった。
ジェームズに対する忠誠心が欠片もない、というような者は存在しないが、敗者になっても付き従い続ける人間などほとんどいないだろう。誰だって自分の命は惜しい。
その気配を読み取ったフォンビレートはさわやかに後方を振り返り、指示を出した。
「連行」
その言葉を合図に、邪魔にならない位置で待機していた王国騎士団が姿を表し、部屋の中にいた者たちを次々と拘束しては出ていく。
4、5分の後、部屋の中には王国騎士団団長と首謀者たるジェームズ、それに王位代理人のフォンビレートの他はいなくなり、部屋の外にも見張りの兵が2名いるばかりである。14、5名は居たであろう人数が居なくなると、部屋は途端に広さをましたように感じられた。
屋敷内では混乱が生じていたが、執務室は、これまでの喧騒がうそのように静まり返った。
「閣下」
静寂を静寂のままにして、フォンビレートはジェームズに声をかける。
そこには、断罪者としてではなく主に対するような念が含まれていた。
まともな裁きを受ければ、二度と個人的に相対する機会はない。ジェームズが潔白で無い限り彼は罪人であるし、仮に潔白ならば、冤罪をかけた張本人としてフォンビレートが罪に問われるからだ。
だから、フォンビレートは、個人として話しかけた。
「あなたは優れた為政者です。忌み色を宿した子供を懐に入れる度胸も、それに対する不満を抑えつける力もお持ちだった。それだけではない、あなたの内政における能力は群を抜いていらっしゃる。実際、あなたの領地は王国内で類をみないほど潤っています」
10年に1度程の割合で、王国は飢饉に見舞われる。
昨年、カルデア王国北東部のほとんどの領地は、不作の年を迎えていた。
加えて、北東部の寒さは厳しい。各領地は本当に危機的な状況であった。
王家の飛び地があるヒデロム領は、北東部内では比較的穏やかな気候であるためそこまで影響はなかった。それゆえ、茶葉の産地オルフェルを除き、ほとんど被害はなかった。不作に関係なく入ってくる、王家からの助成金もその一助になったことは間違いない。
だが、アルイケ領は庇護下にもない中で、領地内にただの1つも不作の畑がなかったのである。
ジェームズが数年前から推し進めていた農地改革のおかげであった。
「それほどに優秀でありながら……なぜ、王位をねらったのですか?」
1年に満たないとはいえ、ルシアあらためフォンビレートから見たジェームズは、ある意味で理想の主人であった。能力はきちんと評価するし、それでいて王国への愛もある。
優れた人材が、野心のために失われるのが残念でならなかった。
「なぜ……か…………」
ジェームズは遠くを見つめたまま、呟く。
「ルシア……お前の言うとおり、王位は王のものなのだ。多くの民族がより集まって出来たこの国には、立場でも権威でもなく、その力で君臨する王が必要なのだ。その点、シシリアはあまりにも脆弱だ……あの女は、人を懐に入れる。懐に入れた者を全力で守ろうとする」
お前もよく知っているだろう?と笑う。
「それは、人として好ましい。だが……王としては失格だ」
そうして、語気鋭くフォンビレートを睨んだ。
「それでは、国民は守れない。国を向上できない……民は今この瞬間にも生きているのだ。王が民全員とお友達になるまでに死にかねないのだよ」
―― そんな王を排除しようとして何が悪い ――
そう続けるジェームズの雰囲気が部屋全体を飲み込んで、身じろぎひとつ許そうとはしなかった。
団長も呑まれて、足に根が生えたようにその場に立ち尽くしている。
「ルシア」と、ジェームズは呼ぶ。「それでもあの女についていくのか?」と、誘う。
それは、ジェームズがフォンビレートの能力を信頼し、彼さえいればこの状況からでも逆転できるという確信を表していた。
「私と一緒に来い……お前の能力は世界を変える…………あの女はお前の力を無意味に浪費して死んでいくだけだ」
時間さえ止まったかのように錯覚する圧力は、カリスマ性を備えた支配者としての彼の魅力を存分に沸き立たせていた。
だが――
