花に散り、
残酷描写が入るため、15歳未満の方はご遠慮ください。
次の回は、この話を見なくても良いようにつなげてあります。
一体、どれだけの人間が無念さを噛み締めたことだろう。
死人となったのはクメール人だけだ。それは間違いない。彼らは全ての事情を知って、フォンビレートに従った、それも間違いない。彼らは自らを戦士として戦いに赴き、それでも、出来るならば自らの手でラプツェルの首を刈りたいと願った。壁の向こう側の"卑怯者"を殺すために進んでいった。
それでも彼らは無念さを抱き、無念を抱く家族を想い、自分の運命を呪っただろう。その運命に抗おうとする自分を笑っただろう。
なぜなら ―― 人は感情を持つ生き物だからだ。
「猊下」
雨と2人の息遣い以外は何も響かない広間。
昔は憧れて、怯えたものだと懐かしく思い出すその場所。皇座は遥か彼方にあって、そこに座る人は聖人君子であり、救世主であると疑わなかったその場所。
子は懐から短刀を取り出して、その父に視線を投げかけた。
あの時と変わらず悪意を器用に隠した法皇を、あの時よりも狂気の進んだ哀れな男を、その瞳に捉えて、柄に力を込める。
「神聖クメール帝国法皇ラプツェル14世」
子は子でなくなり、フォンビレートがそこに姿を現す。
一切の尊称を捨て、戦勝国の代理人としてその場にいることを明確にする言葉。ラプツェルとの間にあった、捨て切れなかった情けを取り払う言葉。
「カルデア王国は貴様を罪に定めた。これより裁きのために引いていく」
ラプツェルを、クメール帝国の最高君主を縄目にかけるため、フォンビレートは紅の絨毯を歩む。
暗鬼として最期の仕事を何ら過不足無くやり遂げるために、噛み締めて、フォンビレートは進みラプツェルの前に立った。
宝石のようだと評される眼は、ラプツェルの姿をもはやモノとしてしか認識していない。
「そんな美しい刃で貫いてくれるのか?」
上がった声をなんと評せばいいのか。
無邪気で甘くさえある口調が見苦しい駄々を捏ねるその様を、なんと表せばいいのだろう。
美しい、とラプツェルが評したその刀身は、幾人もの血肉を吸った暗鬼の刃にふさわしく、邪気が纏わり付くがごとく漂い、鈍く滑っている。常人ならば近づきたいとさえ思わないだろう。
その、人殺しの刃の見本のような輝きを放つそれを、美しいと表現するその男を。
魅入られたようにゆらりと動き、それから目を離さない男を。
どんな蔑称も、どんな罵倒も、決して届かないとさえ思わされるその醜悪な男を。
何と言えば、十二分に述べることが出来るのか、フォンビレートには検討もつかなかった。
一歩、また一歩とフォンビレート、というよりは短刀に歩み寄るラプツェルは既に笑みを隠そうともしてない。これまでの20年を思い描き、待ち続けた日々を思い、叶えられるその瞬間を最大限の喜びとともに迎えようとしている。
辿りついたその先で、ラプツェルはゆっくりと手を伸ばし ―― 叩き落とされた。
ゴトリ。
重量のある音とともに、すぐに鮮血が滴り落ちる。
「の、の、のぁああああぁぁ!!!」
ラプツェルの絶叫は、むなしく豪奢な調度品に当たって吸収された。
何も掴めなくなった右手が空を切り、左手で痛みを抑えようとする。その様を、フォンビレートは顔色一つ変えずに見つめていた。
これまで国の敵を葬ってきた歳月を裏切らない完璧な動作で、ラプツェルに傷を付け、冷静にその状態を観察する。
そこには一切の同情も憐憫も、躊躇いも苦闘も、存在していなかった。
「貴様を生きたまま最高法廷に引き出せ、と陛下から厳命が下っている」
喉を潰して声をなくし、ついで両肩を砕いて動きを止める。
耳障りな声が聞こえなくなり、後には雨の音と血が床を這う粘着質な音だけが残った。
「楽に殺されるなどと、甘い考えは持たぬがよい。貴様は、大罪人なのだから」
侮蔑に満ちた言葉とともに、ラプツェルは床でもがき苦しんだ。鮮血が放物線を描いて飛び散る。
血で覆われた地を軽快な動きで踏みしめ、罪人として縛ってから、フォンビレートは女王の宣告の入った封を開いた。
「今をもって神聖クメール帝国はカルデア王国の支配下に入った。よって、カルデア王国君主シシリア=マイアー=ド・イジュールの名を以って、ラプツェルの神聖クメール帝国への支配権を剥奪する。併せて、ラプツェルに対し、カルデア王国の最高法廷への出席を厳命する。裁判は1週間後。異議を持たぬのであればこの宣告書に判を押せ」
高らかではなく、厳かでもなく、不自然なほどの自若さでフォンビレートは読み上げた。
