裏切りと裏切り 前篇
シシリアにとって最も重要でかつ最も興味を惹かれるのは、ダンでもなくエリザベスでもなく、フォンビレートの全ての言動である。仮に彼女がフォンビレートの主人として出会わなくとも、惹かれてしまうと認めてしまえるくらいには、傾倒していた。
一を聞けば千を知る、という形容はフォンビレートにあって正しくない。
彼は一を聞けば千を知り、万を操って膨大な数の選択肢の中から、自分にとっての最善を選び出し導く、そういう人間である。
そうして大抵の場合、フォンビレートの最善には、シシリアが考慮されている、というのが彼女の何よりの誇りであった。フォンビレートとは、全てにおいて彼女を優先する「シシリアコンプレックス」の塊であることは周知の事実である。が、シシリアはそれを認めながらも、フォンビレートがいつ飽きてしまうのかと恐れてもいる。彼が誰にとっても優秀で、というより、彼が誰よりも主役になれることを彼女は知っている。
自分を支えてくれているのであって、支えなければ居場所がないわけでないのだ。
そのあたり、彼に支えてもらわなければ立っているのさえ怪しい自分とは大違いで、その違いを見せつけられるたびに気持ちは落ち込んでいく。
フォンビレートがいつか主役になろうとはしまいか、いや彼はああ見えて義理堅いのだから裏切るということはないだろうけれど、でももう無理です、なんて言われた日には、倒れてしまう自分がいる。
想像するたび、あらゆることで気を引こうとしている自分に気づいてしまい、ここ最近のシシリアは自己嫌悪の連続だった。それでも、彼女に朝は来て夜は来て、また朝は来る。
詰まるところ、彼女がどういう心情であろうと、政務の朝が来て、フォンビレートに気遣われる一日は概して何事もなく過ぎていく。
だから、本当に気付かなかったのだ。
フォンビレートが自分のことを、裏切っていたなんて。
最初の出会いから全て嘘だったなんて。
「どういうこと?」
震える唇を抑えるために、手を上げないことが奇跡のような声だった。精一杯の威厳を保とうと、せめて背を伸ばそうとするその姿勢が痛々しい。
対してフォンビレートはいつも通り、感情を乗せない瞳でシシリアを見つめている。
「そのままの意味です」
彼の淡々とした物言いが、安心感でも、苛立ちでもなく、恐怖――それも自分から離れていくという、あまりにも自分勝手な――を煽り立てているという事実に、シシリアは驚愕する。国を憂えるべき玉座につく人間が、公の人間が、こんなにも理性を手に入れられないなんて――。
フォンビレートのいない執務室で、シシリアは機械的に仕事を片づけながら、1月前のことをぼんやりと思い出していた。あれから、私は何と言ったのだっけ?
……ああ、そうか。私は肯定してしまったのだ。
「どういうこと?」
「そのままの意味です。……私は神聖クメール帝国の法皇ラプツェル14世猊下の子、と呼ばれる者であり、それゆえカルデア王国の敵対者の一人です」
「なっ、裏切り……いえ、裏切らないとちかっ、嘘」
平坦な口調でされた断言に、シシリアは動揺を抑えられない。先ほどの、フォンビレートが軍に対する独断専行を行っていた事実を聞いた時よりも、さらに。
「はい、私が先ほど誓った言葉は真実です。加えて申し上げるならば、陛下が王位に就かれた際の言葉も真実です」
「…………訳がわからないわ」
幾許かの思考の後、相も変わらず温度のない瞳にとうとうシシリアは白旗を上げた。どれほど考えても矛盾を来すそれが、フォンビレートの中では何ら反しないらしい。到底、理解できなかった。
「全ての始まりは、20年前に遡ります。その時、私は神聖クメール帝国の生贄として、カルデア王国より買われ地下牢にて監禁されておりました」
フォンビレートの淡々とした口調は、シシリアの思考を様々な日に飛ばす。
薄汚れて美しかった幼子。それから、そうだ。麻の時にも、そのような事を言っていた。
「そこに彼の人が現れたのは、監禁され贄となる2日前のことでした。一等贅沢な衣服に身を包んだその人は、私に「君がそうですか?」と問いました。私は本能のままに「そうです」と答えました」
「……そう、って?」
「つまり、君が生贄ですか?という問いです。……後で分かったことですが、それまでの贄は全て解体されたのち、ただの肉として供物となっており、猊下以下、生まれながらに高位の者たちはそれが人の子であることを知らなかったのです」
「それが、突然に」
「はい。猊下の耳に入ったようで、恐らくは取り巻きの卿たちの一人が脅しのつもりで述べたのでしょう。罪があなたにもある、と言われれば聖職者たるあの人は逃げられなかったでしょうから」