フォンビレートはフッとひとつ息を吐いて、懐から書状を取りだし、読み上げる。
「ジェームス=ダイナン=オ・アルイケ侯爵。罪状、国家反逆罪。女王殺害を企てた罪で貴様を拘束する。反論は、法廷にて行え」
そのよどみない動作に、ジェームズは怒り狂って、フォンビレートを問い詰めた。
「……私が、出来ないとでもいうのか!? ルシア」
「いいえ、出来るでしょうね。まず間違いなく」
「シシリアに出来ると思っているのか!?」
「いいえ、今のままでは無理でしょうね」
対して、フォンビレートは冷静に答える。
「では、なぜだ? ルシア……ルシア、私について来い!」
命令張りに放たれた威圧感のある言葉に、フォンビレートはもう捉われなかった。
「閣下。ルシアなど存在いたしません。私は、フォンビレート=メイリー=オ・ペルフェクティオ。シシリア=プレケス=ド・リーベルタース陛下に仕える執事です」
言い聞かせるように言葉を発する。
ジェームズが、わざと『ルシア』の名を呼んでいたことに対する、明確な拒絶であった。
「私は執事であり、主が陛下である限り、裏切ることはないでしょう……主を傷つける者がだれであろうと、私は許しません」
圧倒的な忠誠心。あるいは、忠節心。
先ごろ出ていく部下たちを見ていたジェームズには、シシリアが羨ましく思えた。
「閣下。足りないことは足りないままで終わることの証明にはなりません。……あなたの懸念は正しくとも、あなたの理想は正しくとも、あなたのやり方は正しくないのです」
丁寧に、徹底的にフォンビレートは批判した。
正しく打ち抜かれた言葉に、ジェームズは苛立ちを抑えることができない。
「過程にこだわっていては、大義は成就できん!!」
手負いの獣のように咆哮する。
「では、それまでの人間だということです」
「……な、に?」
「正当に認められるだけの力がない、ということ。そのための有能な部下があなたを慕わなかったということ。どちらも、あなたの嫌いな無能の特徴です」
「……」
ジェームズがルシアを心酔させることができなかった時点で、ジェームズの負けは決まっていたのだ。
それを、髄にまで刻み込ませるようにフォンビレートは言い聞かせた。
これまでのどんな言葉よりも、ジェームズを打ち砕く。
自分の信じていたものが、自分を締め付けたのだから当然かもしれない。
言葉がなくなったことを確認して、フォンビレートは廊下の兵士に連行を命じた。
出ていく背中に、最小限に頭を下げる。
それは、ジェームズの能力を惜しむ気持と、これまで国政を担ってきた男への最大限の礼節をもった仕草だった。彼の最後の歩みが間違っていたとしても、その功績が穢されるものではない。
誰も見ていなくとも、フォンビレートは自身の公正さを一片も崩すことはなかった。
その背に「ありがとうございます」と声がかかる。
パタンと音して扉が閉まった事を確認して、フォンビレートは声の方へと振り向く。
騎士団団長が複雑な色を湛え、こちらを見つめていた。
「あなたの忠節を陛下にご報告申し上げることを約束します。ソーイ=ラルフ=オ・アルイケ閣下」
その言葉を受けて、ソーイは兜を脱いだ。
脱いだ兜から現れた彫の深い顔立ちと浅黒い肌をさらに際立たせるような銀髪は、ジェームズによく似ており、彼らが親子であることを感じさせる。
「父に弁舌の機会を与えてくださったことを感謝いたします」
深々と頭を下げる。
彼が捉えるために動いたことは、この後行われるジェームズの裁判において優位に働くはずだった。
ジェームズもまた、気づいていながらそのことに言及しなかった。
「いえ……親子の別れは無言のうちに行うものではありませんから」
「それでもです。私が直接捕らえないでようようにしてくださったことも、侯爵位を継ぐことができるようにしてくださったことも。感謝させてください」
ソーイとジェームズを含め、最大限の配慮が払われたフォンビレートの手法が見事という他ない。
それを理解しているソーイは感謝の気持ちのまま傅こうとしたが、フォンビレートは押しとどめた。
「こちらとて全く私心のない行動ではありませんから」
