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暗夜の礫  作者: 篁霞流
Ⅳ 沈黙の法
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そのとき鎖は

 「入ります」

 小さく宣言して、扉を控えめに開ける。

 開けてすぐに見える優しい顔が綻んだのを見て、フィーの顔も自然に笑顔になった。

 ありとあらゆるものを手に入れているこの国の最高権力者。それでも、自分のような孤児を拾い、愛し慈しんできてくれた、我が父。

 「御呼びでしょうか、ラー猊下」

 高座に鎮座するその人へ向け、自分がこの場で取るべき態度をもって頭を垂れる。

 周りを取り囲んだ高位の司教たちが、忌々しげにこちらを見ているのが分かり少しばかりうんざりしてしまうが、そのような態度を見せては父がさらに憎まれてしまうので、極力表情には出さない。それでも、何人かはフィーから父に目を移して怨嗟を募らせていることを表立って露にしていたが。

 「そう固くなることはない。ほんの少し願いがあるだけだよ」

 「猊下! そのような言葉遣いでは示しがつきませぬ!」

 「そうですぞ! 猊下はこの世でもっとも高貴な御方。それをこのような汚らわしき孤児にまで」

 「万物をも包み込むお優しさを持つことが猊下の資質であるとは理解しておりますが、それにも限度というものがございます」


 口々に諌める司教たちに、少しばかり困ったように眉を寄せて笑うその人が可哀想だと思った。

 何もかも手に入れているはずなのに、それでも御しきれないこの汚物の中に暮らしていることが、不敬と分かっていても、むしろ憐れまれるはずの自分の境遇からでも、可哀想に思えたのだ。


 あの時は、と思い出す。

 あの時はこんなにも悲しげな人だとは思わなかった。

 

 数年前、訳も分からぬうちに売り飛ばされ、ここに来た。正確には、この場所のずっと下。『生贄室』と銘打たれた監獄の中に、入れられていた。

 毎日のように牢番に小難しい話を聞かされて、死を待っていた。

 曰く、これは大変名誉なことなのだ。

 曰く、これは天へ我々偉大な民族の祈りを届けるためなのだ。

 曰く、だからありがたく思え。

 話していることの半分は修飾語に覆われていたが、それでも大体その3つに要約されることだった。

 御飯をたくさん食べて、太ったら供物になる。それが、フィーの数ヵ月後の未来として確約された、たった一つのことだったし、それをフィーは何なく受け入れた。

 特にやりたいことも、遣り残したこともなかったから、別にそれでもいいと思えた。明日の希望よりも今日の御飯だったのだ。

 ある日、それまでの牢番とは比べ物にならないぐらいに綺麗な服を着た人が来た。苦しげに微笑んで、君がそうですか、と聞いてきた。よく分からないなりに、そうです、と答えた。


 多分、それが全ての始まりだったのだ、と今は思える。

 あの日やってきた、今自分が猊下と呼びかけるその人は、ひっそりと味方を手に入れ、自分は全てを委ねられる人を手に入れたのだ。

 それを猊下は「等価交換」です、と言う。だから、そんなに慕ってくれないでくれ、と。

 でも、といつもフィーは反論した。

 何度諌められても、フィーにとってあの日は確かに救いの日だったのだ。

 差し出されたその手は、誰になんと言われようと、たとえ本人が否定をしたとしても暖かかった。その手を絶対に離してはいけないと、本能が言っていた。教えられなくても、その人が必死に助けてくれていたのだ、自分の立場さえ犠牲にしようとしたのだと知っていた。

 だからだと思う。

 どんなに暗殺術を仕込まれても、到底使うはずもない世界の知識を仕込まれても、喜んで学んだ。むしろ、進んで、かもしれない。

 すまない、と謝りながら差し出す、時を追うごとに温度をなくすその手を暖めたいと願った。

 大丈夫ですよ、と何度吐き出したか知れない。それでも、あの玉座で悲しげに目を細めるその人にほんの少し笑いかける。

 

