欺瞞の愛
ライラは夜が嫌いだ。
自分の大切な者達をいつか連れて行ってしまうことを知っていたから、いつも怯えている。
彼女は、どこにでも居るような普通の女だった。
父は町で食堂を営んでいた。母はそこの女将兼給仕係だった。
二人は熱烈な恋愛結婚ではなく唯の見合い結婚だったけれど、そこそこ仲が良かったと思う。たまには喧嘩をしていたけれど、翌朝になれば何事もなかったかのように(多少不機嫌ではあったけれど)店を開けに行き、そのうち仲直りしていた。
ライラは一人っ子と言うこともあって、大分可愛がられたと思う。
誕生日は周りの子よりも少し豪華だったし、1年に何回かはわがままも聞いてもらえた。
5歳の誕生日に買ってもらったぬいぐるみと、10歳になったある日一目ぼれをして駄々を捏ねた末に買ってもらえたクラミズ様のポスターは今でも宝物だ。
全体的に平凡、そこそこ幸せ。
そんな彼女の人生が一変したのは、17歳のころだ。
彼女の父の店が政府により2週間の営業停止を命じられた。
店の料理で食中毒を起こしたものがいる、というのがその理由だった。
父はそんなことは有り得ない、と何度も役人に訴えたけれどそれが聞かれることは無かった。証拠を提出できればよかったのだけれど、父は証拠を集めることは出来なかった。
結局、2週間後許可が下り営業を再開することはできたが、客は戻らなかった。
日に日に家の中は鬱々とした雰囲気が漂うようになり、ライラは両親から隠れてひっそりと息をするようになった。別段、暴力を振るわれたり理不尽に怒鳴られたりしたわけではないけれど、そうするのが正しいのだと理解できたから息を潜めていた。
そうして幾月か経ったころ、ライラは父に居間に来るようにと呼ばれた。
心臓が早鐘の打っていたが、機嫌を損ねてはいけないと急いで居間に向かった。
「ああ、ライラ早いね」
鬱々とした雰囲気だったはずの居間に煌々と明かりが灯っていた。
びっくりして何も言えずにいると、両親は静かに微笑んで「誕生日でしょう?」とライラに言った。
慌ててカレンダーを振り返ると確かにその日は自分の誕生日で、こんな苦しい時に両親が忘れずにいてくれたことが嬉しくてしょうがなくて、満面の笑みを浮かべてお礼を言った。
「さあさあ、御馳走なんだから一杯食べてね」
「そうだぞ。椅子の上にプレゼントもあるからな」
口々に勧められて椅子に座り、久方ぶりに豪華な食事をし、前々から頼んでいた本を手に入れ、ライラは満足して眠りに就いた。
どうして、あの時の自分は何も疑わなかったのだろう、とライラは今でも疑問に思う。
あんなに吹っ切れた顔を両親が出来るはずもなかったのに。
それなのに、どうして自分の一夜の幸せを永遠と錯覚することが出来たのか。ライラは自分で自分が理解できない。
「お、とうさん……」
朝起きて、ライラが最初に発した言葉はそれだった。
眼前に広がる光景が信じられない。
ゆらゆらと影が揺れていた。
大きな人型に縄が付いていた。それが、2体。
「あ、あぁああ」
呼びかけたいのに言葉に成らず、呼吸が苦しくて仕方なかった。
誰かに嘘だと言ってほしくて、誰かに早く起こしてほしかった。
「う、そ。嘘、だ。……あぁあああぁぁあああ!!」
絶叫を聞きつけて、隣のおじさんが駆けつけてくれた。 らしい。
気付いた時には、ライラはベッドに縛り付けられていたから、良く分からない。
ドンドンドン、という地鳴りのような音でライラは目を覚ました。
何度も起きては暴れ、疲れて眠る、という生活をしていたようだった。
