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暗夜の礫  作者: 篁霞流
Ⅳ 沈黙の法
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子は絶つ

 静まり返った神殿の大広間。

 頭上に所狭しと掲げられたシャンデリアや入口から敷き詰められた最高級の絨毯。

 おそらく、世界で最も豪勢な一室の一つの最奥に男は座し、それら供物として差し出された数々の財を空虚に見つめ、時折耳を澄ませていた。

 普段、鬱陶しいほどに取り囲む者たちは、怯えと怖れのゆえにここ数日姿を見せていない。男は、もう数十年も前から待ち望んでいたこの静かな景色に、心底満足していた。

 そして、自らが最も望んだ足音がもうすぐ近づいてくるはずだ、とさらに心を弾ませる。

 

 コツコツコツ……

 わざとらしい靴音が広間の外から響いてくるのに気が付き、視線が入口に定まる。

 空虚だった顔つきは一変し、喜色が浮かび、男の心の内を率直に表現していた。

 

 「猊下、遅くなりまして申し訳ありません」

 最後に会ったその日から何ら変わりのない顔を、微笑みをもって迎える。


 「待ちくたびれたぞ、フィー」

 落ち着いた黒髪。

 それと対照を成す1対の瞳。それに、雪のように白い面。

 そして、普段のそれを知っている者からすれば、信じられないほどの柔らかな笑み。


 圧倒的に美しいコントラストを持って、それは広間に現れた。

 靴の甲まで隠れるほどに柔らかな絨毯を一歩、また一歩と進み、そうして静かに膝をつく。

 この(・・)国の全ての権限を握るはず(・・)の、唯一の貴人に向かって。


 「遅くなりまして申し訳ありません。少し、害虫の処理に手間取りまして」

 「よいよい、ほぼ刻限通りだ」

 にこやかに交わされる会話は、しかし、どことなく空ろな感じを与えた。

 双方ともに気付いていて、双方ともに素知らぬふりをしている。


 「子よ、息災であったか?」

 「はい、こうしてお目見えいたしましたことが何よりであるかと存じ上げます」

 気遣いの言葉に答える子に淀みはない。悪戯に反応することもなくその役割を全うする。

 一面、紅に染まる衣服を身につけてなお、子は清冽なままだった。

 「そうかそうか」

 慈愛に満ちた微笑みを受けて子は再び柔らかに謙譲の姿勢をとった。

 

 「しかし……18年ぶりか? 大きくなったな」

 「はい、18年と12日。それと12時間にございます」

 「そうかそうか、お前は相変わらず頭の賢い子だ。いやはや、何一つ変わっておらん」

 安堵のため息をつく皇座(おうざ)とは対照的に、垂れた頭の下で子は獰猛に()んだ。

 それは"賢い子"に係るかも知れず、"変わっていない"への返事かもしれない。いずれにせよ、子は皇座に向かって静かな抵抗を示した。

 それに気付かないのは、皇座の怠慢。

 「お前がやり遂げたことを嬉しく思うぞ、フィー」

 今にも皇座から駈け寄りそうな気配に、子は素早く顔をあげた。


 「フィー、よくやっった。よくやっ……どうしたのだ?」

 言葉を続けながら皇座を滑り降りたそこでようやく子の異変に気づく。

 美しく輝いていた瞳が、無感動に凪いでいた。そのくせ、鈍く光っている。

 


 「……猊下」

 「ん?どうしたのだ」

 「(わたくし)は……」

 子は一度、僅かの間言い淀んだ。それでも、確固たる決意を保って顔をあげた。

 脳裏に、信じるモノが浮かんでいた。

 

 「私は貴方を破滅に至らせるために参りました」

 「……」

 

 慎重に切り出されたそれに、男は首をかしげた。

 その場の空気とまるで合わない幼い仕草で、どうにも奇妙だったが、男の中では何ら矛盾のない綺麗な仕草だった。子の言うことが分からない、あるいは、今更、わざわざ言いたいのだろうか、そんな心中を十二分に表現していた。

 

 男にとってそれは、もう随分と前に決まっていたことだったから。そして、子はそれを知っていたはずなのに、と。そういう思いが一瞬のうちに過ぎゆく。


 「そう、だな。そうに決まっている」

 「……」


 時は20年前に遡る。

 