 これが、最後の。


 「猊下、どうぞ何なりと私にお命じください。私は貴方の狗ですから」

 大丈夫です、は付け加えなかった。多分、言葉に出さなくても伝わると思ったから。

 

 瞬間、小さく顔を歪ませたその人に伝われ、と願う。


 どうか信じてください。

 私は大いに幸せなのです。貴方のために働けることを無常の幸せと感じているのです。

 きっと、貴方なら私を見捨てたりはされないでしょうから。その点、不安など一つもないのです。

 だから、私にご命令ください。


 滅ぼせ、と。


 「フィーよ、カルデア王国に行け。やることは――分かっているな?」

 「はっ」


 

 ――――「あれから、どれくらいの月日が経ったでしょうね……」

 下がる直前に見たラーの表情をフィーは16年経った今でも鮮明に思い出せる。

 あの表情を変えることは出来なくとも、安寧を与えることが出来るのは自分だけだと確信を強める。


 だから、自分は今ここにいるのだと思った。

 「ツァリー、もうすぐです」

 静かに眠る彼女へ、認識できないと十分すぎるほど理解して笑いかける。

 「君のおかげで私はここにあることができます」

 愛おしげに、情欲以外の情を持って、その頬を撫でる。

 この国で、唯一人の男にしか許されないそれを、僅かな躊躇いとともに差し出す。

 「私はこれまでも無力でした。そうして今日に至るまで無力です。君の力が無くては何一つ成し遂げられない愚者です……」

 もう随分と前に、初めて彼女に出会ったときのことを思い出す。

 

 砂漠で死に掛けていた自分より年上だった彼女。

 覆いかぶさるようにして弟を庇った彼女に興味を抱いた。

 自分には全く縁の無い感情のままに動こうとした彼女のことを理解できなかった。どうして、それほど無力でありながら抵抗しようとするのか。

 助けたのはただの気紛れだった、と断言できる。

 正義も正論も、生きるのには必要ではないと思っていたから。


 「君に教えてもらわなくても、何も真実に手を伸ばせなかった臆病者です」

 何も考えずにいるのは楽だった。

 あの人の望むものを差し出すために働くのは楽しかった。

 「正義はこの世界に存在しているというのに」

 たくさんの人に出会って、生涯の人にあって。

 全てを差配するようになって。

 そうしてようやく気づいた。この世界には『正しさ』が存在するのだと。

 汚らわしくて最低なこの世界に、『光』はあるのだと。

 「そうして逃げようとした私を救ってくれたのは君です」

 気づいた同時に、どこかに置き忘れていた感情が噴出した。四六時中自分を責め立てる声がした。自分こそが最低な世界の最低だったのだ。それを思い知らされた。

 その思いに押しつぶされそうな時に彼女は手を差し伸べた。

 どうしたい?と聞いておきながら、そのくせ縋っていた自分を正確に見つけて、共に堕ちてくれた。苦しい罪悪感を抱くと分かっていながら、仕掛けをともに発動させてくれた。

 

 「ツァリー、だからこれは私の感謝です」

 その言い尽くしえぬ感謝を、今。

 

 そっと小瓶から薬を与える。

 アルマンにお願いして用意した、感謝の贈り物。

 「君の罪悪感も、いえ、彼の国の澱みは全て。私がともに連れて行きます」

 一匙ごとに祈る。

 どうか、ツァリーがこれ以上苦しまないように、と。

 「どうか、もう二度と何も思い出さないように」

 もうすぐ時間になることを確認して、もう一度だけ髪を撫でて、笑う。


 窓枠に足をかけながら、最期の願いを吐き出す。

 背後の一滴に微笑んで。


 「明日の朝までには忘れてしまいなさい」

 

 私はもうすぐ死んでしまうから――

 「君に幸あれ」

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