ラプツェルは、声なき声で震え、自分の計算が違えられたのか進んでいるのかを確認する余裕すら持てていない。自分の命運が自分に握られているときとは比べものにならないほどの恐怖、知らない男が目の前にいるという恐怖が、彼を蝕み、
「失禁したか」
状態を確認するように一言発し、右手に歩み寄った。その掌を一度血の中に落とし、それから親指を宣告書に押し当てる。血判、と呼べなくも無い朱色を眺め、それが法令上問題が無いことを確認してから懐にしまった。
「これをもって、神聖クメール帝国内部の政府は全ての機能を停止する。変わって、正式な併合が行われるまでの暫定政府の設立を認証する。宣告は以上だ」
一通り言い終えると、フォンビレートは満足げに笑い、幾許かの後無表情へ戻る。
それから、意識を失ったラプツェルの状態を確認しにフォンビレートは近くに寄り、腰を下ろした。
切断面を清潔な布で覆って止血した後、傷薬を細かな傷へ塗る。全体を眺め、ペンタグに着くまでもつだろうと考えて処置を終わらせ、一つ息を吐き出した。
艶麗と描写しても差支えが無いであろう涙で汚れた頬を綺麗に拭いながら、小さく呟く。
「貴方は」
もはや罪人として扱わなければならない男に救い出されたあの日から今日に至るまで、フォンビレートは駒以上になりえたことは一度も無い。何度も謝罪は為されたが、そのどれにも心が無いことぐらい幼いころからわかっていた。
唯一人の主を見つけ歩んできた16年を想い、それでも。
「貴方は、私の救い主だった」
あの日、ラプツェルが牢にやってこなければ、フォンビレートは間違いなく肉の塊になっていた。日々の食事と引き換えに足掻くことは無かっただろう。心を持つことは無かっただろう。
皮肉なものだ、と思う。
ラプツェルの庇護を受けてフォンビレートは人になり、人になったゆえにラプツェルを裁かなければならなくなった。全てをかけて愛したその男が、ただの醜い男だと認めなければならなくなった。
ラプツェルが読み違えたのは、戦局でもなく、筋道でもない。彼が読み違えたのは、人、だ。
人が人に出会ったときに変わること、人が信じるものを変えるときがあるということ、人が清直になりえるということ。その、人というものを見誤ったということがラプツェルの間違いの全てだ。
カルデア王国に渡ったたのは、ただの物体ではない。自分の力で考え、動き、貫く能力を持つ人間なのだ。誰一人掛けることなく、皆、そうだ。
彼らはカルデア王国で愛する者を見つけ、ある者は家庭を持ち、ある者は友情を築き、生活を営んだ。それは、たかが数瞬の邂逅に握りつぶされるような薄っぺらなものではない。たかが皇ごときに左右されるものではない。それをラプツェルは理解しようとしなかったゆえに、血達磨になった。
そしてその評価は、正しくフォンビレートを打った。
「結局、私は貴方にしか成りえなかった」
フォンビレートは同じ愚を犯した。
ラプツェルの執念や憎しみや手段、ともにカルデア王国に来た者達の愛情を見誤った。
仮に、フォンビレートがラプツェルの動きに常に注意を払い、それを止めたいとに願い出ていれば、あるいは結果が違っていたかもしれない。否、確実に違っていただろう。
結果はそうではなかった。
情と沈黙でしか縛れなかったフォンビレートでは誰も手を貸そうとはしなかった。フォンビレートもまた誰かの手を借りようとはしなかった。自らが最も頭脳に長けていると誇る余りに。
見誤ったゆえに、フォンビレートはこの場で全てを無に帰すために動かなければならなくなった。
見誤ったゆえに、フォンビレートはこの場で命を贖いとして差し出そうとしている。
「私は貴方に敗北し、貴方は私に敗北した」
似たもの同士の相打ち。
なんとも笑えない、滑稽な喜劇へと成り下がった物語。
せめてその終幕を美しく飾るためにフォンビレートはここに立っている。
天上を仰げば、豪奢なシャンデリアが2人の姿を余すところ無く映し出している。
紅を凌駕する真紅。法衣の白亜。闇のように靄のかかる黒。一枚の絵画のように配置された色はまるで、散りゆく花に良く似ている。
そこまで考えてフォンビレートは笑った。
この期に及んで自分を清いものに例えようとする自らの性根と、自分の生きてきた道の全てをあざ笑って、高らかに哄笑した。むなしく消えてゆくと知りながら目一杯笑って、笑った。
―― 私は悪だ。
動くことのできない、ピクリとも動かないラプツェルを鏡越しに睥睨しながら心の中でもう一度。
それから返り血を浴びた自身の顔を袖で乱暴に拭い、もう一度。
―― 貴方と私は正しく悪だ。
血だまりの中でフォンビレートは短刀を振りかざした。