或る女
それは、遠い遠い記憶の彼方に押し込まれている出来事だ。
ツァリーが目覚めると、真っ白な高い天井の下で寝ていた。
驚きのあまり飛び起きようとして、失敗する。しばらくあがいてみて、どうやら体に力が入らないらしいと気付く。せめてと視線を周囲に走らせると、見たこともないような綺麗な布がツァリーの周りを覆っていた。視界の端でちらつく自分の赤い髪が、布を通した柔らかな光に反射していた。
――どうして、誰もいないんだろう
一緒に旅をしていたはずの父も母も弟も、友も。
誰の声も気配も感じ取れないことが、ツァリーの不安を増幅させる。
最後に聞いたはずの暴漢達の怒鳴り声すら聞こえない。穏やか過ぎる空間は居心地が悪かった。
「おい」
不意に聞こえた声に、慌てて視線を巡らせると金色に輝くモノが目に入った。それが人間の髪の色だと気付いたのは、さらさらと動くからだ。
「おい、聞こえないのか?」
急かすような声に何か返事をしようと思うのだが、どうにも声が出ない。
長いこと緊張状態にあったために、体が拒否しているようだった。
「……ぁ、あ、はい、聞こえます」
かすれた声がいくつか出て、それからようやく返事の形になる。喉が酷く痛い。
「喉が渇いているなら、水を持ってくるぞ?」
「……で、きれば」
「ん、わかった。今ついでやるから待っていろ」
少し乱暴な言葉づかいではあるが、こちらを労わってくれているのだと分かり安心した。聞きたいことがたくさんあるのだが、どうせ喉が潤わなければ声も出ない。
ほれ、という何となく間の抜けた掛け声とともに渡されたガラスのコップから一息に水を飲む。飲み干すとすぐに注がれるので、ツァリーは何度も水を口に運んだ。
一体どれほどの乾きがあったのか、と自分自身でも驚くほどに飲み終わったころ、ツァリーはようやく水をくれた人を真正面から見て ――目を見張った。
自分よりずっと幼い顔。輝く黄金の髪。宝石と見紛うばかりのオッドアイ。
それらに全くそぐわない緋。あるいは朱。
温度を感じ取れない色のコントラストがツァリーの視界を覆っていた。
「それ……」
「ん? ああ、血だ」
手抜かりなく、ツァリーの手からコップを抜き取りながら、彼は淡々と答えた。空は青くて、地面は茶色で、葉は緑。そういう揺らがない事実を述べるかのように、言葉を差し出してきた。
そのせいで、一瞬反応が遅れて、そして弾かれるように彼に詰め寄る。
「そ、れは! それは!」
「そうだ。お前と共に居た奴らの血だ」
言い淀んだ事実が、彼の手によって肯定された瞬間、ツァリーは再び意識を失い、次に目覚めたときには、彼は居なくなっていた。
ツァリーに事情を説明してくれたのは別の女の人だった。
共に旅していた人たちは、自分と弟のガイルを除いて、全員殺されていた。
二度目は、それから一月後のことだった。
「お前に選択肢をやる」
前置きなく彼は切り出した。
相変わらず、神の造形物としか思えないほどの美しい顔と、年齢にそぐわない温度の感じ取れない声だった。
戸惑っているツァリーとガイルに一切配慮を払う素振りすらなく、彼は質問を重ねた。
――「生きたいか? 死にたいか?」
――「自由になりたいか? 安全になりたいか?」
――「兄弟はともにいたいか?」
そうして出されていく質問に何度も答えたのち、彼は「そうか」と短く答え、沈黙した。
その沈黙も、見通すような瞳も空恐ろしくてずっと下を向いていると、いつのまにか彼は席を立っていた。
三度目に会ったのは、豪奢な神殿の一室でのことだった。
と言っても、ツァリー達の前に座っていたのは大人の男で、彼はその後ろに控えていただけだ。
神官と思しき、それよりも少し違うような、男の後ろで彼はただ無感動にツァリーを見つめていた。
「お前の希望を聞いた結果、生きる道を二つ提示する」
差し出され2つの紙をひっくり返すと、そこには目を疑うような文字が躍っていた。