単独での逮捕権限を持つフォンビレートがわざわざ騎士団長と騎士団を巻き込んだのは、この先行われる裁判のための布石に過ぎない。事実、フォンビレートは潔白ではないことを明らかにした後、ソーイに一つの仕事を頼んでいる。
傅かれるのはどうにも気持ち悪い。
「それに、どうしてもとおっしゃるなら陛下に……報告につきあってくださいますか?」
仕事を果たした者として、共に。と誘うフォンビレートにソーイは首肯し、一緒に歩き出す。
僅かに前を行くフォンビレートの頭頂部を見ながら、ソーイは数時間前のやり取りを思い出していた。
―― 数時間前
「騎士団長、これから反逆者を逮捕しに行かなければならないのですが、一緒にいかがですか?」
まるで、散歩にでも誘うような気軽さでフォビレートはファーガーソン騎士団の騎士屯所に入ってきたのである。
そのあまりに軽い誘いに、ソーイの周りは剣呑になった。
ファーガーソン王立騎士団は、主に国内の非常事態に備えるために設けられた団である。
そのため、今回のような件に際し、この騎士団が用いられることに何ら不自然さはない。
だが、騎士団長は軽々しく動くべきではないし、たかが逮捕に出向くことはあり得ない。それは、当然のことであり、そのような気軽さの見える、団員からすれば軽んじているとしか思えないフォンビレートに対して嫌悪感を抱くのも無理からぬことである。
そもそも、シシリアやフォンビレートが顔を合わせたのは昨日が初めてのことである。
才に関し一定の評価を得ているものの未だ実力を示してはいない王家の執事と、既に実績ある騎士団長。建前上の立場はともかくとして、実質的に王宮殿内で敬意を払われているのはソーイの方である。
だが、フォンビレートはそんな様子など目に入っていないかのようにソーイにお願いした。
「いや、これは命の危険があるのです。陛下の将来にもかかわります……どうにかついてきていただくことはできないでしょうか?」
その丁寧かつ執拗な頼みを断ることもできず、ソーイは請われるままについてきたのだ。
向かう先が、王都内にあるアルイケ侯の屋敷―― つまりは自分の実家 ――であったことも、逮捕されるのが自分の父親であることも知らなかった。
だから、それが分かった時、ソーイは頭が真っ白になって怒りのままにフォンビレートを詰った。
その詰問に対して、フォンビレートはどこまでも冷静だった。
「私が間違いを犯しているかどうか確かめてはいかがですか?」
「……間違いだったら!!」
「その時は私を中傷の罪で逮捕するか、殺せばよいのです」
「…………」
些かも淀みのないフォンビレートの口調にソーイの頭は急速に冷えていった。
「よく見極めてください。よく考えてください」
「あなたは何を愛し、何を優先し、何に頭を垂れるのか。王国ですか? 王家ですか? 国民ですか? 家族ですか? 栄光ですか? 地位ですか? 名誉ですか? 自らですか?」
「……あなたが、義に沿って歩んでくださることを願います」
たたみかけるような口調の中に見隠れする、切実な思いにソーイはひとまずフォンビレートの指示通りに動くことにした。
そうして踏み込んだ屋敷内にて、父親の願いも主張も知ったソーイは選択した。
誓ったままの忠誠を保つことを。
自分の信じるところに従って歩むことを ――
「フォンビレート様……忠実な友であることを誓います」
彼は、新しく出来た自分の義を胸に抱いてフォンビレートの後をついてゆく。
「……………様をとってくださると大変にありがたいですねぇ」
聞かれぬように小さくつぶやいたはずなのに、地獄耳をもつ執事にはしっかり聞こえているようだった。その願いにこたえて、ソーイはもう一度、ただ一個人として誓いの言葉を述べた。
「フォンビレート。オ・ソーイの名において貴殿の忠実な友であることを生涯の誓いとする」
「ソーイ。オ・フォンビレートの名において、その忠実に忠実を持って返すことを誓う」
後に、この2人は理想の友情を育んだとして大陸中の羨望を受けることになるのだが、それはまた別のお話。