生きるとは
コルベール暦1549年のある冬の朝のこと。
帝都ペンタグは建国の祝賀のために華やかに彩られていた。
1年前の今日、神聖クメール帝国におかれていた暫定政府は解散し、カルデア王国に併合された。その際、カルデア王国はカルデア神聖大統一帝国と名を変え、その領土をピレネー大陸第1の国としたのである。女王であったシシリアは、女帝へとその肩書を変えての治世の1年が無事に終わっていた。
クメール人の受け入れも進んでいる。
彼らの宗教に寛容にすることは難しかったが、崇拝の場を限定することでなんとかなった。彼ら自身への迫害の目についてはある程度仕方のないことである。直接的な暴力でない限り、訴えを受理することのないように、と各部署へ申し渡してあった。と言っても、クメール人自体が自分たち以外に対してよっぽど差別的振る舞いをするので、むしろクメール人への教育が先か、と思わせるほどである。
「寒いのに熱心ねえ」
「おめでたい日、というのは全力を尽くすだけの価値があるかと」
紅茶を片手に呟かれた、シシリアの多少失礼な言に、傍らに居た執事は静かに返した。
その声は、かつて天上の調べとも謳われた美しさを失い、ほんの少し聞きずらくなっている。それでも、その執事を手元に置いておきたいと願ったシシリアが、言葉の仔細を聞き逃すことはあり得なかった。
「……そうね」
言外の意味、その深い自責の念まで感じ取れるが、それに触れることはしない。下手な慰めは必要ない、というよりは、それがフォンビレートに必要なモノであり生涯片時も離してはならないものであると、シシリアが考えているからである。
あの日。
レライに何を望むか、と聞かれた時。
シシリアは心の奥底に仕舞こんでいたはずの言葉を辛うじて呑みこんだ。それが為政者として全く正しくないと解っていたからである。なお、こぼれ出たのは希望にすがる一言だった。
―― 生きていてほしい ――
二度と自分のそばに居なくてよい、ただ生きていてさえくれれば。
そんなシシリアの傲慢ともとれる一言を聞いたのち、レライはその時受け持っていた一切の業務を他に振って、自分は舞台を整えるために出て行った。
そして、戦争が終結したという報告を聞いて2日後、帰ってきたレライの傍にはフォンビレートが居た。喉を潰していて言葉は聞こえなかったが、雄弁に語るオッドアイに、シシリアは語りかけた。
「Inter arma silent leges」
それは古い言葉で語られた格言。
今なお、誰が語ったかすらわからない、謎に包まれたその格言をシシリアは差し出す。
聞いた瞬間、瞳の色を濃くしながら瞬いたフォンビレートに、やはり知っていたかと思いながら。
「戦争の間、法は沈黙する。ゆえに、王は法に成り変わることが出来ると私は確信する」
その論理が捻じ曲げたものであると解っていて、シシリアは赦しを与えた。
「フォンビレート。お前を産んだ胎を私は祝福しよう。お前を育んだ父を私は称賛しよう。……誇るが良い。お前は王をも動かしたのだから」
それは特赦を与える際の王が述べるべき儀礼的言葉だった。
つまりこの瞬間、フォンビレートは全ての罪からの断罪される期間を終えた、ということであった。
「…………」
返事は一筋の涙で返ってきた。
その日から数えて、1年が過ぎ去った。
フォンビレートは奴隷としての刻印が押されている。
今現在、奴隷に刻印を押すのは非道だという批判もあって既に廃れてしまった風習だが、フォンビレートはそれをシシリアに望んだ。
その肩におかれたのは、アリス。
イジュール家にではなく、今や帝国となった国でもなく、シシリアの所有物としてフォンビレートは存在するようになったのである。加えて、童話のアリスのように、只仲間であれ、という無言のメッセージをも含んでいる。
その刻印を目にしたときのフォンビレートの表情をシシリアは生涯忘れないであろう。
あの喜色に富んだ顔は、もう一度信じる根拠として十分だった。
「貴方も式典には出席するのよ」
「御意」
短く吐きだされたそれが、裏切りに変わったら、今度こそシシリアはフォンビレートを殺してしまうだろう。それを好としたのがレライであり、シシリアの権利である。
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「中将!」
「……ん、あ、私か」
「そうですよ、中将。いい加減に慣れてください」
自分の副官のうち、若くて元気が良い方が、足早に自分に近づいてくるのを、エルーはものぐさな仕草で見やった。昇進して早半年が過ぎたが、未だに成れない。
繰り返すが、エルーは一介の商人の娘である。いくら実力主義の陸軍と言っても、こうまで平民の人間が出世した前例など皆無だ。加えて、エルーは仕事に対する相応の熱意を備えているが、それが出世欲に結び付かない、数少ない人間である。つまり、この度の恩賞、誠に持って有難迷惑なのである。
「今、有難迷惑などという不穏な単語を思い浮かべませんでした?」
「……いや?」
年を取ってダルさ加減が良い具合の副官の方が、声を低くして聞いてくるがしらばっくれておく。
「……」
眼光の鋭さからいって、ばれている気がしないでもないが、そこは無視しておくのが無難だろう。エルーにだって、多少の誇りはある。部下の一人から視線で殺されたなどと言う不名誉は負いたくない。
「で、用事は?」
「はっ。式典の準備が整いましたので、所定の位置へ願います」
「ん」