それぞれについて男が説明をする間、彼は一度も口を挟まなかったし、ツァリーは気にする余裕すらなかったので、この場面で会ったと言えるかどうかに自信はない。
とにもかくにも、確かに彼はあの場に居たし、ツァリーは自分たちの道を選択した。
その日以降、ツァリーは生まれ変わった。
四度目以降については、それほど特筆すべき事柄はない。
彼はツァリーの行く様々な場所で待ち構えていた。
その過程で、ツァリーは彼の名前を知り、彼の過去を聞き、彼の覚悟を見た。
彼が自分たち以上に孤独であること。それでも、彼の持てる全ての力を使って自分たちの命を守ってくれたこと。実は無限の選択肢を与えてくれていたこと。
時々、不器用な仕方で伝わるそれらに、ツァリーは何度も心を温められた。
もはや彼と弟以外は呼ぶこともない"ツァリー"という言葉が鼓膜を揺らすたびに、心からの感謝が沸き起こっていた。
もはやそれは忠誠心と名付ける方が適切かもしれない。
ガイルも多分そうだろうと思う。
彼の道に憧れ、彼の後を追ったことは、一目瞭然だ。もちろん、その中には平民に下ったガイルと貴族となった自分とが会うためにはそういう方法しかなかったというのも含まれているだろう。しかしながら、一番の理由は多分彼だったことをツァリーは確信している。
その背中だけを見つめてガイルは歩き、その瞳に見守られてツァリーは進んでいったのだ。憧れるな、と言う方が無理がある。自分よりずっと年下で、あの場面以外に交わりようもない彼に全幅の信頼を寄せる自分をツァリーは笑いそうになったことが幾度もある。それでも、それは確かに交わり、ツァリーは彼の駒になることを甘んじて享受したのである。
ツァリーの恋心であるとか、道徳心であるとか、愛情であるとか、憐憫であるとか。
そういった種々の感情とは別の部分で、自分たちは彼を絶対の存在としているのだ。もしもこの世界に、神がいようとも大帝が生まれようとも、彼を優先するというのは、今なお続く確定的予感である。
ツァリー、と彼はあの日、確かな覚悟を持って呼んだ。呼ばれた、とわかった。
彼が背負ってきた数多のもの、誇り。彼が生まれてから、もう一度生まれてから、ずっと抱え続けてきた矛盾を清算するつもりなのだと理解できた。
「ツァリー。俺は選択する。お前も選択しろ」
年月を経ても決っして変わることのない、無愛想で無遠慮で直截で、やさしい言葉。
ツァリーの心を揺さぶる、彼が今現在身につける完璧な言葉遣いや態度よりもずっと粗野で温かみの感じ取れる仕草で、彼は選択肢を差し出した。
あの日のよりもずっと多い選択肢を。
それは、「選択」ではなく「自由」を意味するのだと、ツァリーは十数年を経て理解した。
彼は操り人形だった。
心を雁字搦めにされた哀れな人形。
肉体を縛られるよりもずっと哀れで、哀れだった。
空があることを知っていた。そこに雷を生み出すことも雲を生み出すことも出来た。
それでも、何が正義かを彼に教える人が居なかったのだ。
誰を信じれば良いかも、誰のために世界を操ればいいのかも彼は教えられなかった。
他人がどうすれば良いかは幾らでも解かるのに、自分が何を為すために生み出されたのかすら解けずに居た。やっと見つけた先で、彼は絶望したのだ。自らの間違いを嫌というほど突きつけられて。
これから犯す間違いすら、必要悪なのだと知って。
この国に棲みついた暗雲を払うためには偽りが必要だ、と彼は言った。
失われる命を正確に試算して見せた。誰の命かまで予言して見せた。
その上で、全てを明らかにした上で、彼はツァリーを真っ直ぐに見つめた。
お前はどうしたい? と。
愛する人全てを裏切って。一生罪を背負っていくことを理解してなお、彼を助けたいと思った。
傷ついてなお、死するという選択肢を選び取れない人形。
せめて、その糸の一つを切ってあげたいと願って。
だからこれは私の役割なのだと、ガイルに笑うことが出来た。ガイルは静かに肯定した。
それが、ツァリー=イップスの最後の選択だった。