近くて遠い
フォンビレートが陣に現れる、その3日前。
メリバ宮殿、最奥部。
エリザベスの横にもぐりこんだルイズは、時計の針に目を凝らしていた。ダンは、事件以来、メリバとフィラデルを往復する忙しい生活を送っている。実際の指揮権は既にダンの元にはないが、それでも毎日届く報告を聞きにフィラデルへ足を運び、すぐに戻ってきては意識の戻らないエリザベスに落胆する。
そんな毎日を送っている父をどうにか助けたいと思いながらも、ルイズの年で出来ることは多くない。せいぜい、良い子でいるようにというダンの言いつけを固く守ることぐらいだ。
ふう、と子供らしからぬため息をついてルイズはエリザベスを見る。
お母様が目を覚ましてくれたら、そしたら全てがうまくいくと思うのに。
エリザベスの少し赤みがかかった豊かな黒髪がベッドに力なく広がっていて、それが、もう二度と彼女が目を覚まさないしるしのように思えて、ルイズはなんだか悲しくなった。
エリザベスが居なくなったら、そうしたら、沢山話したいことは誰に話したらいいんだろう。
あの時だってそうだった、とルイズは1年前の出来事を思い出す。
フォンビレートによって、自分の立場と現実が叩き込まれたあの日の後。
あの冷たく、温度が消えた瞳は忘れようとしても忘れられるものではなかった。もちろん、あの件に関して自分に非があることは既に理解しているが、それでも恐怖がルイズを蝕む夢は幾度も見た。
その度に泣いてしまうルイズを慰めてくれたのは、エリザベスだった。
彼女は決まってルイズにこう言った。
「彼だって、言いたくて言ってるんじゃないわ。彼は優しい人よ」
ルイズが、有能だけれど優しくはないと思うと返すと、決まって柔らかい苦笑を浮かべていた。
「いつか分かるわ」と。
そうやって言われると、大人になったら全て分かるような気がして、それまでは考えなくてもいいような気もして、落ち着くことが出来たのだ。
あの手や、あの眼差しを失うなんて、ルイズには耐えられそうもなかった。
不意に、規則正しい軍靴の足音が廊下から響く。
ガタン、と音がして背後の扉が開いた。
振り返ると、予想通りの人物で、ルイズは僅かばかりの笑みを浮かべた。
「いい子にしてたかい?」
「はい」
一言目でルイズを気遣ったダンは、扉のこちら側に静かに身を滑らせた。
軍議に出席していたため、きちんとした佇まいの、しかし憔悴していることが一目でわかる。目の下の隅が痛々しい。ダンは、エリザベスが目を覚ましていないことを確認するのを恐れるかのように、恐々とベッドに近づいてきた。
「眠ったまま?」
「はい。目を覚ましません」
分かり切ったことを聞いてしまうのは、身内の愛情だろう。顔色は悪いが、表情は穏やかで、今すぐにでも起きてきそうな感じさえする彼女が、もしかしたら二度と目を開かないかもしれないというのは、ダンに多大なる苦痛を味合わせていた。
もし、このまま死んでしまったら。そうしたら、ダンにはルイズを愛せる自信がなかった。国を導くための力強ささえ失ってしまいそうで、そんな自分への嫌悪感も相まって、ダンを追い詰めている。
ルイズを気遣うための言葉も浮かんでこないまま、思考は沈殿していった。
しばらくルイズを抱えたまま、物思いにふけっていると、控えめなノック音が響く。
「筆頭執事のフォンビレートが殿下にお目にかかりたいと申しておりますが」
執事の言葉に、さては、火急の用事――戦況に動きでもあったかと鼓動が速くなる。
「わかった、すぐ行く」
執事に返事をしておいて、ルイズをベッドの脇に降ろした。
「ちょっと、父さんはフォンビレートに会ってくるから。いい子で待ってるんだよ」
「フォンビレートに会うの?」
「そう、きっと大事な用だからね」
「……はい、待っています」
ルイズの脳裏には、冷たいフォンビレートしか記憶にないに違いない、とダンは思った。
ダンとて、あの時の蟠りが消えたとは言えないが、しかし、彼の有能さを鑑みるに遠ざけるのは賢明とは言えなかった。いつか、ルイズにも彼を評価するように言おうと決意し、一度ルイズの頭を撫でてから謁見室へ向かう。
そうして、謁見室へ踏み入れた瞬間、ダンは言葉を失った。
「エルバルト……貴様、何ゆえ……」
言葉を何とか絞り出すも、後が続かない。
それくらい、フォンビレートは異質な姿でそこに立っていた。
いつも隙がない執事服姿で立つはずの彼は、今、一部の隙もない暗黒に身を包んでいる。肩に施された紋章は自らに毒を打つサソリ。柔らかな金髪で覆われているはずの頭部は、黒一色に変わっていて、異質さがより際立たされている。
常の優雅さをどこかに置き忘れたかのような、鋭く角ばった動き。
間違いなく、人を殺すために訓練されたであろう動きだった。
その姿に、ダンの脳裏に唯一つの単語が過ぎゆく。
王位継承者のみに引き継がれる、特秘事項。その第1位に記録されていること。
カルデア王国最強にして最凶の影。この王国が安寧を保つために、ありとあらゆる血をただ一人で被り続けてきた、暗殺鬼。忌み色を宿す、ミスタリナの悪魔。