 神聖クメール帝国は腐敗を極めていた。

 カルデア王国と張り合えたのは最初の数百年間で、その時にはもう、カルデア側の無関心によってのみ緊張状態が保たれていると言っても過言ではなかった。


 それでも、その時まではまだ良かったのだ。

 行灯であることが唯一のとりえ、すなわち鈍感であるがゆえに平穏な法皇が立っていたから。

 その法皇が崩御したのが20年前。その日、全てが始まった。


 優男、と表現されても差し支えないほどの若い男。それが、神聖クメール帝国の何代か目の法皇だった。繊細で物柔らかな男は、最年少で帝国の最上位に上り詰めた。

 ――本人の意思とは関係なく。

 「猊下」と呼ばれるたびに虫唾が走った。

 「猊下、ご決断下さい」と言われるたびに発狂しそうだった。

 「猊下はなんと素晴らしいお方なのでしょう!」と称賛されるたびに闇に叫んだ。


 やめてくれ!私はそういう人間じゃない。そういう器じゃない!!


 何度も、それこそ皇座に就く前から言い続けたその主張は決して受け入れられなかった。

 猊下の義務、と言われればそれ以上の反論を持たなかった。

 

 男にとって不幸だったことは、腐敗した中にあって腐敗できなかったことだった。

 幼少より神殿に入り神に仕え、それ以外の生き方を知らされずに大事に育てられた。だから、男はどこまで行っても聖職者にしか成りえず、皇になれるはずもなかった。

 1年が過ぎ、2年が過ぎ。

 自殺を禁じる教義により惰性で生きる以外術を持たず。

 自分の命令一つで、正確に言えば、卿が差し出す案に機械的に頷けばそれだけで命を左右できることに諦めがついてきたころ、前皇の日記を自室で見つけた。


 貪るように読んだ。

 行灯、の面影などまるでなかった。

 国の行く末と案じ、男の行く末を案じ、手を下そうと足掻く父の姿がそこにあった。


 長い時間をかけて涙と共に読み終わった時、既に覚悟はできていた。

 そうだ、滅ぼそう。

 それには。


 それには、そうだ、駒が必要だ。

 自分に忠実で裏切らず、計算高く賢く、絶望している人間。


 探し始めて1年。

 男はついに理想の駒と出会った。房の中で暗く光っていた幼い子供。男の全能力を足しても及ばないとさえ思える、輝き。無垢なる(にえ)

 手を差し伸べて、助けて。それから操り人形にした。


 その後の1年は、男が最も働いたと自負できる1年だ。

 あれほどまでの力が自分に眠っていたことを、男は未だに信じられない。男は全精力を使って全ての物事の上に破壊の理論を積み上げ、その最後の一片を幼子に託した。

 さあ、これで滅ぼしておいで、と。


 16年。

 その長い年月を、男は皇座で待ち続けた。

 破滅を身に纏った幼子が、刃をもって迎えにくる日を、ひたすらに待ち続けた。

 多少焦れて手を下してしまったが、それはまあ、不可抗力だろう。ショウガナイ。

 私のためにはショウガナイ。


 それにあれは正しい行動であったと今、確信に至った。

 目の前に子がいるということは、そういうことだ。やはり、私が放った駒は正しかった。


 さあ、幼子よ。

 その刃で、さあ、滅ぼせ。



 

 「……ぼせ。さあ、滅ぼせ」

 ゆらりと湧き上がった思考が男の口を滑らかにする。

 男は、皇は。全身全霊を以て、体を差し出した。


 「フィー!早く私を!」

 

 「この国を滅ぼせ!!」


 

 半狂乱で喜びにあふれた叫びをあげる父から子は目をそらさなかった。

 父とも神とも崇めた男の本性に触れてなお、子は父を愛おしく思うしかない。あれ(・・)は確かに救いの形をしてたから、子は縛られたままだ。否、だった。



 ――あぁ、やはり貴方は酷い方だ。私がもう知っていると知っていて、安易な救いを差し出すと言うのか。――  

  

 子の脳裏に、子が再び生まれてからの画が余すところなく流れる。


 救いの日のこと。正しき日のこと。揺れ動いた日のこと。崩れた日のこと。そして、


   『不可能を可能にする、そのために生まれてきたのですから』

   『()の国の澱みは全て。私がともに連れて行きます』

   『くれぐれも(・・・・・)お元気で』


 覚悟した日のこと。


 

 子は静かに刃を研いだ。

 切っ先はもう揺らがない。


 

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