「……待って、その男は、望んで皇位についていなかったと言うの?」
「クメール帝国では、子羊と呼ばれる者たちがおります。今上猊下のために集められた美しく才智あふれる子供たちのことです。その中から、卿たちの投票によって次代猊下が選ばれるのです」
「そしてラーえーと……」
「ラプツェル猊下はそれを大変嫌がられた。しかしながら、卿たちによって最も与し易しと考えられ、その地位に押し上げられた。……腐敗しきった帝国の神輿に担ぎあげられました」
20年前と言えば、シシリアはまだ表舞台にすら登場していない。
嫁き遅れの王族として、宮中で煙たがられながら息をひそめるようにして生活していた。だから、当時の神聖クメール帝国とカルデア王国がどのような状況であったかを、あるいは内部の様子をこの時初めて知った。いくらかの引っかかりを覚えつつ、シシリアはフォンビレートの話に耳を傾けた。
「その状態に心を病んでおられた猊下は私を味方にしようとされた。帝国で受けることのできるありとあらゆる教育を。……今現在、私がシシリア様よりご評価いただいている全ての基礎を学んだのもその頃のことです」
ああ、と思わずシシリアから声が漏れる。
美しく物覚えの良い子は、そもそも教育のいらぬ子だったというわけだ。どうりで、と言う思いと、しかし自分が施した教育のほうが上だ、という醜い嫉妬が湧き上がる。うすうす感じてはいても、シシリアはフォンビレートの絶対ではなく唯一で在りたかった。その為なら、いくらでも薄汚くなれる、それがシシリアには恐ろしい。
「ある程度の期間が経った後、猊下は行動を起こされました。つまり、私をカルデア王国に送り込まれたのです」
「そして私と出会った」
「はい。……信じていただけるならば、シシリア様に出会ったのは唯の偶然です」
僅か、躊躇い
「シシリア様は当時、それほど重要ではなかったので」
断言した。
フォンビレートの言葉はシシリアを貫いたが、傷つけはしなかった。むしろ、逆説的に自分を裏切ってはいたが裏切っては居なかったことが明らかになったとさえ思った。……騙されているかもしれないとしてもシシリアはフォンビレートをとる。誰にも言えないシシリアの盲目さが、彼女を慰めた。
「ですが、最終的には何らかの形で内部に入り込むつもりでした。力、が必要だったのです」
「権力?」
「いえ、それを含むあらゆるものです。権力、財力、知力。あるいは人脈や純粋な力さえ。計画には必要でした」
「……何をしようとしたの?」
どう考えてもフォンビレートの言葉に納得がいかないシシリアはたまらず声を上げる。確かにフォンビレートはその力を手に入れている。だが、それをクメールに有利なように物事を動かすために使った覚えなどただの一度も無かった。
王としての甘さだと、執事を無条件で信じる無能王だと言われてしまえばそれまでだが、フォンビレートの敵となりうる人間は宮中に数多居る。レライは自らを検査機関だと称し、その役割のためにフォンビレートに探りを入れることを厭わなかった。フォンビレートが元は庶人、というより孤児であったことに反発の機を見出すものも少なくない。その状況下で、誰にも気づかせずに行うなどシシリアには到底考えられなかった。幾ら優秀であっても限度がある。
「滅びを。かつ自由を」
「……神聖クメール帝国に、ね」
そこでようやくシシリアは先ほどの引っかかりに答えを出せた。
なぜ自分は気づかなかったのだろう。フォンビレートの表情を見れば、何かあるのは明白だったのに。
天上に輝きわたる円よ。汝、無にかかる使者よ。そは天の天の支配者たれ。その眼下にある汚濁を見逃すなかれ。この地の汚濁を呑みこみたまえ。私の歩む谷底を、闇夜の孤独をどうか取り除きたまえ。敵の手中から我を救い給え。その大いなる力が平和とともにあらんことを――。
謡うように厭うようにその詩を詠んだ。その皮肉が今はっきりと目の前に姿を現す。
天上の月を羨み、それに自らの境遇の浄化を願う歌。出来るなら、自分を救って欲しいと願う歌。
冠された名は。
――終焉。
「詠み人は、ラプツェル」
シシリアがその名を口にした瞬間、フォンビレートは哀しげに微笑んだ。自らの罪の重さを量るかの様に、苦しげに。
「今、繋がったわ。……月は貴方ね」
「……はい」
「貴方がクメール帝国を滅ぼし、すなわち自分を殺し、そうして自由になることを願った」
「……はい。正確に申し上げれば、月を長年願い、駒が現れたのですが。概ね仰るとおりです」
フォンビレートは助け出されてなお、生贄のままだったのだ。
その日、鎖で縛り付けられているよりもずっと頑丈に縛られたのだ。甘い甘い"恩義"という名の鎖をかけられ、それは長い時間をかけてフォンビレートを蝕んでいったのだ。