手を焼いた近所の人たちが、暴れないように、と縛り付けていなければ危ない状態だったと医師は話してくれた。
数日、抜け殻のように過ごした。
昼間は窓の外に揺れる人形の幻影を見た。夜になると、まぶたの裏に血の気の失せた両親の笑顔が浮かんだ。思い出したくなくて、思考を常に廻さないようにした。
それでも不意に正気にかえることがあれば、最後に自分の間抜け面を思い出した。
あの夜、窓に映った、ろうそくに照らされた自分の笑顔。
腹立たしくて、何度も殴りつけて何度も死にかけた。
その日も死のうとしていた、と思う。
思う、というのは、そのころの記憶をほとんど無くしているからだ。
もやのかかったそのころを抜け出して最初の記憶は、小汚い家の一室だ。いつも連れ戻される、嫌悪しか浮かんでこない自宅ではなく、薄汚い家のベッドに寝かされていて、妙に落ち着いた。
ボーっと天井を見上げていたライラに声をかけたのは、彼女を保護した青年だ。
彼は特に何を言うでもなく、その部屋の隅に佇んでいた。笑顔でもなく呆れた顔でもなく、嫌悪感でもない。なんともいえない表情でそこに静かに存在する彼にライラは興味を抱いた。
余りに現実感のない存在に思えて、しばらく静かに見詰めあった。
「君は、死に掛けていてね。僕がそれを保護したんだよ」
気まずくなったように、彼が説明したがそれはどうでも良かった。
そんな言葉は毎回の通過儀礼で、それ以上でもそれ以下でもない。そうだろうな、と思っただけだ。
だが、ライラは彼の言葉に心臓が再び騒ぎ立てるのを感じた。
あの日、両親を直視した瞬間と同じような。でもそれよりもいっそ喜びに近い高揚。
「……お父さん……?」
青年の声はライラの亡き父の声にそっくりだった。
父が蘇ったか、あるいは全てが悪い夢だったのかと思いたくなるくらいに。
視覚が否定するその願いと、聴覚が祈る幻影。
混乱と興奮と、渦巻く気持ちの悪さにライラは再び眠りについた。
あれから、とライラは思い出す。
あれからいろんなことがあった。
例えば、彼が父の生まれ変わりではないと信じるまでの時間と信じてからの喪失感との戦いとか。
例えば、彼に縋っては泣き叫び、発狂する自分に最期まで付き合い続けてくれた彼の姿とか。
もろもろの歴史があって、彼女はここまでやってきた。
彼女がすっかり立ち直るのに1年。それから、恋に落ちるのは時間の問題だった。
子供も2人もうけた。どちらも立派に成人し、嫁を娶り、婿に嫁いだ。その全てを夫となった青年と見ることが出来たことは彼女のかけがえの無い宝になっている。
もうあとは、彼が軍を退役する年齢に達することが彼女の最後の望みだ。
退役したら、彼と静かに暮らしたい。それから、孫達と遊ぶのもいい。
10人隊長になってから本当に忙しい人だったから、退役したら、お疲れ様と言って。それから、彼と毎日のように、彼の好きなことをして過ごしたい。
夢はずっと広がっていた。幻想ではない夢であることを確信していたから、待ち遠しくて仕方なかった。
だから、早く早くと願う。
早く無事な姿を見せて、と願う。
何にも無くていい。
武功もあげなくていい。勲章もいらないし、恩賞もいらない。彼にとっては必要かもしれないけれど、名誉も必要ない。逃げ帰ってきて、周りから卑怯者と罵られてもかまわない。
お願い、帰ってきてくれるだけでいいの。
ゴン!ゴン!!
不意に聞こえたノック音に身を竦ませた。
このたたき方は夫ではない。誰? 何のよう? 泥棒かしら? それとも…………
ゴンゴン!!
