罠の先
帝都フィラデルは、その豊かな国土に比例して華やかだ。
行き交う商人たちは様々な人種があり、その誰もが自由に才気を発揮できる環境がある。もちろん賭けたリスクは自分で負うのだが、それすらも”自由”の一部であるから彼らは一様に甘んじて受けるのだ。
通貨というものが、あるいは”金”というものが、権力に対して媚を売る以上の働きをすることに、庶民達はようやく気付き始めている。
例えば、帝都の一角には、『どんな国の金も両替してみせる』と標榜する両替屋がある。彼らは一見誠実で親切で、機を見るに敏の商人を装っているが、その実だれよりも悪徳だ。
カルデア帝国は随分前から金兌換性を廃止し、含有量を下げている。ところが彼らはそれを帝国の事情に明るくない旅人に隠し、今までどおりに金が多く含まれている国の金貨と交換した上で、”ゴールド”として転売しているのだ。
良くこんなことを考えたな、と賛辞の一つ二つを授けたくなるほどに、庶民はたくましい。
さて、そんな多種多様な商売が軒を連ねる帝都の片隅。
古びたロンドニト料理の店に複数の人影が蠢いていた。よくよく見れば、座しているのは3人の男で、他は全て唯の付き添いである。
そして、その店に踏み込む者がまた一人。
「すまない、遅くなった。最後か?」
「ええ。全員そろい踏みです」
その男もまた、多数の付き添いを引き連れて入り口をくぐる。
「では、はじめましょうか」
「そうですね」
人目を引かないように最小限の明かりだけが灯された部屋は、彼らそれぞれの雰囲気を背負うかのように濃密だ。
「私の元に書状が来た」
これだ、と言って一つの陰から紙が踊りでた。
「私の元にも書状が来た」
「私にも」
「おや、奇遇と言って良いのか分からぬが、私にもだ」
その紙へ向かって、さらに3枚が踊る。乾いた音を立てるそれは、なにがしかが朽ち果てたように力なく落ちて重なった。
「この国はもう少し賢いと思っていましたが……」
「左様。この程度で我らに皹を穿てるとでも思っているのだろうな」
「全く愚かと言うしか仕様がない」
口々に手紙の差出人を悪し様に罵る彼らの顔に浮かぶのは、一様に侮蔑にまみれた微笑だ。
「まあ、そう言うな。知恵を絞っているのだ」
一人がわざとらしく取り成して見せると、それすらも芝居の一場面のように、はっと鼻で笑ってみせる。
軽く肩を竦めてみせ、参ったな、と演じて見せた。
「では、これは一致して無視ということで。よろしいですかな?」
「異議なし」
「同じく」
「もちろんですとも」
互いの顔を見合わせて頷きあうと、それぞれの手へ元通り戻っていく紙。
ではまた。と誰が出したかも知れない挨拶と笑みが交わされる。
集ったときと同じ静けさで、ばらばらに出て行く彼らを見つめる一対の瞳。
それが彼らの崩壊への一歩であると、このとき誰も気付いてはいなかった。
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カルデア帝国の夏は暑い。正確には、『帝都以南』と限定がつくが、概ね暑いことで知られている。ヒデロム領を中心に避暑地として名高い場所もあるにはあるが、その評価がカルデア帝国全土に対するものとして定着しない程度には、全土を陽が覆う。
もちろん、暑いからと言って、政治は停滞しないし、軍人が任務を放棄することもない。市民が自らの手を休めることもない。皆、生活しなければならないし、守らなければならない誰かが居れば尚のことだ。
ただし、本人の意思とは関係なく、手を休めざるをえない者たちも確かにいる。
例えば、主にワルメールを拠点とする冒険者。冬の間ずっと、温暖な森にもぐりこむが、猛暑の中をいくなど自殺行為に等しいため、一部の狂人(狂人たる冒険者から『狂人』と呼ばれる本物の馬鹿たち)を除き、休業になる。
例えば、競技会。酷暑の中を開いたところで、誰かが見に来るわけでなし、必然的に休業となる。もちろん、選手達は訓練に余念はないが、実質休業者の一人だ。
そして。
「さっぱり売れねぇなあ」
申し訳程度に頭を覆う木の下でため息を吐く男もまた、休業者の一人である。聞けば判るとおり、その生業は商人だ。
「……おい! そっちはどうだ?」
「あん? 売れると思ってんのか馬鹿!」