「……暗鬼」
「お目にかかれて光栄です、ダン殿下」
「なにゆえ、その格好を……いや、その前に表に現れてよいのか?」
その特秘事項が突然現れたことに、動揺を隠せない。
暗鬼がフォンビレートであったことと、決して表に出ないはずの存在が白昼堂々姿を見せていること、どちらにも思考が揺らされていた。
「ご心配なく。使用人の方が去られたあとに姿を変えましたので」
「そ、そうか……いや、というか貴様がそう、なのか……」
「はい、殿下。ご挨拶が遅れまして申し訳ありません」
そうい言った後、フォンビレートは静かにひざを折った。
すなわち、執事としての正礼ではなく、騎士としてその場にいるということだった。それはつまり、初めて会った人間としてこの場に立っている、ということも示していた。
「ミスタリナ騎士団副団長を拝命しておりますフォンビレート=メイリー=ダ・エルバルトと申します。このたびは、殿下にお願いがあって参りました」
「……なにを、だ……」
「エリザベス王太子妃殿下に謁見願いたいのです」
「なっ!」
「驚かれるのも無理からぬことであると思います。しかしながら、騎士としてお願い申し上げます。決して私心によらず、謁見させていただきたいのです」
静かで、それでいて熱心な懇願。
言葉の丁寧さ以上の熱さを感じさせて、ダンは大いに戸惑った。
こんなフォンビレートは見たことがない、と思った。
いつだって自信に満ち溢れ、丁寧な気遣いがあったとしても確信にしか基づかない決断に他人の介入も介在も許さない。そういう態度の彼にしかあったことのなかったダンには、それが何かの前兆のように思えた。
「エリザベスは未だに眠ったままだぞ」
「存じております」
「何を語れるわけでもないのだぞ」
「存じております」
分かっていることは知っていたが、それでも確認したくなる。
それでも、フォンビレートは揺らがない。ただ、淡々とそこに膝を折っていた。
「……では、何を求める?」
核心、と呼んで差し支えのないダンの質問に、初めてフォンビレートは躊躇する間をおいた。
どんな言葉を尽くせば許可を得られるのかを考えているような、そういう間だと思った。
「……ただ……私が語りたいだけなのです」
「貴様、がか……」
「はい。……感謝と挨拶を。ただそれを語りたいだけなのです」
謎かけのようだった。
尽くされた言葉だろうに、ダンの思考はまるで正解を導き出そうとはせず、それなのに心はそれを知っているかのように訴えかけてくる。
自分の知りえない理由か、あるいは考えたくもないが何らかの絆があるのかもいれない、と訴えかけていた。
「……その場には貴様だけ、という願いなのだろうな」
「……」
言うべきことはもうない、とばかりに黙り込むフォンビレートをしばらく眺め、大きくため息をついた。
このまま黙殺してたところで、誰からも非難は受けないだろう。
平たく言えば、あらぬ誤解を受ける無礼な願いをはねつけることに一切の障害はない。
それでも。
「如何ほど必要なんだ?」
期待を裏切りたくはない、と思った。
一心に願い出るこの男が、いつも遠くにしか感じ取れない、今の今まで遺恨が残っていたと言っても過言でもないこの男が、あまりにも儚げに見えたから。
まるで存在意義の肯定を求めているような気がしたから。
緋色が光ったように思えた。
憂いを抱いてやまない紺碧が揺れた様にも思えた。
その瞳の前に片手が広げられた。
「5分で結構です。それ以上は無用な詮索を招くかと思いますので」
その言葉で覚悟を決める。
フォンビレートとエリザベスの間にどのような繋がりがあろうとも、それは男女の仲ではないと感じられたから。疑念を抱かせないラインでなら、と許可を出した。
「あいわかった。……その格好ではいろいろと不都合もあろう。少し待て」
自ら扉の外に出て使用人に指示を出す。
すぐに動き出すのを見送って、もう一度部屋の中に戻った。
「今ルイズを迎いにやらせたゆえ、今しばらくしてから行くが良い。人払いもしておく」
「ご配慮に感謝いたします」
その謝辞に頷くことで答え、それから2人して押し黙った。
探るような漂うなそんな時間だった。
しばらくして不意にフォンビレートは立ち上がった。
それからもう一度、今度は執事としての礼を見せ、フォンビレートは窓へ向かった。
誰にも見つからぬよう外壁を登るつもりなのだろう、と見当をつける。
その背に、これぐらいは許されるだろうと、二度と、金輪際言うつもりのない皮肉を投げつけた。
「貴様は一体なにを喰らって生きているのだろうな」
フォンビレートはただ微笑んだだけだった。
それはありとあらゆる疑問への、替わりのない回答だったのだと理解した。
「感謝します」
短く言い捨ててフォンビレートはその場から消える。
開け放たれた窓の向こうは不自然なほどに牧歌的だった。
後にダンは、その日が、歴史には決して記されない、記すことの出来ない全ての中心点だったことを娘に伝えることになる。
コルベール暦1547年のある秋の日に、世界は廻り始めたのだ、と。