雪に散る。 前篇
眼前に転がる法皇ラプツェルを見て、その縛られた様を確認する。
彼がこれから掛けられる裁判は、どこまでも辛いものになるだろう。死は、何にも代えがたい苦痛を生み出す代わりに生から一切を解き放ってくれる。その生からの解放を渇望したラプツェルにとっては、本当に辛く長いものになるだろうと、フォンビレートには解っていた。
国家と国家の戦争を終結させるのに必要な手順だ、とも。
恐らく彼は裁判にて数々の罪状を読み上げられ、死刑判決を言い渡され、遺族によって石打にて殺害されるだろう。その時、この人が、ラプツェルがどのような顔をするのかフォンビレートは今から予想できる気がした。
困ったような、この世全てに同情を請うような顔で死んで行くのだろう。
それを見届けることが出来ないのは少しばかり残念だ、とフォンビレートは思う。その死に顔を見届ける義務を果たせないのは、本当に申し訳ない、と。
フォンビレートにはラプツェルと同じほどの罪があるが、そのために裁判に掛けられるとすれば、カルデア王国政府への信頼は地に堕ちる。だが、罪を帳消しには出来ない。したがって最善手は、フォンビレートがここでひっそりと命を落とし、戦没者の中に消えていくことだった。
本当に申し訳ない、同じだけ罪を背負えなくて。
自らの喉へ向けてフォンビレートは刃を振り降ろしながら、何度となく思ったことを繰り返す。
―― 違う時代に生まれていたなら、貴方も幸せだったでしょうに。
―― 違う国に生まれていたなら、貴方は正気であったでしょうに。
―― 同情できるところは数あれど。
―― それでも、貴方と私は。
―― 正しく、悪だった。
不意に梯子をはずされたような浮遊感を感じて、フォンビレートは目を開けた。
喉に食い込んだ刃と自らが持つ柄、その間に空間が出来ていた。
なぜ ――
「間に合った」
その声は、フォンビレートが掌で転がしたはずの男の声。
「ええ、間に合いましたね」
「間に合ったな」
「間に合った」
息も絶え絶えに話す男たち、いや女も混じっている? この凄惨な現場にはあるはずもない声が幾重にも折り重なって奏でられている。
あり得ない、あり得ない。
彼らは。皆。
「な…… お、ち」
刃が既に声帯を破っていたせいで、満足な声は出ない。呼吸も苦しい。
けれど、死に至るほどの致命傷ではない。
フォンビレートは懸命に振り返った。その刃がなお一層肉に食い込み苦しさを増す。
「な」
それ以上声は出なかった。
そこに居たのは、フォンビレートが全てを計算の上で、ここから遠ざけ、その終末さえ予期していた者たち。間断なく呪いをかけ続け、動かし続けた者たち。それが、なぜ ――
考えるより先に、延髄まで刺し通そうと体を投げ出す。
「残念だが、お前の負けだ」
あと数センチ、その差でフォンビレートは命を永らえた。
「な、か、……ク」
「もうお前の好きにはさせん」
フォンビレートの体を受け止めたクイートは獰猛に微笑んだ。
獰猛な、檻から出されたばかりの空腹に苦しむ獅子のような、凄みさえ感じる笑みである。
おそらく、フォンビレートの短刀を折った剣だけを帯びてここまで疾走してきたのだろう。その体に武器は何一つとして背負われてはいない。
けれどそれを補って余りある殺気がクイートの内側から滲み出ていた。広間を覆うほどに、宮殿さえも覆うほどに。場に居る一騎当千の猛者たちを凌駕するほどに。
そしてそれはフォンビレートの身動きを一時的とは言え、抑え込んでいる。
「フォンビレート、お前に選んだ死など呉れてやらん」
宙に浮いたままだった腕を捕えて後ろに回し、縛る。
フォンビレートの口から血が吐き出されるが、音には成らず、ただ荒い呼吸が抗議を伝えるのみだ。
全ての血を吐き出し、ようやく自由になった口腔から唸り声のような空気音が断続的にフォンビレートから発せられても、クイートは小揺らぎもしなかった。
「お前をおまえ自身の手によって死なせたりはせん」
温情の言葉と思えるほどに温かく、その実、フォンビレートがかつて行ってきた宣告と同じほどに冷酷にそれを突きつける。
普段の知性をかなぐり捨て、飛び掛らんばかりに目を爛々と輝かせるフォンビレートを見下ろしながら、クイートはつい先に出会った人々のことを思い出す。
ある高潔な騎士団長は呟いた。
「友を生かしてください」、と。
ある麗人は尊大に真剣に持ち掛けた。
「あの阿呆は、家の使用人でね」、と。
―― それは、多大なる甘さ。
ある少将は語った。
「あの人のおかげで私はここまで上ってこれたのです」、と。
ある冒険者は自慢した。
「これで冬が越せるってもんよ」、と。
―― それは、感謝。
ある青年騎士は誓った。
「もう一度、手合わせしてみたい」、と。
ある幼子は父の腕に抱かれた。
「あの人と、大人になってから話がしてみたいです」、と。
―― それは、憧憬。
ある伯爵は言い表した。