何とはなしに左隣に声をかけても、罵声が飛んでくるばかり。
だよなあ、と思いつつ右隣の商店に目を移せば、皆似たり寄ったりで、安堵するやら悲しいやら。
暑ければモノは売れない。それはごく自然で単純な真理である。
皆、外には出ない。動かない。結果、モノは売れない。かといって、全く売れないわけではないので仕入れを怠ることも、例えば一月休業するなんて冒険者のような豪気なことも出来ない。
朝から真面目に仕入れ、夕方涼しくなってきた頃にちらほらと現われる客に叩き売る。それが、商人――特に傷み物を扱うものたち――の毎年のサイクルであった。つまりは、毎年の悩みの種である。
時刻は15時過ぎ。
彼の扱う野菜が萎び始めたと同時に太陽がゆっくりとその熱を収めはじめたようだった。今日も、これを買い叩かれるのかと思うと、文句の一つや二つも付けたくなる。
そろそろやってくるだろう客の呼び込みをすべく重い腰を上げたところで、向かいの店が目に入った。
それにしたって、と無意識のうちに紡いだ自分の接続語に苦笑いをこぼす。
特別繁盛もしていないが、閑古鳥が鳴いているわけでもない、安定した商売をしている店をじっと見詰めて最後までつぶやく。
「それにしたってやつらは……」
いいよなあ、とあからさまに羨ましそうな顔をしている店主を小ばかにしつつ、ジュエル大商会の会頭・ピネハスは、自らの思考に再び沈んでいった。
お前らとは違うんだよ、と吐き捨てる。今日明日のみみっちい商売について考えているのではない、大勢を考慮に入れて動いているのだと、無言で毒づいた。
ピネハスを悩ましているのは、2つの政府からの書状だった。
1通は、ロンドニト政府からのもので、3枚にわたる指示書である。貿易局局長名で書かれており、長々と書いてあるが、つまりは、「何かあったら自分で判断せずに政府に伝えるように」ということである。
もう1通は、カルデア政府からのもので、これはただ1枚きりだ。差出人は、内務局である。
カルデア政府は8部25局によって構成されているが、内務局は総務部に所属する1機関であり。名前の通り、王国内のあらゆる雑事を扱う部署であった。つまるところ、何でも屋の中の何でも屋からの書状というわけだ。その内容は『昨今の国内事情を鑑みるに』から始まり、国内における塩の必要性、その取引状況を述べた後、であるからしてカルデア帝国政府は一括でジュエル大商会と取引をすることを望む、という言葉で締めくくられたものだ。
「さて、どうすべきか……」
二つの書状を机上に並べ、ピネハスは考える。
塩の取引は、ロンドニト政府によって保護された寡占取引である。したがって、競合が起こることもない旨味の多い取引の一つであった。最も、ジュエル"大"商会とも冠している商会が塩一つで成り立つはずもなく、それはそれは手広い商売を行っている。その中で、利益率の高い、言い換えれば大した苦労もしない商売の一つ、と言うことである。
塩の寡占取引を認可する、と政府が発表した時、ロンドニト国内は大いに沸いた。
それはどの商人にとっても、百利あって一害もない、そういう商売であることが分り切っていたからである。その利権を手にするためにピネハスが払った努力は、一晩では語りつくせないほどだ。彼が払った金、ばら撒いたと表現しても差し支えのないほどの大金も同時に費やした。
その戦いに勝ったことで、ジュエル大商会は、ひいてはピネハスは、多大な力を得たのである。
だが、今。
「挑まれることになるとは、な」
その力に足掻こうとしている者が居た。
ピネハスはこれが、再びの大勝負であることを予感している。
目の前にある2つの手紙。
ロンドニト政府とカルデア政府からの手紙。
一方は、これまでどおりの関係を求めている。
これを選ぶことに大きな利益はない。代わりに、大きな瑕疵も負わない、無難な選択。
一方は、罠を仕掛けてきている。
浅知恵と呼ぶほかないような罠だが、これに乗るのもまた一興。
「どちらを利用すべきか……」
自らの力、自らの実績、自らの駒。
その全てを計算に入れ、ピネハスは一つの決断を下した。
どちらを選んだところで、私に大きな影響はないのだ。
ならば――
その日、ピネハスの下した決断は、ピレネー大陸の勢力図すら書き換えるものとなった。
今は、まだ。
誰も知らない。