気のない返事を一つ返して、エルーは副官の後に従った。
皇宮殿の廊下はどうしてこうも長いのだろう、という至極どうでもいいことに思考を費やしながら歩く。窓を見れば、1年前に増して激しく降り積もる雪のせいで、1面曇っていた。
何の気なしに窓に近づき、少しばかり視界を確保して ―― 見なかったことにして再び歩き出すが、若い副官はその一連の動作に不自然さを覚えたようで、背後から覗きこもうとする。
「やめておけ」と短く制しておいて、エルーの思考はあの日に飛ぶ。
あの日。
あの高貴な背中を見送った時、軍靴の音しか残さずに消えた筆頭執事に、エルーは戦争終結後しばらくして会う機会があった。たった一言、すまない、と残す其の人とすれ違っただけだけなのだが、エルーには何となく事の次第が解ってしまった。
詳しいことは解らない。けれど、多分、咎をその身に溜めてしまったのだろう、と思った。
それから、赦されてしまったのだろう、とも。
エルーが幼いころ、店の売り上げを誤魔化したことがばれてしまった店員が居た。彼は必死に謝って許されたのだけれど、ずっと苦しそうだった。小さい頃はそれが何故なのか、解らなかったし、時折それを口に出すこともあった。父も母も、もう気にしないほどに立派に働いていたから。
けれど大人になって、エルーにはわかるようになった。
罪とは帳消しにならないのだと。
彼が尽くした功績は功績であって、罪を消すものには決してなりえない。改心してしまったからこそ、彼を苦しめて追い詰めていたのだろう、と。
結局、その事に気付いていた父が独立させてやった後も、彼は時々思い出したように訪れる時がある。
昔と変わらず、どこか苦しそうに笑いながら。
赦されることが断罪されることよりも苦しいことがあると、大人になったエルーには理解できている。
「行くぞ」
「あ、はっ」
だから、窓から見下ろした哀惜を背負った背中を見て見ぬふりすることが、今のエルーには出来るのだ。
「また寒くなりそうだな」
「……はっ」
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「エリザベス、本当に良いのか?」
「ダン様、心配してくださってありがとうございます。けれど、このようなおめでたい日に出なくては、皇族とは言えませんわ」
「それは、そうだが」
大広間に向かいながら皇太子夫妻は和やかに会話していた。
周りからすれば、和やかではなく、アマ甘であるが、それは些細な認識の違いというものである。
「……まあ、お前が良いと言うなら良いのだが」
「はい」
さりげなくダンの腕をとるエリザベスの頭は、満面の笑みだ。
その顔にどこかホッとしたものを覚えながら、ダンはエリザベスが意識を取り戻した日を思い出す。
彼女が意識を取り戻したのは、フォンビレートがメリバに来た次の日のことだった。
目覚めた彼女は ―― 記憶を失くしていた。
「なんだか、とっても悲しい夢を見ていたような気がするのです」
「そうか」
「親しい友人に別れを告げられたような」
「……そうか」
エリザベスが語れたのは、たったそれだけのことだった。
後は、自分が暗殺されかけたことさえ覚えていなかったのである。
そのことが分かった時、ダンの胸には安堵しか去来しなかった。
良かった、本当に良かった。恐怖や痛みを覚えていなくて。自分やルイズを覚えていて。本当に良かった、と。
だが、1日経ち、1週間経ち。
ダンの胸には疑念が渦巻き始めた。こんなに都合のいい話があるわけがない、と。
何度も考えるうちに、ダンの思考は一つの結論を導き出し、それからそれに関して一切の沈黙を守ることを決定した。
多分、あの男が何かしたのだろう、と。
何か、が害意になることならともかく、あれは『感謝を』と言った。嘘をつかない男がそう言ったのだから、そういう事なのだろう。
自分が触って良いことがあるはずがない。
そう結論付けたのは、エリザベスが目覚めて2週間後のことである。
一度、フォンビレートに話しかけたことがある。
その時の彼の答えは見事だった。
「エリザベス皇太子妃殿下は、二度と恐怖を思い出されることはないでしょう」
ご安心ください、とは付け足されなかったが、フォンビレートの瞳に納得させられるものを感じたダンは引き下がった。そして、それは今に至るまで現実のモノとなっている。
「……エリザベス、これからも私の傍に居てくれるか?」
零れ落ちるように出たその問いに、エリザベスは目を丸くして答えた。
「まあ、疑っておいでですの?」と。
ダン=ウタヤ=ダ・イジュールは生涯、愛妻家で有り続けた、と後の皇帝ルイズは語っている。
それは誰の疑念も起こさせないほどだった、と。
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ミスタリナが所持する舎の一つには2つの人影があった。
皇宮からは遠く離れたこの場所は、静けさに満ちている。
女の前に跪くのは隆々とした体を持つ男。
其の全身で女を守り抜いたのは遠い日々ではない。
「おれと、結婚してくれないか」
「……」
「お前の罪を共に背負うのを、許してくれないか」
返事がどうであったか、本人たち以外、知る術はない。
ただ、その数年後、騎士団中から羨望の眼差しを受ける両親の元に、将来を恐れられる赤ん坊が誕生したことは一片の事実である。
「寄るな! あくどさが移っちまう!」
そしてその赤ん坊を、猫可愛がりした悪魔が居たこともまた、厳然たる事実なのであった。