「あの男は、この国で生きていくだろう」、と。
ある王都の知恵者は進言した。
「それでも、あれは必要です」、と。
―― それは、確信。
ある女騎士は請願した。
「あの方を解き放ってください」、と。
ある執事補佐は祈願した。
「あの方に、償う機会を下さい」、と。
ある王族は記憶の中で切に願った。
「あの方を、無き者にはしないで下さい」、と。
―― それは、叫び。
ある10人隊長は遺い残した。
「あの子を、どうか自由にしてください」、と。
ある役人はそれを受け取った。
「これが真実であるかどうかの保証はありません」、と。
ある未亡人になった女は震えながら伝えた。
「夫の言葉が真実だと、私は知っています」、と。
―― それは、僅かな赦し。
そして。
ある主であり、保護者であり、王である女は。
クイートは思考を浮上させ、すぐさま自分の果たすべき分を全うすべく声を上げる。
「カルデア王国君主・シシリア=マイアー=ド・イジュールよりこの言葉が発せられている」
慎重にフォンビレートの様子を伺いながら読み始めて ―― クイートは呆れてしまう。
あれほどまでに獰猛な気配を纏い、クイートと周囲を取り囲む者を威嚇していた男が、シシリアの名を出すと同時に、瞳の輝きを消してしまっていた。フォンビレートが絶対の忠誠を誓い、だがそれより彼方むかしの約束の為に、果たせなかった自責の念。
彼らが数多痛烈に非難した愚物たちと同じ位置にまで下がったことへの深い悔恨の情。
それらが、クイートの縄よりも強固な鎖として執事を制御したことに、クイートは呆れてしまった。
「……フォンビレート=メイリー=ダ・エルバルトに対して、国家反逆の罪により死を求める」
その宣告にフォンビレートは微笑を浮かべた。
シシリア様はそれがお望みかと思い、最後の最後に誤らなくて良かったとも思った。
公の死が必要ならば、それを立派に全うしようと思った。何しろ、フォンビレートがシシリアの為に行えることなど、あと幾つもないのだから。
シシリアの望むがままに、殺されよう、と思った。それが私に出来る最期の。
全てを受け入れるため、フォンビレートが拝受の姿勢をとろうと片膝をつこうとした ―― その時。
「この件に関し、裁きの座を開廷する!」
思いもよらぬ言葉に、フォンビレートは膝を突くことも忘れ、クイートを見上げた。
その視線に小さな優越感を感じながら、クイートはニヤリと底意地の悪い顔を見せる。
「まさか王国法の規定を忘れたわけではないだろ?」
忘れるはずがない。忘れられるわけがない。
フォンビレートは冷酷であり、シシリア以外に真の意味での同情心を寄せないが、それでも貫くべき公正さは身に着けている。国の為と称して葬った者について一切の後悔はしないが、葬った事実を消したりはしない。記録に残らないそれらを、フォンビレートは細部に至るまで記憶している。
それが、フォンビレートが死者に対して持つ唯一の掟だ。
だから、忘れるはずがないのだ。
その法律は、コールファレスを迅速に処刑するために準拠とした法なのだから。
「『緊急と認められ、かつその場に常の裁判を執り行うことのできる者が立ち会う場合に限り、王家所有の屋敷を裁判所として用いることができる』何条か覚えてないが、そんな法律があったよな?」
クイートの笑みとともに、つい先に自らの声で下した宣告が思い出される。
『暫定政府の設立を認証する』
重要なのは"政府"ではない。"暫定"なのだ。仮の処置として、カルデア王国と完全には切り離されては居ない、しかし行政上は別区分の政府が仮にではあるが、今現在、確かに存在しているということだ。
あえて言えば、今この宮殿は、「カルデア王国内クメール自治区」という位置づけになる。
そして自治区である以上、法の上ではカルデア王国法に従わなければならないが、その法律に対する裁量権は有することを許可されていることになる。
つまり。
王国法第34条に規定された、緊急事態に際しての裁判の手順については王国法に則らなければならないが、実際、誰が認め、誰が裁判を執り行い、どの場所で行うかに関して、全ては暫定政府の首長に一任されているということだ。そしてその決定は、暫定政府が解散されたとしても、法治国家であることを標榜するカルデア王国が取り消すことはできない。
だから、シシリアの宣告ではなく言葉、定めるではなく求める、であったのだと、フォンビレートは遅れて理解した。
理解すると同時に、考える。
この法を駆使した、決してシシリアのこれまでを傷つけない舞台を作った者は誰か。
かつての反逆者であり、今に至るまで有能な執政官であり、本国における王位補佐であり、生涯我が傍にあれと、女王より命じられた男。
フォンビレートであっても認めざるを得ない、その手腕の数々。
「暫定政府執政代理・ジェームズ=ダイナン=ダ・レライ」
「……」
クイートが読み上げたその名と、その顔を確認して、フォンビレートは嗤った。