再び聞こえる、急かすようなノック音に怯えながらも扉を開ける。
「は、い?」
「夜分遅くに申し訳ありません。カルデア王国軍部運用局調査課、ダルセイユ=パール=ド・ハーパーと申します。カルデア王国陸軍第1師団第12連隊第4部隊、ダ・ノエル10人隊長殿の奥方様でお間違いないでしょうか?」
政府関係者であることを知らせる国花をあしらった紋章がやけに目に付いた。
嫌な予感に耳鳴りが大きくなる。
「はい、そうですが……」
何とか肯定の言葉だけ返すと、ダルセイユは夜の色を刷けた服を美しく捌いて深々と一礼した。
数秒の間をおいて持ち上がった瞳は、温度を湛えてはおらず、哀惜の念を雄弁に語っていた。ダルセイユがほんの少し横に視線を振ると、すぐに美しい箱が取り出された。
その輝きが余りに恐ろしく、ライラはすぐに目を背ける。
ダルセイユが懐を漁っているの音が耳をついて、痛い。
「カルデア王国政府より、ダ・ノエル様の戦死をお知らせいたします」
「コルベール暦1547年10月26日、神聖クメール帝国との国境、ザイル城塞付近において、総攻撃の最中に命を落とされたものと思われます。遺体は損壊激しく、また多くの戦士とともに旅立たれましたので、遺体をお返しすること叶いませんこと、政府として心よりお詫び申し上げます」
「しかしながら、ダ・ノエル様は勇猛果敢な攻撃を加え、敵兵を12名道連れに壮絶な最期を遂げられたことが調査により判明しております。従いまして政府といたしましては、ダ・ノエル様の戦いに敬意を表し、2階級特進の上、紅を授与申し上げる次第であります」
「どうぞ」
流麗に動くダルセイユの口元はトーキーのように、何十回と言い慣れた言葉のように、言葉を吐き出す。
型にはまった慰めの言葉、名誉の報酬。夫の顔。
紅に染まった勲章が視界を押し潰していく。謂いたい事は山のようにあるのに、ライラの体は固まって一向に言うことを聞こうとはしなかった。
「命を賭した戦いに、一カルデア王国民として心より感謝申し上げます」
語尾とともに再び美しく傾いた頭に、凍っていた思考が暴走を始める。
「……な、て……いらないわ」
「……」
「感謝なんて、いらないわ。……勲章も、そんな、の、お断りよ」
「お気持ちお察しいたしますが、しかし・」
安易にかけられた声に、ライラのたがは完全に弾けとんだ。
「察する、ですって? 私の気持ちのどの部分を察していただけたのかしら? 私の今の気持ちを正確にわかって!?」
突然の激高に、どうやら言葉の選択を誤ったことを知り、ダルエイユは慌てて平身低頭するがライラの口は止まらなかった。
「感謝も栄誉も勲章も、そんなのくそ喰らえよ! 私はそんなものいらないわ! 遺体が損壊激しくですって? 思われます? 判明しております? くだらないわ! くだらない! ちゃんと夫を探してきて! 私の夫は私を置いて死んだりしないわ。結婚したときに約束したの。君をおいてったりしないって、誓ったのよ? たくさんの人前で誓ったの。 貴方はあの人が噓つきだとでも言うの? 私の夫は誓いを破るような馬鹿な男だとでも思っているの? 探してきて! きっと何処かで生きているわ。 あの人は真面目だから怪我をしたくらいじゃ退却しないの。 きっと敵と戦っているわ。 見つからないぐらい上手に隠れているだけよ。 だから探してきて! 探して、私に返して。何もいらないわ! あの人だけが欲しいの! わかるでしょ? 私に必要のなのは貴方の安っぽい同情とか女王のくだらない下賜じゃないのよ。 あの人だけ、あの人を私に返して!!!!返して!!!!かえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえして。あの人を私に返してっていってるの! わかるでしょかえしてほしいだけなのよ。わたしのものをわたしのもとに返して欲しいだけなの。それって正当な権利でしょ? だから要求してるのよ。かえしてかえしてねえかえしえかえしてかえしてかえしてか、」
ダルセイユに罵倒と懇願と論議と要求しながら、思考の破裂音が何度も脳内をめぐる。
昔のこと、出会ったときのどこか情けない顔と苦しそうな瞳。
出立するときの挨拶、そのときの覚悟の瞳。
それでも、無事を願っていたこと。それでも、噓つきだと叫ばなかったこと。
泣いたこと。両親の顔。
役人の顔。夫の顔。
私のこと。
ゆっくりと意識を途切れる中、最後に思い浮かんだのは、夫の見事な金髪の根元にある黒髪のことだった。